鈴鹿サーキットの設計者は誰?
結論
設計の範囲毎に以下のとおりと考える(敬称略)。
〇コースレイアウト設計 塩崎定夫(ホンダ) ジョン・フーゲンホルツは助言者
〇概略設計(コースレイアウトを含む) ジョン・フーゲンホルツ/塩崎定夫(ホンダ)
〇詳細設計 不明(ホンダまたは設計コンサルタント)
なお、設計者の定義を建築基準法第2条第17号に準じ「その者の責任において、設計図書を作成した者」とするなら、概略設計者(コースレイアウトを含む)も塩崎になるが、フーゲンホルツの貢献を考慮してこのようにした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 コースレイアウト案の変化
鈴鹿サーキットの開発計画が開始し、1960年8月に最初のコースレイアウト案(以下、コースレイアウト案を「コース案」とする」)がホンダの塩崎定夫により設計されたが、その後、何回もコース案は変更された。下はよく知られたコース案の変化(以下「コース案変化1」)。
時代とともに変化したサーキットを辿る「鈴鹿サーキット編」前編 | JAFモータースポーツ
一方、これと異なる図が「鈴鹿サーキット開場50周年記念
アニバーサリーデー・オフィシャルブック&全レース優勝者総覧」(モビリティランド2012)に掲載された。下はこの掲載図と同じと思われる図(以下「コース案変化2」)で、図番号、日付を加筆した。
高橋二朗|鈴鹿サーキット開場60周年記念インタビュー〜「私と鈴鹿サーキット」|モータースポーツ|鈴鹿サーキット (suzukacircuit.jp)(リンク切れ)
各々の最終案と開業時のコース図(本頁末尾)を比較するとコース案変化1の方がずれが大きいのでコース案変化2を見ていく。
注1:図6と開業時のコース図(本頁最後)では第1〜第2コーナー辺りが異なるが、1966年8月4日撮影の航空写真では図6の形状である。
注2:Amazon.co.jp:
フーゲンホルツさんの日記: 〜1961年1月真実の鈴鹿サーキット設計記 : ジョン・フーゲンホルツ, 中島剛彦
(27頁2530円、以下「文献1」)の表紙の写真61nYpzgLDRL._SL1222_.jpg
(1000×1222) (media-amazon.com)
と比べると、図3は西ストレート終わりの半径等の違いがある。
下左は1961年1月27日のフーゲンホルツ設計結果提出時と思われる写真で、本田宗一郎を交えて議論が行われたようだ。議論の結果、さらに変更されたのが図3なのだろうか?
注3:図1、図2等もコース案変化1の図と異なる部分がある。各段階で複数案があったのだろうか?
図1、2のインフィールド部(今のS字)について、設計した塩崎は次のように語っている。
「当初はですね、まあこっちも、まあそのレース、走るというか見たい方の心裡で、野次馬根性もありまして、グランドスタンドの前でストレートはあるはヘアピンはあるは、いろんな場面がですね、見たい場面が全部集められないかという、ちょっと複雑なものを作ってしまった訳です。」(日本モータースポーツ史2(動画)2分2秒〜) |
「当時、ホンダはまだ2輪メーカーでしたが、4輪の走行も充分考え、ヨーロッパのサーキットを参考にして、”2&4”のコースを特に念入りに研究しました」 「(ニュルブルクについて)〜ピットひとつひとつにシャッターが付いており、4輪のメンテナンスも容易にできそうでした。”なるほど、こういうのが4輪レ-スに適しているのか”と思って帰ってきたのを記憶しております」(オートスポーツ1994-6-1) |
さて、下左は建設予定地の1959年5月26日撮影の航空写真。下右はこれに塩崎が設計した図1(1961年8月26日)を重ねたもの。なお、航空写真の撮影高度は5400mで写真の中心にサーキット予定地がないため実地形とのずれが大きく、写真上のコース位置はおおよその位置である。
溜池を避け、道路、谷間を陸橋で横切り、谷間を活かし、場所によっては谷間を埋めるなど、立体パズルを解いたようなコースレイアウトである。その後のコース案修正もこの立体パズルの解答があればこそである。
図1をベースに、塩崎等による1960年12月1〜31日のヨーロッパサーキット視察後に塩崎が設計したのが図2。
そして、ヨーロッパ視察の際にフーゲンホルツ(オランダ)にサーキットの設計を要請し、フーゲンホルツが1961年1月に来日しレイアウト設計を行ったのが図3。
図2と図3を重ねてみた。薄線が図3(フーゲンホルツ案)、濃線が図2(フーゲンホルツ修正前)で、フーゲンホルツ案は正に修正案であることが分る。なお、出典は図を写真撮影したものであるため、図が若干歪んでいる。このため、濃線と薄線の細かいずれはあくまで参考とされたい。
図2に対してフーゲンホルツが「ヘアピンでは急減速・急加速の状態になるから、もの凄い排気音が出る。その音でピット作業もできなくなるぞ、ムチャだ」と評価した(「サーキット燦々」(大久保力、三栄書房2005)とされる。「ヘアピン」からすると、フーゲンホルツが見たのはhttps://motorsports.jaf.or.jp/enjoy/topics/2020/20200618-02 の図2かもしれない。 ただし、フーゲンホルツが設計に関与したとされるハラマ(スペイン)ではピット、パドック付近にヘアピンがある。下左が現状、下右は完成(1967年)当時で、パドック左のヘアピンは現在よりパドックに近かった。 ![]() ![]() 図1、図2ではヘアピンのエスケープゾーンを確保するとパドックの大きさが制限されること、将来のパドック拡張も困難なことが問題で、騒音は補足的な理由のように思える。 |
