2RC143/RC144 HONDA
ホンダ2RC143/RC144はホンダにマン島TTレース初優勝、1961年の125ccクラスの個人/メーカー選手権をもたらしたマシンである。しかし、順調だった250ccと比べ125ccクラスは苦心の連続だった。
RC144
1960年、ホンダは250ccクラスではシーズン終盤、MVアグスタに迫る活躍を見せメーカーランキング2位を得た。しかし、125ccクラスはそれほどでもなくMV、MZに続くメーカーランク3位に留まったし、表彰台に上ることもなかった。当時のホンダチームの監督である河島喜好氏(1973年に本田技研工業2代目社長となる)によると「耐久性は心配ないが、他車よりあと一息パワーが足りなかった。それとミッション系統のトラブルもあった」ということである。このため、1961年シーズンに向かってこれらの改良を行うとともに、車体関係の改良も行われた。
1959年からのホンダレーサーの特徴は気筒当り4バルブ(以下単に「4バルブ」という)だったが、当時はホンダもそれほど4バルブの優位性に自信があったわけではなかった。そして1961年シーズン用の125ccマシンは2バルブのRC144を中心に開発が行われたのだが、60年型のRC143Eエンジンの改良型・2RC143Eも並行して開発が行われた。下左4枚はシーズン前に荒川テストコースで公開されたRC144E/RC144Fである。エンジンは直立に近く、冷却風取入口は小さく、排気管は未塗装である。
上右端は現存するRC144Eエンジン(エンジン番号RC144E0002、RC144Eの次の「-5」の文字が抜けている?)である。
エンジンは10度前傾の2気筒でボア・ストロークは42×45mmのロングストローク、カムシャフトの駆動はRC143Eと同様にエンジン左のべベルギア・シャフトによる。点火用マグネトはRC143Eと異なりエンジン前に置かれている。キャブレターはRC143Eのフロート別体式からフロート一体型になった。
車体はシングルバックボーンからダブルバックボーンタイプになり、前フォークはインナースプリングタイプになった。またフェアリングがさらに流線型になった。
第1戦スペインGP ホンダはファクトリーチームとしては出場せず、60年型RC143ベースのマシンRC143E/RC143Fが個人出場のトム・フィリス(下左端)、ジム・レッドマンに託された。フィリスのマシンの前フェンダーには「C」、レッドマンのマシンの前フェンダーには「J」と書かれている。当時のホンダは複数のマシンを区別するためにマシンにアルファベットを書いていた。60年TTで故鈴木義一が乗ったRC143にも「J」と書かれている。 レース(27周)ではマイク・ヘイルウッド(EMC)がスタートよく飛び出し、1周目を終わって2位Grace(ブルタコ)に3秒のリードを奪う。フィリス(下左端)、レッドマンは3、4位、3周目に2人は2、3位に上がった。ヘイルウッドは10周目には2位に24秒差を付け快調、さらにリードを広げた。しかし、 |
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15周目頃からヘイルウッドのEMCはスピードが鈍る。排気管が裂けてしまったのだ。22周目にはフィリスがヘイルウッドに追い付き、そのままリードを広げホンダに世界GP初優勝をもたらした。もちろん、フィリス自身にとっても初優勝である。2位はエルンスト・デグナー(MZ)、3位レッドマン、4位ヘイルウッドだった。なお、レースタイム等は中野広之さんのHPにありますので、ご覧ください。 |
第2戦西ドイツGP
RC144E/RC144Fが初登場し、フィリス、レッドマン、故島崎貞夫に託された。フィリス(上左)、島崎(上右)のマシンの前フェンダーにはそれぞれA、Bと書かれている。おそらくレッドマンのマシンはCだったのだろう。おそらく、それぞれ1号車(RC144F-50001)、2号車、3号車なのだろうか。上右端はこのレースで初めてホンダに乗ったルイジ・タベリの2RC143E/RC143Fでゼッケン向かって左に「A」と書かれている(RC143F-50001?)。
