鈴鹿サーキットの設計者は誰?

結論

 設計の範囲毎に

〇コースレイアウト設計  塩崎(フーゲンホルツは助言者)

〇概略設計(コースレイアウトを含む)  フーゲンホルツ/塩崎

〇詳細設計  塩崎

 ただし、概略設計、詳細設計の責任者が塩崎という前提である。

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 以下は、鈴鹿サーキットの設計者をオランダのフーゲンホルツとする中島剛彦氏の次の頁等を読んだ感想である(敬称略)

鈴鹿サーキットの設計者はジョン・フーゲンホルツ氏です。 (takahikonakajima.com)  

鈴鹿サーキットの設計者はフーゲンホルツ氏である。|Takahiko Nakajima (note.com)

中島がまとめた Amazon.co.jp: フーゲンホルツさんの日記: 〜1961年1月真実の鈴鹿サーキット設計記 : ジョン・フーゲンホルツ, 中島剛彦 (27頁2530円、以下「文献1」)

1 コースレイアウト案の変化

  鈴鹿サーキットの開発計画が開始し、1960年8月に最初のコースレイアウト案(以下、コースレイアウト案を「コース案」とする」)が作成されたが、その後、何回もコース案は変更された。下はよく知られたのコース案の変化(以下「コース案変化1」)。

時代とともに変化したサーキットを辿る「鈴鹿サーキット編」前編 | JAFモータースポーツ

 一方、これと異なる図が「鈴鹿サーキット開場50周年記念 アニバーサリーデー・オフィシャルブック&全レース優勝者総覧」(モビリティランド2012)に掲載された。下はこの掲載図と同じと思われる図(以下「コース案変化2」)。

高橋二朗|鈴鹿サーキット開場60周年記念インタビュー〜「私と鈴鹿サーキット」|モータースポーツ|鈴鹿サーキット (suzukacircuit.jp)

 コース案変化1はコース案変化2を手写ししたか公表用に修正したものである可能性もあるので、下のコース案変化2を見ていく。

  
注1:図1、2において、今のS字あたりにインフィールド部が設けられた理由の一つに「コース距離」があるのではないか? 1960年世界GPは全7戦で、内6戦のコース距離は7km以上だった。新規参入者としてはできるだけコース距離を確保したかったのかもしれない。
注2:文献1の表紙及び12頁に地形模型を前に作業するフーゲンホルツの写真があり、その地形模型からすると図2の後に、コース右のインフィールド部をさらに(現)逆バンク辺りまで延長した案があったようだ。表紙の写真は61nYpzgLDRL._SL1222_.jpg (1000×1222) (media-amazon.com)
注3:図3は1月27日付のフーゲンホルツ案(文献1の表紙61nYpzgLDRL._SL1222_.jpg (1000×1222) (media-amazon.com))と西ストレート終わりの曲率等、微妙な違いがある。
 下左は1961年1月27日のフーゲンホルツ設計結果提出時と思われる写真で、本田宗一郎を交えて議論が行われたようだ。議論の結果、さらに変更されたのが図3なのだろうか?


 さて、図2と図3を対比すれば、フーゲンホルツ修正案は正に修正案であることが分る。参考まで図2と図3を重ねてみた。薄線が図3(フーゲンホルツ案)、濃線が図2(フーゲンホルツ修正前)である。なお、出典は図を写真撮影したものであるため、図が若干歪んでいる。このため、濃線と薄線のずれはあくまで参考とされたい。


 そしてフーゲンホルツ設計後もコース案の大半が変更された。下は図3、図6を拡大し並べたもので図3に完成後のコースが薄く見える。

 図3と図6を重ね合わせてみた。薄線が図3(フーゲンホルツ案)、濃線が図6(最終形)である。なお、前述のように出典は図を写真撮影したものであるため、図が若干歪んでいる。これを考慮して図を重ねたので、濃線と薄線の細かいずれはあくまで参考とされたい。