フーゲンホルツ設計後もコース案の大半が変更設計された。下は図3、図6(最終)を並べたもので図3に完成後のコースが薄く見える。
図3と図6を重ね合わせてみた。薄線が図3(フーゲンホルツ案)、濃線が図6(最終案)である。なお、濃線と薄線の細かいずれ参考とされたい。
図3と図6では、メインストレート、スプーンカーブ、西ストレート、最終コーナーの位置が異なる。そしてS字カーブのカーブ数が異なるのをはじめ、各カーブの形、半径が変更され「よく似たサーキット」になった。例えば西ストレート終わりのコーナーは図3では450R程度で40度曲がるが、図6では130Rで60度曲がる。最終コーナーは図3では75度曲がるが、図6では95度曲がる。
コース案変更について、塩崎は次のように語っている。
「で、現実に走る方※とか、先ほど、そのフーゲンホルツの意見とか、ヨーロッパの実際の例を見ますと、まあ走る方は走り切れん訳ですね。曲がったり、大変なことになっちゃう。で、それを単純化して、こうはしたいけど、まあそのへんは省略しよう、こうしたいけど地形がちょっと無理だからちょっと曲げてみよう、という形で最終案になる訳ですけれども」(日本モータースポーツ史2(動画)2分22秒〜)。 ※ホンダの江端良昭によると、谷口尚己と鈴木義一だろうとのこと(https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk05/)。 「フーゲンホルツさんの意見は実際にはほとんど入っていません。修正する時も直したのはわたしですから」(Racing on 461(2012-1)、塩崎が87歳頃) これが「フーゲンホルツさんが設計した部分はほとんど残っていません」という意味ならそのとおりと考える。 |
文献1の表紙のコース図61nYpzgLDRL._SL1222_.jpg
(1000×1222) (media-amazon.com)では、西ストレート終わりのコーナーは800R程度で40度曲がっており、スプーンカーブから最終コーナーまでが実質一つの直線になっている。図2も同様。 フーゲンホルツは「1.9km(1.3kmの誤記か?)の長いストレートの終わりが高速コーナーになっていることについては、なんら異存はない」(文献1)と語っているのはこのこのことを指しているようだ。 なお、完成後の鈴鹿の西ストレート長は約900m。 |
下左は着工前(1959.5.26)、下右は着工直後(1961.8.22)のコース中央付近の航空写真(地図・空中写真・地理調査
| 国土地理院 (gsi.go.jp))で、下右ではかなり伐採・整地されコースが姿を見せている。下右に見えるコースは明らかに図3(フーゲンホルツ案)と異なり図4(1961.5.29)または図5(1961.7.8)である。S字あたりは図5のようだが、西ストレート終わりの左コーナー、最終コーナーの半径等からすると図4のようだ。
![]() |
![]() |
1959年5月26日 | 1961年8月22日 |
そして、フーゲンホルツ案の後のコース案変更について、その都度、ホンダからフーゲンホルツに意見を求めた。この時点でのフーゲンホルツの関与は助言である。様々な要素を考慮して修正案を作成したのはホンダだからである。
文献1において著者の中島は「フーゲンホルツ家によればフーゲンホルツ氏はオランダに帰国してからも手紙によって、リモートで鈴鹿プロジェクトを指揮していたのである」としているが、CADがなく連絡手段も限られた当時、コースレイアウト変更設計がオランダで可能だったのだろうか? 私はホンダ側が変更案を作成しフーゲンホルツの意見を求めたものと考える。 中島がいう「指揮」の具体的な内容が知りたいところである。 こちらは図4のさらに詳しい図。 フーゲンホルツが設計に関与したコースレイアウト案と完成したコースが異なる例としてニベーレ(Nivelles-Baulers、ベルギー)がある。 |
2 サーキットの設計
(1)法令上の「設計」
都市計画法上の「設計」とは同法第30条の開発許可申請書に記載すべきものであり、「開発行為」とは主として建築物の建築又は特定工作物の建設の用に供する目的で行なう土地の区画形質の変更である(同法第4条第12項)。
許可基準は同法第33条で規定されており、サーキットの土木工事に関係しそうな事項として、
〇開発区域外の相当規模の道路への接続
〇雨水、汚水の排水
〇給水施設
〇地盤の沈下、崖崩れ、出水その他による災害の防止措置
〇道路、鉄道等による輸送の便
が審査対象となるだろう。
ただし、都市計画法は1968年制定で1961年当時は旧都市計画法(1919年制定)が施行されていた。鈴鹿サーキットに関する開発行為についてどのような法令が適用されていたか分らないが、上記5事項は常識的なものであり、これらの設計なしには鈴鹿サーキットを建設することはできない。