レース(15周)ではフィリスがスタートよく飛び出しリードを奪うが、デグナー、アラン・シェファード(MZ)が続く。やや遅れてレッドマン、タベリ、さらに島崎、ハンス・フィッシャー(MZ)。 フィリス、デグナーの争いは激しく、1周終わりにはデグナーがリードを奪うが、フィリス、シェファードが僅差で続く。レッドマンは2周目転倒、再スタートするが、最下位に落ちる。フィリスはシェファードに抜かれ、シェファードのスリップストリームに入るが、エンジンがオーバーヒート、3位グループに落ちる。島崎は7位、レッドマンは10周目には10位に上がった。フィリスのエンジンは徐々に不調になり、順位を下げ、12周目にはピットイン・リタイア。タベリは快調だったが、MZには及ばない。レースは結局、デグナー、シェファード、ヴァルター・ブレーメ、フィッシャーのMZ1-2-3-4。タベリは5位、島崎は6位、レッドマンは7位だった。MOTO-GPの公式サイトでは高橋が6位になっている件についてはこちらを参照。
第3戦フランスGP
ホンダのHPによるとRC144が走ったのは第2戦のみで、第3戦以降は「RC143のエンジンをRC144フレームに搭載した2RC143」が走ったということである。しかし、第2戦から第3戦までのインターバルは1週間しかなくテストの時間も十分ないのにそんなことをしたのだろうか、という疑問がある。しかし、下左のスタート時の高橋国光のマシンを見ると車体は明らかにRC144系だが、フェアリングから見えるシリンダーヘッドは確かに前傾しており、確かに2RC143E/RC144F仕様のマシンが走ったと考えられる。フィリス、レッドマンのマシンもおそらく同仕様だったのだろう。また、オーバーヒート対策としてフェアリングの空気取入口が大きく開けられた。
なお、RCの前の数字だが、現存するホンダが保有する61年型125cc2気筒を始め、「RC」の前に数字が入る刻印を持つエンジンは複数あり、「RC143系のエンジンをRC144のフレームに搭載した2RC143」という表現はおかしい。ホンダの技術者だった八木静夫氏が書かれた「世界二輪グランプリレースに出場したホンダレース用エンジンの開発史」でも「○RC」と「RC」とは別のエンジンとして扱っている。
第4戦マン島TT
このレースではホンダにとって何としても勝たなくてはならないレースだった。125ccクラスにはフィリス、レッドマン、島崎に加え、タベリにも新型マシンが与えられた。さらにマイク・ヘイルウッド、谷口尚己にも新型マシンが与えられた。ヘイルウッドは本来、60年型マシンに乗るはずだったが、ヘイルウッドの父、スタンがホンダに「61年型を与えてくれるなら彼(スタン)のディーラー網でホンダを販売する」という圧力をかけた結果、最終プラクティスの前にタベリのスペアマシンが回ってきた。したがって、少なくとも7台のRC144Fが同時に存在したことになる。
下左端の整備中のフィリスの2RC143E/RC144F(写真に写っているのはタベリだが、シートストッパーには「トム フィリス」と書かれたテープが貼られている)。その奥に写っているゼッケン5のタベリのマシンもフェアリング上から見えるシリンダーヘッドからすると同型車である。手前はレッドマンの2RC143E/RC143F。下左の写真は下左と同じ日に同じ場所で撮影されたようだが、右側には125ccマシン5台が並んでいる。手前2台の車体はRC143F、奥3台の車体はRC144Fで、ゼッケン2はレッドマンのマシンである。また、一番手前のマシンを拡大したのが下右でエンジンは | |
RC144Eと思われる。このようなことから一度に全ての2RC143E、RC144Fがマン島に登場したのではなく、公式練習期間中に第2陣、第3陣のエンジン、フレームがマン島に送られたのだろう。また、ヘイルウッドと他のライダーのマシンのフェアリングは異なる。 |
TTレースは2台ずつゼッケン番号順に10秒間隔でスタートする。レース(3周)の最初のスターターはAレッドマン、ホンダ勢ではC谷口、Dタベリ、Fヘイルウッド、Kフィリス、N島崎と続いてスタート。1周目27km地点でシェファードがエンジン故障で脱落、すでに5位にデグナーがいる以外は上位をホンダが独占していた。1周目終わりではヘイルウッドが2位タベリに5.4秒差のトップ、2周目に入るとヘイルウッドは彼より10秒先にスタートしたタベリを抜いた(タイム上で10秒余りのリードを奪った)。デグナーはエンジン故障に見舞われ2周目20km地点で脱落、ホンダは上位6位を独占。3周目、ラムゼイヘアピンをヘイルウッド、タベリはほぼ同時に通過したが、バンガロー(山岳鉄道線路を横切る)ではタベリはヘイルウッドを(コース上)でリードしていた。そしてそのままリードを保ちゴールしたが、タイム上ではヘイルウッドが7.4秒差で優勝、ホンダにTTレース初優勝をもたらした。3位はフィリス、4位レッドマン、5位島崎とホンダ勢が上位を独占した。谷口はブレーキトラブルで遅れ、レンセン(ブルタコ)、ゴッドフレイ(EMC)に抜かれ8位だった。(上右端はクレッグ・ニー・バー地点でのトップ争い(3周目?))