第5戦オランダGP(ダッチTT)
honda
下左は島崎のマシンだが、シートストッパーに「B」と書かれており、西ドイツGPでの島崎のマシンと同じことから、同じフレームが使用されたと思われる。下中のマシンも島崎のマシンと思われるが、スイングアームピボット部の前のエンジン装着アタッチメントが見える。
レース(14周)ではムジオル(MZ)が好スタート、フィリス、島崎、ヘイルウッド、マリーナ(ヤワ)、タベリと続く。早くもフィリス、ヘイルウッドがトップ争いを始める(1周目タベリはリタイア)。5周目、ヘイルウッドはトップに立ち、0.5秒差を付けたが、9周目には再びフィリスに抜かれた(島崎は8周目リタイア)。しかし、すぐトップを奪い返した。激しいトップ争いのまま13周目に入るが、ヘイルウッドの前輪が周回遅れの野口種晴(ヤマハ)の後輪に接触、2人とも転倒、フィリスがそのままトップでゴール、レッドマン2位、シェファード3位、このレース初めてホンダに乗ったヒューベルツは8位だった。 | |||
島崎の2RC143E/RC144Fに跨るデグナー | 2RC143E/RC144F(島崎車?) | フィリスとヘイルウッド |
第6戦ベルギーGP
レース(8周)ではフィリス、レッドマン、ヘイルウッド、タベリ、デグナーの順で第1コーナーに入る。そしてフィリス、レッドマン、タベリの3人が激しいトップ争いを演じる。デグナーも追い上げ、3周目にはトップグループに割って入る。ヘイルウッドはオイル漏れで4周目リタイア、そしてホンダの3人はデグナーとの差を広げる。6周目には島崎がブレーキ故障でリタイア。3人は激しい争いのまま、最終ラップへ突入、タベリが僅少差で優勝した。左はゴールの瞬間。そして、このことが重要な個人チャンピオン争いで後にホンダを苦境に立たすことになるとは予想できなかっただろう。6戦を終わってホンダ5勝、MZ1勝だったのだから。
第7戦東ドイツGP
第8戦アルスターGP
第9戦イタリアGP
高橋は公式練習で転倒・負傷し、レースは欠場。レース(18周)では1周目はフィリス、レッドマン、タベリ、田中禎助(左)のホンダ勢にデグナーが割って入るが、2周目終わりにはデグナーがホンダ勢をリードし、その差を徐々に広げる。10目終わりにはデグナーと2位集団との差は7秒弱、2位集団はレッドマン、フィリス、タベリ、田中でその差は1秒もない。デグナーはその差を守りトップでゴール、田中は最終的に2位でゴールした。3位タベリ、4位フィリス、ヒューベルツ(ホンダ)10位。この結果、デグナーは世界選手権争いでフィリスをリードすることになった。
第10戦スエーデンGP
レース(16周)デグナーが好スタートし、ホンダ勢との差を広げるが、3周目、クランクシャフト破損でリタイア。しかし、フィリスのマシンも不調で、6周目には4位に落ち、大きく遅れる。レースは残るホンダライダー同士の争いになったが、田中は9周目転倒リタイア。レースはタベリ(左)、高橋、レッドマン(エンジン不調)の順でゴール、フィリスは2周遅れの6位だった。
第11戦アルゼンチンGP
スエーデンGPを終わり、メーカー選手権より重要な個人選手権を争うフィリスは「G,0,G,C,G,E,E,4,3,1で40点」(○数字は有効得点にカウントする得点)、デグナーは「E,G,E,0,0,3,G,E,G,0で42点」だった。最終戦でフィリスが優勝すれば、デグナーが2位でもチャンピオン、フィリスが2位でデグナーが3位なら同点だがフィリスがチャンピオン(優勝回数・2位回数は同じで、3位回数がフィリスが多い)、フィリスが3位ならデグナーがチャンピオンという形勢だった。つまりデグナーの順位は関係なく、フィリスの順位だけが問題だった。
しかし、スエーデンGPの直後、デグナーは行方不明になり、しばらくして亡命したことが明らかになった(この経緯については中野広之さんのHPをご覧ください)。そして最終戦はライバルの全くいないレースとなり、フィリスが筋書きどおり優勝、タイトルを手中にした(左は優勝したフィリス)。
1961年シーズン前、過去3年連像125ccタイトルを手にしていたMVアグスタが撤退したため、この年の125ccクラスはMZ(東ドイツ)とホンダの争いになると思われた。しかし、順調だった250ccと比べ125ccクラスは苦心の連続だった。ホンダ125ccは11レース中8レースで優勝したが、重要な個人タイトルは冷や汗ものだった。1961シーズン前の時点ではホンダレーサーの基本となる形がまだ定まっていなかったことが、その原因だった。しかし、1961年の教訓は無駄ではなく1962年以降のホンダレーサーの基本形が変わることはなかった。