2024年現在、鈴鹿サーキットには深井戸を水源とし急速ろ過処理による専用水道(能力1980m3/日)がある。当然、汚水処理施設も1980m3/日前後の能力を有すると思われる。1961年当時、鈴鹿市に下水道はなかったので、鈴鹿サーキット独自の汚水処理施設が設置されたはずである。現在も鈴鹿サーキットは鈴鹿市下水道の除外区域である。 また、敷地内の配水経路、集水・排水経路、それらの諸元も定めなければならない。雨水の集排水経路も同様。 |
(2)フーゲンホルツが行った「設計」
文献1によればフーゲンホルツの日本滞在は1961年1月20日〜1月29日で、設計作業は鈴鹿に到着した1月23日から始まり、設計を終えた後に観光し、1月27日に東京で本田宗一郎に設計案を説明したとのことである。従って設計期間は最長3日間である。
文献1によるとフーゲンホルツはユトレヒト大学法学部卒だが、独学で土木工学を学んだとしても、一人だけ、日本の基準(日本語)の壁、3日間という設計期間から考えて、詳細設計を行うことは不可能である。
文献1にはフーゲンホルツがオランダに帰国後に「オランダAUTOREVUE」に寄稿した記事の日本語訳(オランダ原文→英語に翻訳→日本語に翻訳、以下「フーゲンホルツ記録」)がある。フ−ゲンホルツ記録によれば、フーゲンホルツはコースレイアウト、コース幅だけでなく、次の施設等についても図面等及びこれらの必要性を示す書類を作成したとのことである。
A コースから観客までの距離
B エスケープゾーン
C フェンス
D トラックマーカー(コース標識)
E
ピットレーン
F パドック
G コントロールタワー(計時等)
H その他の建物(救護、オフィシャル、プレスルーム等)
I スタンド
サーキットにとって、コースレイアウト、コース幅だけでなく、このような事項も重要であり、A〜Iが整わなければサーキット足りえない。そして、ホンダに欠けていたのは、これら(コースレイアウト・幅を含む、以下「概略設計」)をどのようにしたら二輪、四輪の国際レースを開催できるものになるか、レース参加者、観客等を満足させるものになるかの知見だったのだろう。既存のサーキットをそのまま参考にするだけではなく、既存のサーキットの問題点の認識が必要だった。
富士スピードウェイの改修工事(2005年2月竣工)の設計はティルケによるものとされているが、工事を行った大成建設(富士スピードウェイ[改修造成]
| 大成建設株式会社 (taisei.co.jp))によると「設計・関連コンサルタント」は三菱地所設計となっているし、三菱地所設計も実績としている(富士スピードウェイ|PROJECT|株式会社 三菱地所設計
(mjd.co.jp))。 ティルケと三菱地所設計では設計の分担が異なり、次のようなことではないかと想像する。 〇コースレイアウト設計 ティルケ 〇概略設計(コースレイアウトを除く) ティルケ及び三菱地所設計 〇詳細設計 三菱地所 |
(3)鈴鹿サーキットの「設計者」
A
ホンダ側のコース案(図1、図2)設計には立体パズルを解くような作業が必要だった。フーゲンホルツのコース案(図3)はこのホンダ側のコース案を修正したものである。そしてフーゲンホルツ案後の大幅変更に関してフーゲンホルツは助言者であった。
B (2)-A〜Iに関してはフーゲンホルツに負うところ大である。コース案がフーゲンホルツ案から大きく変更されたために、(2)-A〜I(コースレイアウトを除く概略設計)もフーゲンホルツの設計から変更されたはずだが、設計にあたっての基本的な考え方はフーゲンホルツによって示されていたと考えられる。
C
ホンダとフーゲンホルツの契約がどのようになものか分らないが、おそらくはコンサルタント契約であり、詳細設計を含む全体設計の責任者は塩崎だろう。概略設計と詳細設計は繋がっており、詳細設計の過程で概略設計の見直しが必要になった場合の責任者も塩崎であろう。
D 詳細設計を行ったのはホンダ側である。ただし、実際に設計図を作成したのはホンダ側が契約した建設コンサルタントであろう。
このようなことを考慮すると概略設計におけるフーゲンホルツとホンダ側の寄与比は3:2程度と考える。
そして、「鈴鹿サーキットの設計者は誰?」という問に対して、私は設計の範囲毎に
〇コースレイアウト設計 塩崎(フーゲンホルツは助言者)
〇概略設計(コースレイアウトを含む) フーゲンホルツ/塩崎
〇詳細設計 不明(ホンダまたは設計コンサルタント)
なお、設計者の定義を建築基準法第2条第17号に準じ「その者の責任において、設計図書を作成した者」とするなら、概略設計者(コースレイアウトを含む)も塩崎になるが、フーゲンホルツの貢献を考慮して上のようにした。
ホンダの飯田は次のように語っている(バイカーズステーション2004-10)。 「ヨーロッパの出張に出るときは、鈴鹿はまだ整地も終わってないんですよ。できてたのは石膏模型だけです。その後でフーゲンホルツを日本に連れてきたんです。」