 
 図3と図6を比較すると、メインストレート、スプーンカーブ、西ストレート、最終コーナーの位置が異なる。そして逆バンクを除くS字カーブのカーブ数が異なる(4→3)のをはじめ、各カーブの形、曲率が変更され「よく似たサーキット」になった。例えば西ストレート終わりのコーナーは図3では450R程度で40度曲がるが、図6では130Rで60度曲がる。最終コーナーは図3では75度曲がるが、図6では95度曲がる。
 文献1の表紙のコース図61nYpzgLDRL._SL1222_.jpg (1000×1222) (media-amazon.com)では、西ストレート終わりのコーナーは800R程度で40度曲がっており、スプーンカーブから最終コーナーまでが実質一つの直線になっている。図2も同様。
  フーゲンホルツは「1.9km(1.3kmの誤記か?)の長いストレートの終わりが高速コーナーになっていることについては、なんら異存はない」(文献1)と語っているのはこのこのことを指しているようだ。

   下左は着工前(1959.5.26)、下右は着工直後(1961.8.22)のコース中央付近の航空写真(地図・空中写真・地理調査 | 国土地理院 (gsi.go.jp))で、下右では走路予定部分が伐採・整地がされコースが姿を見せている。下右は明らかに図3(フーゲンホルツ案)と異なり図4(1961.5.29)または図5(1961.7.8)である。西ストレート終わりの左コーナー、最終コーナーの曲率等からすると図4のようだ。6月着工直後に図4の走路予定部分の伐採・整地が始まったが、図5が作成された後のこの部分の再伐採・整地は未着手だったようだ。

 また、1961年7月29日にFIMのピーター・ノーティア会長、グード事務局長の2人が現地視察を行ったが、図5(1961.7.8)作成直後、図6(1962.1.15最終案)の5.5箇月前であることから、視察ではコース案に特に意見は出されなかったものと思われる。
 なお、鈴鹿サーキットは丘陵地の原地形からコースレイアウトに制約があり、例えばヘアピンカーブはヘアピンカーブにしかならない地形だということも分る。極端なコース案変更がなかったのはこのためである。

              1959年5月26日                                1961年8月22日

 そしてフーゲンホルツ案の後のコース案変更について、その都度、ホンダからフーゲンホルツに意見を求めたようだ。そうならば、この時点でのフーゲンホルツの関与は助言である。様々な要素を考慮して修正案を作成したのはホンダだからである。
 中島は「フーゲンホルツ家によればフーゲンホルツ氏はオランダに帰国してからも手紙によって、リモートで鈴鹿プロジェクトを指揮していたのである」としているが、CADがなく連絡手段も限られた当時、コースレイアウト変更設計がオランダで可能だったのだろうか? 私はホンダ側が変更案を作成しフーゲンホルツの意見を求めたものと考える。
 こちらは図4のさらに詳しい図

 しかし、コースレイアウトの設定だけでサーキットができるわけではない。

2 サーキットの設計

(1)法令上の「設計」

 都市計画法上の「設計」とは同法第30条の開発許可申請書に記載すべきものであり、「開発行為」とは主として建築物の建築又は特定工作物の建設の用に供する目的で行なう土地の区画形質の変更である(同法第4条第12項)。 許可基準は同法第33条で規定されており、サーキットの土木工事に関係しそうな事項として、

〇開発区域外の相当規模の道路への接続
〇雨水、汚水の排水
〇給水施設
〇地盤の沈下、崖崩れ、出水その他による災害の防止措置
〇道路、鉄道等による輸送の便

が審査対象となるだろう。

 ただし、都市計画法は1968年制定で1961年当時は旧都市計画法(大正8年制定)が施行されていた。鈴鹿サーキットに関する開発行為についてどのような法令が適用されていたか分らないが、上記5事項は常識的なものであり、これらの設計なしには鈴鹿サーキットを建設することはできない。
 2024年現在、鈴鹿サーキットには深井戸を水源とし急速ろ過処理による専用水道(能力1980m3/日)がある。当然、汚水処理施設も1980m3/日前後の能力を有すると思われる。1961年当時、鈴鹿市に下水道はなかったので、鈴鹿サーキット独自の汚水処理施設が設置されたはずである。現在も鈴鹿サーキットは鈴鹿市下水道の除外区域である。