「表向き、鈴鹿サーキットはオランダのサーキット設計者、フーゲンホルツ氏がコースのレイアウトを決めたことになってますけどね。彼は主体設計者※ではないんです。だって石膏模型ができたあとで、私が彼を連れてきたんですから。」 「この前、オランダに旅行したときも感じたんですけど、モーカク(注:Hans Moerkerk)さんとか、リーマスマ(注:Ton Riemersma)さんとか、鈴鹿に力を貸していただいたフーゲンホルツさんとかたくさんいるんですね。ああ、ホンダっていうのはオランダの人たちに大変なお世話になったきたんだって思いましたねえ。」 ※「主体設計者」という言葉を私は知らないが、飯田は「主体設計者ではない」を次の意味で使ったのだろう。 〇「(設計の)主体、設計者ではない」 ただ、飯田の言葉が示すようにフーゲンホルツなしに鈴鹿はできなかったのである。 |
(1)-1 サーキット設計における外国人の起用について、ホンダの飯田は1994年、2004年に次のように語っている。
「突然サーキット担当(になることが)決まったのです〜最初は真冬のヨーロッパに、レース場視察ということで出かけました。その時、本田社長にいくつかアドバイスを受けました。ひとつは日本人スタッフだけではなく外国人のアドバイスを受けた方がよいということ〜」(オートスポーツ1994-6-1)。 「〜本田宗一郎さんの考え方の優れていたところだったんでしょうねえ、いくらオレたち日本人の手で造ったってね、サーキットっていうのは他のメーカーの人たちも使うことだし、やっぱり外国の人がやったんだということにしとかねえといけないだろう、誰が探して来てもらえって言ったっていうんですね。まあ、少々乱暴な言い方かもしれませんけど、そういう意味のことを言ったっていうのは、私も河島※さんから聞いてますから、河島さんの方は、本田宗一郎さんと直接その話をしたでしょうからね。」(バイカーズステーション2004-10) ※当時のホンダレース部門の責任者。1973年に本田技研工業2代目社長となった。 |
「本田さんは「オマエが作ったコースでは誰も信用しないから、誰かガイジンを連れてこい。ガイジンなら誰でもいい」と言うんです」(Racng
on 461(2012-11) インタビュー時点で塩崎は87歳頃で4年後に没したことを考慮すると、塩崎が本田社長から直接指示を受けたのか、間接的に指示を受けたのかはわからない。 本田社長の発言内容は、趣旨としては(1)-1と大きく異なるものではないように思える。 |
「すでにヨーロッパでの活動によって多くの知人を持っていた飯田は、オランダでホンダ製品を取り扱うモーターサイクルディーラー、ヘッド・モト・パリス(注:Het Motorpaleis)のオーナーMr.モーカルク(注:Hans Moerkerk)にその件を相談してみた。彼は、世界GP挑戦初期の不慣れなホンダ・チームの転戦に同行し、物心両面に渡って多大な世話になった人物であり、飯田とも心が通う信頼の置ける人物だった。そのモーカルクが推したのは、同じオランダ人のジョン・フーゲンホルツという人物だった。当時フーゲンホルツはオランダのザンドフォールトサーキットの支配人であり、コース設計の権威としても知られた人物だった。アッセンやホッケンハイムの改修を担当したのも彼であり、その実績には充分なものがあった」(注:ホッケンハイムの改修は鈴鹿サーキット完成より後の1965年) |
「それで私がヨーロッパに探しに行ったんです。そのときにもモーカクさんにずいぶん助けていただいたんだけども、あの人がいいだろうって言ってくれたのがフーゲンホルツ氏だったんですね。」 |
「1960年からはオランダのモーカクさんと、その仲間のリーマスマ(注:Riemersma)さんに、ずいぶんお世話になっていましたんで、どれだけ助けられたかわかりませんね」 「(1960年)私たちマン島のレースを終えてから、チャーター機でオートバイと一緒にオランダの小さな飛行場に降りたんです。その空港に迎えに来てくれていたのはモーカクさんで、この時が初対面なんです。」(バイカーズステーション2004-10) 「ヨーロッパ各国を転戦するわけですが、ホテルなどの手配は、オランダのロッテルダムのディーラーにお世話になりましたよ。世界中のモーターサイクルを扱っている大きなお店の社長さんでしたが、大のホンダファンになってくれて、私のブロークンな英語でも問題ない。ハートが通じ合うというか〜オランダと日本は戦争で敵同士だった。お酒を飲むとそういう話も出ましたけれど、それぐらい腹を割って話せる間柄になれたんです」 (浅間から世界GPへの道: 昭和二輪レ-ス史1950〜1980(八重洲出版2008)) ※当時のホンダ輸入元はHet Motorpaleis(ロッテルダム、社長はHans Moerkerk)とR.A.M.O.(Riemersma Accessoires Motoren Onderdelen、エイントホーフェン、社長はTon Riemersma)。 詳しくはHet MotorpaleisとHans Moerkerk(リンク)。 |
「私たちはもうそのときは、フーゲンホルツの親父さんとはとうに親しくなってたんですね。というのは、私達の基地があったロッテルダムからけっこう距離はあったんですけど、当時F-1のレースも開催していた〜サーキットがありましてね、ザントフルトです。そこまで、よくオートバイの試運転で通ってましたからね。そのザントフルトの支配人をしていたのがフーゲンホルツさんだったんで、幾度も行くうちに親しくなっていたんですね。」(バイカーズステーション2004-10) |
「彼(フーゲンホルツ)と連絡をとり、設計が本格的にスタートしました。彼とは以前から面識があったので、設計を担当していた塩崎定夫さんを交えて話をしました。」(オートスポーツ1994-6-1) |
以上をまとめると次のとおり。
〇飯田はフーゲンホルツとMoerkerkと親しかったが、フーゲンホルツをサーキット概略設計者としては強く認識していなかった。
〇飯田が1960年8月にサーキット建設に関わるようになる。
〇本田社長が外国人のアドバイスを受けることを指示する。
〇塩崎等が1960年12月にヨーロッパサーキット視察に行き、飯田がMoerkerkに適切なサーキット概略設計者推薦を依頼。
〇Moerkerkはフーゲンホルツを推薦、飯田が本社の河島に電話し了承を得た。
〇塩崎等がフーゲンホルツと面談、日本でのサーキット概略設計を依頼した。
〇1961年1月下旬、フーゲンホルツは日本に滞在し、概略設計作業を行った。
(塩崎がフーゲンホルツ案を再設計し最終概略設計とした)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文献1著者の中島の記事について
文献1著者の中島は、他に次の頁も公開している。
鈴鹿サーキットの設計者はジョン・フーゲンホルツ氏です。 (takahikonakajima.com)
鈴鹿サーキットの設計者はフーゲンホルツ氏である。|Takahiko Nakajima (note.com)
中島の論旨は次のようだ。
A フーゲンホルツは優秀なサーキット設計者
B 塩崎はサーキット設計のノウハウも持っていないし、捏造、虚偽発言を繰り返す人物。
C オランダ人の発言は全て正しい
D 鈴鹿サーキットの設計者はフーゲンホルツ
Aに異論はないし、Dについての私と中島の意見の違いを議論するつもりはないが、問題なのはB、Cである。
(1) 「僕はオランダの知己に「塩崎定夫という日本人が自分自身が鈴鹿サーキットの設計者と名乗り出てフーゲンホルツは飾りである」と発言した事実を伝えていた。僕と交流のあったすべてのオランダ人はこれに憤慨していた〜憤慨するオランダ人の中にベテラン・ジャーナリスト、ロブ・ペテルソン氏がいた〜フーゲンホルツ氏が自信の言葉によって日本の鈴鹿サーキットを設計した一部始終を記録した記事〜を送ってくれた」(文献1・2-3頁)
〇塩崎が語った内容は次のとおり(再掲)で、「フーゲンホルツは飾りである」とは語っていない。
「本田さんは「オマエが作ったコースでは誰も信用しないから、誰かガイジンを連れてこい、ガイジンなら誰でもいい」と言うんです」 「〜フーゲンホルツさんの名前を出せばJAFでもどこでも話がスムーズに進みました。当時はそういう時代でした。日本人なら信用しないけど、ガイジンなら信用するというわけです(Racing on 461(2012-1))。 |
「フーゲンホルツは飾りである」に相当するのはライターの「事実上、フーゲンホルツは「名前貸し」、「権威づけ」のために担ぎ出された立場だったようだ」である。中島はライターの記事を塩崎の発言かのようにオランダへ伝えたのである。
フーゲンホルツの起用に「日本人なら信用しないけど、ガイジンなら信用する、というわけです」という側面があったことは否めないと思う。FIMにしろFIAにしろ日本の新参者にどういう対応をするか予想できないなら当然のことだろう。塩崎が語った内容は誤りではない。
しかし、この発言だけでは塩崎がフーゲンホルツの貢献がなくフーゲンホルツを飾りと考えていたかどうかまでは分らない。どういう質問をするか、どの発言を記事にするかはライターの意図が反映されるからである。
塩崎は2012年に次のようにも語っている。
「誰も知らない日本の塩崎という者がつくったコースでは走ってくれないから、外国人を連れてこいと。知り合いから紹介され、オランダのサーキットを設計したフーゲンホルツ氏にコースの監修を依頼し、来日してもらった。」(日本経済新聞本社版2012/8/28) |
この発言は、概略設計全体に対してなら疑問があるが、コースレイアウト設計に関しては特に問題はない。ただし、私は「監修」より「助言」の方が適切だと考える。
〇ペテルソンはフーゲンホルツが設計したコースレイアウトと完成したコースレイアウトが大きく異なるのを認識しているのだろうか? 認識した上でフーゲンホルツ手記を根拠に「鈴鹿サーキットはフーゲンホルツ設計」と考えているなら、設計についての認識が私とペテルソンでは全く異なるのだろう。
(2) 検証1 はたしてモーカルク氏は実在の人物だったのか?|Takahiko
Nakajima (note.com)
「〜オランダのロッテルダムでホンダ販売店「ヘッド・モト・パリス」のモーカルクの紹介により塩崎らがフーゲンホルツと知り合った」という話に対する検証結果と、それを元にした塩崎による捏造の疑惑)
「疑問を解消するためにFACEBOOKのオランダ・ベルギーでのホンダコミュニティ内で上記の2点を質問してみた。コミュニティには1950年代からモータースポーツに親しんできているベネルクスのホンダの状況をつぶさにみてきた数多くのメンバーが存在している。彼らからの回答は以下の通りである」