 さらに、サーキット敷地内の建物、工作物の設置工事前には建築基準法等の審査を受けるために別の「設計」も必要である。

 これらの設計を「詳細設計」とする。
 富士スピードウェイの改修工事(2005年2月竣工)の設計はティルケによるものとされているが、工事を行った大成建設(富士スピードウェイ[改修造成] | 大成建設株式会社 (taisei.co.jp))によると「設計・関連コンサルタント」は三菱地所設計となっているし、三菱地所設計も実績としている(富士スピードウェイ|PROJECT|株式会社 三菱地所設計 (mjd.co.jp))。

 ティルケと三菱地所設計では設計の分担が異なり、三菱地所設計が行ったのは詳細設計だろう。

(2)フーゲンホルツが行った「設計」

 文献1によればフーゲンホルツの日本滞在は1961年1月20日〜1月29日で、設計作業は鈴鹿に到着した1月23日から始まり、設計を終えた後に観光し、1月27日に東京で本田宗一郎に設計案を説明したとのことである。従って設計期間は最長3日間である。
 文献1によるとフーゲンホルツはユトレヒト大学法学部卒だが、独学で土木工学を学んだとしても、一人だけ、日本の基準(日本語)の壁、3日間という設計期間から考えて、詳細設計を行うことは不可能である。

 文献1にはフーゲンホルツがオランダに帰国後に「オランダAUTOREVUE」に寄稿した記事の日本語訳(オランダ原文→英語に翻訳→日本語に翻訳、以下「フーゲンホルツ記録」)がある。フ−ゲンホルツ記録によれば、フーゲンホルツはコースレイアウト、コース幅だけでなく、次の施設等についても図面等及びこれらの必要性を示す書類を作成したとのことである。
A コースから観客までの距離
B エスケープゾーン
C フェンス
D トラックマーカー(コース標識)
E ピットレーン
F パドック
G コントロールタワー(計時等)
H その他の建物(救護、オフィシャル、プレスルーム等)
I スタンド

 サーキットにとって、コースレイアウト、コース幅だけでなく、このような事項も重要である。A〜Iが整わなければサーキット足りえない。そして、ホンダに欠けていたのは、これら(コースレイアウト・幅を含む、以下「概略設計」)をどのようにしたら二輪、四輪の国際レースを開催できるものになるか、レース参加者、観客等を満足させるものになるかの知見だったのだろう。

(3)鈴鹿サーキットの「設計者」

A
フーゲンホルツのコース案はホンダ側のコース案を修正したものである。そしてフーゲンホルツ案後の大幅変更に関してフーゲンホルツはアドバイザーであっただろう。

B (2)-A〜Iに関してはフーゲンホルツに負うところ大である。コース案がフーゲンホルツ案から大きく変更されたために、(2)-A〜Iもフーゲンホルツの設計から変更されたはずだが、設計にあたっての基本的な考え方はフーゲンホルツによって示されていたと考えられる。

C ホンダとフーゲンホルツの契約がどのようになものか分らないが、おそらくはコンサルタント契約であり、詳細設計を含む全体設計の責任者は塩崎だろう。概略設計と詳細設計は繋がっており、詳細設計の過程で概略設計の見直しが必要になった場合の責任者も塩崎であろう。

D 詳細設計を行ったのはホンダ側である。ただし、実際に設計図を作成したのはホンダ側が契約した建設コンサルタントであろう。

 このようなことを考慮すると概略設計におけるフーゲンホルツとホンダ側の寄与比は3:2程度と考える。 
 そして、「鈴鹿サーキットの設計者は誰?」という問に対して、私は設計の範囲毎に

〇コースレイアウト設計  塩崎(フーゲンホルツは助言者)