「結果1 ロッテルダムにはホンダ販売店はなかった。ホンダを輸入するHonda Motors NV
はロッテルダム近くにある都市Ridderkerkにある会社であったが、存在したのは1967年〜1979年であった。1960年時点でホンダ代理店がオランダには存在していなかったのである」
「結果2 モーカルクというファミリーネームはオランダには存在しない」(MOCALC、MOHKARUC、MOUKALCなどを照会した結果)
文献1の18頁では「〜オランダのフーゲンホルツ家やモータースポーツ関係者に確認したところ、この塩崎氏の発言や既存の日本の書籍でまことしやかに伝えられている「ロッテルダムのホンダ販売店」は1967年から1979年にロッテルダムの近くRidderkerkに存在した「Honda
NV」のことを指しているのである。時系列からみておかしい。また紹介してくれたモーカルク氏」についてオランダの友人は誰ひとりとしてそのファミリーネームをオランダ国内で聞いたことがないというのである。すべてが捏造の疑いがあるのである」 こちら(リンク)では「既存のホンダ側資料は、フーゲンホルツ氏をホンダに紹介したのはロッテルダムのモーカルク氏としている。しかし、このモーカルク氏が実在したという証拠は当方が取材した結果見つからなかった。このモーカルク氏の存在自体が虚偽の可能性がある。 |
虚偽1 「オランダのホンダ販売店のモーカルク氏の紹介でフーゲンホルツ氏とコンタクトをとった。」
上記「参考 フーゲンホルツの起用」のとおり虚偽ではない。
なお、Racing on
461(2012-1))には「オランダの販売店で相談したらフーゲンホルツという人がいるらしいと」とあり、「ホンダ」、「モーカルク氏」、「紹介」という言葉はない。
上記「参考 フーゲンホルツの起用」は2025年3月に加筆したものだが、2024年7月当時はこの「虚偽1」に関し、私は次のように書いていた。 〇1959年時点で既にホンダC71がオランダに輸出されており、1959年に既にホンダとオランダのモーターサイクル業界と接点があった。 〇1961年の輸入元はHet MotorpaleisとR.A.M.O.で、1959年も同じだったと思われる。 〇Het MotorpaleisのMoerkerkは1960年時点でホンダチームと深い関係があった。 〇本田宗一郎の「俺はレースをやるところが欲しいんだ」発言は1959年末で、直ちにサーキット建設プロジェクトがスタートした(「語り継ぎたいこと-チャレンジの50年」(本田技研工業1999)262頁)。情報収集する中で、飯田の訪欧前にMoerkerkからフーゲンホルツの存在をホンダに知らされることは在り得ただろう。 〇それが渡欧後なら、遅くとも1960年オランダGPまでにフーゲンホルツの存在をMoerkerkから知らされたと思われる。 〇「Moerkerkからフーゲンホルツを紹介される」を中島は虚偽としているが、「Moerkerkからフーゲンホルツを紹介される」と「(1960年6月に)飯田がフーゲンホルツと接触する」が繋がっていても不思議ではない。 中島はこの記事を読みMoerkerk等について知ったが、「Het Mtorpaleis」と「Moerkerk」だけを読み取り、他の記述は読まなかったようだ。 オランダのモータースポーツ界の生き字引であるロブ・ペテルソン氏に問い合わせたところ「His(フーゲンホルツJr) father had contact with Honda long before Hans Moerkerk became Honda dealer. 」との返事を受けたことをもって、 「ジョン・フーゲンホルツ氏はハンス・モーカルク氏がホンダ・ディーラーになる以前からホンダとコンタクトを持っています。よって野田健一氏の主張する「モーカルク氏がフーゲンホルツ氏をホンダに紹介した」は時系列的におかしいということが判明しました。」 「〜モーカルク氏の正式な綴りが判明したことで当方の主張が正しいことが判明できました。」 としている(2024年8月1日) 。 検証1 はたしてモーカルク氏は実在の人物だったのか?→実在した!しかしホンダとのコンタクトはフーゲンホルツ氏が先行していた!|Takahiko Nakajima (note.com) しかし、オランダからの返答では次の時期の記述がない。 〇Moerkerkがホンダディーラーになった時期 〇フーゲンホルツSrがホンダと接触した時期 検証1と同様、「モータースポーツに詳しいオランダの友人に訊いただけ」なので、結果1と同様、誤った回答により誤った結論になった。 また、「時系列的におかしい」という中島の判断はおかしい。「ホンダの人がMoerkerkからフーゲンホルツから紹介される」と「既にホンダの飯田はフーゲンホルツと面識があった」は並立可能※であることが中島には理解できないようだ。 ※実際の時系列は「飯田はMoerkerkと親しくなる」→「飯田はフーゲンホルツと親しくなる」→「飯田はMoerkerkに相談し、フーゲンホルツを推薦される」→「飯田はフーゲンホルツに会い訪日を依頼」 |
●フーゲンホルツ記録によれば、フーゲンホルツはホンダからの電報(1961年1月10日)を受けて日本行きを決断し、同年1月19日にオランダを出発、翌日に日本に到着した。 フーゲンホルツJr.によれば、「(本田宗一郎)氏は父に単純明快な文章で電報を送ってきました。「日本に来てください」と。2週間後に航空券が届き、父は数週間、日本に滞在しました。」とのことである(https://www.takahikonakajima.com/letter_Ron462.html)が、太字は明らかに誤りである。ただし「航空券をホンダが送った」が事実なら次の疑問がある。 〇フーゲンホルツが電報受信後にホンダに日本行きを国際電話で了承し、それからホンダが航空券をフーゲンホルツに送ったとすると、出発に間に合わない可能性がある。ホンダは電報発信より前に航空券を発送したのではないか? |
(4) Racing on 461号塩崎定夫氏発言へのフーゲンホルツ家からの反論 (takahikonakajima.com)
「塩崎定夫氏が設計者ではなく工事の責任者であることはジョン・フーゲンホルツ氏自身が書かれた日本での行動記録にもしっかりと記載されています。フーゲンホルツさんの日記のなかで記述される塩崎定夫氏の役割はフーゲンホルツさんへの接待とブルドーザーの手配のみです」
フーゲンホルツ滞在期間の塩崎だけで塩崎の役割を判断するのは無理である。フーゲンホルツが修正する前のコース案設計、フーゲンホルツ案の後のコースレイアウトの変更設計は誰が主導したというのだろうか?
また、中島はフーゲンホルツの概略設計だけで開発行為が可能だと考えているのだろう。フーゲンホルツ記録では(1月27日の設計結果提出後)「〜その場で塩崎定夫氏に建設開始の指示が下された。〜排土板をそなえたブルドーザーを10台調達し〜アクセス道路を拡張する工事が始められることになった」とあり、あくまでアクセス道路の拡張のことであるが、中島はサーキットの建設工事そのものと理解したのだろうか?
「鈴鹿サーキット開場50周年記念
アニバーサリーデー・オフィシャルブック&全レース優勝者総覧」(モビリティランド2012)207頁では着工は1961年8月、同書本文では6月。 地鎮祭は8月25日に行われた(リンク)。 |
「資料にするために塩崎氏が靴べらでニュルブルクリンクの路面アスファルトをこすり落としたという(塩崎の)話も、信じられません。靴べらではアスファルトを完全にこすり落とすことなど、できません」(フーゲンホルツ子息の手紙中)
飯田も次のように語っている。
「視察時は冬のヨーロッパだったので、サーキットの路面は雪で隠れていたのですが、表面のアスファルトを靴べらで採ってきたのです」(オートスポーツ1994-6-1) |
路面の荒れた箇所(こちらを参照)であれば靴べら(当時であれば金属製)で一部を剥がすことができたと思われる。
ただ、こすり落とすにしても剥がすにしてもサーキット管理者の了承を得たのだろうか? 飯田は2008年頃には「冬にドイツのニュルブルクリンクに行って、靴べらで雪を掘って、路面のサンプルを拾ってきたりしていました」(浅間から世界GPへの道 昭和二輪レ-ス史1950〜1980(八重洲出版2008))と語っている。靴べらはアスファルト採るためではなく雪を掘るために用いたのであり、(路面が荒れて剥がれた)舗装のかけらを拾ったということのようだ。こちらが事実なのか、「路面を削った」ではまずいとして修正したのか・・・
ニュルブルクリンクを調査中の写真(日本モータースポーツ史2(動画)
1分44秒、Racing on 461(2012-11)にも掲載)に写る器具はサンプル保管器具のようだが、柱状サンプルのようにも見える。何れにしろ、何らかの路面サンプルを持ち帰ったと考えられる。
(5) 「フーゲンホルツの日記によれば、本田宗一郎氏は鈴鹿サーキットを当初は2輪サーキットとして建設することを考えていた。よって塩崎氏が書いた図面の第1案と第2案(注:上記図1と図2)は2輪サーキットとしての設計なのである。それが証拠に第1案と第2案(注:図1と図2)では四輪車が走行するには曲芸が必要なレイアウトである」(文献1)
〇「1 コースレイアウト案の変化」書いたようにホンダは当初から2輪・4輪サーキットを計画していた。
フーゲンホルツは次のように書いているが、この文では本田宗一郎がフーゲンホルツと面談前から同じ考え方だったのか、面談で意見を変えたのかは分らない。
「〜四輪レースやその他のイベントも開催できるようにつくるべきだというのが私の考えだった。本田氏はこれに全面的に賛成してくれた」(フーゲンホルツ記録) |
組織に属する人(塩崎等)が上司(本田宗一郎)の考えを本当に理解しているかどうかは組織外(フーゲンホルツ)には分らない。2輪しか製造していないホンダの塩崎等からフーゲンホルツが「2輪・4輪サーキット計画」を聞いていたとしても、ホンダ社長に面談する機会を得たなら社長の意向を確認するのは当然だろう。
〇中島がいう「曲芸」が何なのか分らない。当時のモナコの2つのヘアピン(下)、トンネルを思えば、第1案(図1)のコースレイアウトだけでは2輪専用とはいえないと考える。もちろん、第1案(図1)は特異で問題の多いコースレイアウトだと思うが、塩崎がヨーロッパ視察前に設計したものであることに留意すべきである。また、図2、こちらの2番目の図のインフィールド部分もハラマも似たようなものである。
(6) 「設計の基本思想について塩崎氏は「レイアウトの良し悪しなんて分からないから、この(石膏模型)の上から線を引いて、石膏を削りながら、なるべく削らないで済むような線で決めたんです。」と〜述べている。当時から塩崎氏には基本思想などなかったのである。」
「〜フーゲンホルツ氏の日記にあるとおり、フーゲンホルツ氏が石膏模型に印をつけていった作業のあとに塩崎氏が線を引いたに過ぎないと考えられる〜コースの良し悪しも分らない人間が土量配分だけをガイドにして設計できるのであろうか?」(文献1・22頁)
本文(Racing on 461(2012-1))では塩崎が次のように語っている。
「ニュル(ブルク)のマネージャーが、ドイツにある道という道の特徴を全部織り込んだコースだと説明してくれました。モンツァのオーバルみたいなコースではエンジンの耐久力しかテストできないので意味はないなと思ったものです。」 「〜鈴鹿のコースには日本の道路にありうる要件を全部盛り込もう、と考えながら等高線をなぞって削った。そうしたらこういうコースが出来上がったというわけです。」 |
また、「1 コースレイアウト案の変化」で紹介したように図1、図2のインフィールド部分について、塩崎は次のように語っていた。
「当初はですね、まあこっちも、まあそのレース、走るというか見たい方の心裡で、野次馬根性もありまして、グランドスタンドの前でストレートはあるはヘアピンはあるは、いろんな場面がですね、見たい場面が全部集められないかという、ちょっと複雑なものを作ってしまった訳です。」(日本モータースポーツ史2(動画 2分2秒〜)と語っている。 |
(7) (ホンダのウェブサイト中の記述「(塩崎等のヨーロッパ視察中)「〜フーゲンホルツ氏にコース設計を任せることを決定し〜」を元に)「(フーゲンホルツにコース設計を任せるがホンダの本心であるとするなら、ホンダはやっとフーゲンホルツ氏を鈴鹿サーキットの設計者として認めたことになる。」(文献1・22頁)
ホンダのウェブサイトの記述は1960年12月の状況についてのもので(これは正しい)、フーゲンホルツ設計のコース案と異なる最終案の設計者が誰かを述べたものではない。
(8) ジョン・フーゲンホルツ氏が鈴鹿サーキットの設計者である証拠リスト
例えば次のような記述を「鈴鹿サーキットの設計者がフーゲンホルツである証拠」としている。
「設計の権威フーゲンホルツ氏のアドバイスを入れたコース」(モーターファン1962-8)
「〜このコースはレーシングコース設計の権威フーゲンホルツの助言で設計され〜」(科学朝日1962-12)
これは「フーゲンホルツが鈴鹿サーキットを全て設計した証拠」にならない。フーゲンホルツが著名なサーキット概略設計者であることは論を待たないが、これらの文では「助言」、「アドバイス」とあるので、別の設計者が存在することを示唆しているとしか読めない。他の「証拠」からすると、中島の論理は「フーゲンホルツは設計者→フーゲンホルツは鈴鹿サーキットの設計者」だろう。
また、この2つの記述はモータースポーツランドまたはホンダの公表資料に頼ったものである。同種の記述の多さは資料の正しさを保障しない。そもそも、広報資料の正しさの検証が全くなされていない。
「証拠」は主観的ではなく誰が見ても正しいと判断できるものでなくてはならず、多数決で決められることではない。「当事者以外の人(社))がこう書いている」という類の記事があるが、問題なのは「記事を書いた人がなぜその判断になったか、その根拠は何か」である。
参考 モータースポーツランド(鈴鹿サーキット建設等のために設立されたホンダの子会社)が1962年に発刊した「世界のランキングを求めて」英語版※では次のように書かれている。
The Suzuka Racing Circuit was designed with the help of the world's leading
racing circuit designer, Mr Hugenholtz. It includes some of the best features of
the Italian Monza Circuit and the Dutch Van Drenthe Circuit and has already
aroused considerable interest abroad. |
(2) 130R
1962年完成当時、西ストレート終わりの左コーナーは「150R」だった。下左は1963年日本GP(2輪)を伝える雑誌に掲載されたコース図で、「150R」と書かれている。なお、1962年版も「150R」と書かれているが、1963年版の方が文字が大きいので、こちらを載せた。
![]() |
![]() |
1963コース図 | ライディング1969-4(MFJ) |
円弧部分:20.94m短縮
直線部分:23.04m延長
差引:2.15m延長
になる。
1962年当時、コース距離は6004mとされており、1983年、最終コーナーにシケインが設けられるまで変わらなかった(6004.15mとされることもあった)ことから、「150R」は誤記の可能性がある。
MENU | |