〇概略設計(コースレイアウトを含む)  フーゲンホルツ/塩崎

〇詳細設計  塩崎

と答えたい。ただし、概略設計、詳細設計の責任者が塩崎という前提である。


3 中島のその他の記事について

(1)検証1 はたしてモーカルク氏は実在の人物だったのか?|Takahiko Nakajima (note.com) 「〜オランダのロッテルダムでホンダ販売店「ヘッド・モト・パリス」のモーカルクの紹介により塩崎らがフーゲンホルツと知り合った」という話に対する検証結果と、それを元にした捏造疑惑)

「疑問を解消するためにFACEBOOKのオランダ・ベルギーでのホンダコミュニティ内で上記の2点を質問してみた。コミュニティには1950年代からモータースポーツに親しんできているベネルクスのホンダの状況をつぶさにみてきた数多くのメンバーが存在している。彼らからの回答は以下の通りである」

「結果1 ロッテルダムにはホンダ販売店はなかった。ホンダを輸入するHonda Motors NV はロッテルダム近くにある都市Ridderkerkにある会社であったが、存在したのは1967年〜1979年であった。1960年時点でホンダ代理店がオランダには存在していなかったのである

 赤字は誤り。ホンダC71(250cc)が1959年1月にアムステルダムのショーで出品されたし、一定数がオランダに輸出されていた。1959年アムステルダムショーに展示されたC71の写真はHonda Early Classic Motorcycles by Roy Bacon, Osprey 1985の63頁に掲載されている。「ベネルクスのホンダの状況をつぶさにみてきた数多くのメンバー」は四輪限定なのだろうか?  

 1959年マン島TTレースにホンダが初出場したが、羽田を出発する時に河島監督、飯田(マネージャー)、ライダーと一緒だった整備員の関口、廣田は帰国時のチームの写真には写っていない。このことについて河島は次のように語っている。

 「私どもがロンドンを出ます11日の朝、オランダに先に参りました整備員の2人から電話がありまして〜〜オランダに参りました翌日にはデーラー関係の他に報道関係まで集めまして〜」(ホンダ広報誌「フライング 1959-7」)

 関口、廣田はオランダに輸出したホンダC71(250t)の故障の対応ためオランダに赴いたもの(関口へのインタビュー記事(グランプリ・イラストレイテッド1987-3))。  

「結果2 モーカルクというファミリーネームはオランダには存在しない」(MOCALC、MOHKARUC、MOUKALCなどを照会した結果)
「〜「モーカルク氏」について(中島の)オランダの友人は誰ひとりとしてそのファミリーネームをオランダ国内で聞いたことがないというのである。すべてが捏造の疑いがあるのである」
(文献1・18頁)

 中島の調査方法で得られた結果1が誤りだったことから、結果2の価値はない。そもそも「モーカルク」はカタカナなのでオランダに存在しないのは当然であり、結果2の正しい結論は「MOCALC、MOHKARUC、MOUKALC等というファミリーネームはオランダには存在しない可能性がある」である。

 ヘッド・モト・パリス(中島はモト・ヘッド・パリスとしている)はHet Motorpaleis、モーカルクはHans Moerkerkであり、1959年時点でHet Motorpaleisは単なる販売店ではなくホンダ輸入元だったと思われる※。
 なお、1959年1月のアムステルダムショーでホンダC71が展示されたことから、ホンダとMoerkerkの初接触は1958年と思われる。
※1961年時点でオランダでのホンダ輸入元はHet Motorpaleis(ロッテルダム)とRAMO(エイントホーフェン)だった。Honda C72, C77, C114 and CB72 – ホンダ広告アーカイブ (4-stroke.nl)
 Het Motorpaleisはヤマハ輸入元にもなったが、写真1(リンク)写真2左端(リンク)がMoerkerkで、写真2のマシンのフェアリングにMOTORPALEISと書かれている。こちらのヤマハRD56のフェアリングにもMOTORPALEISと書かれている。
 なお、原語のHet Motorpaleisは英語ではThe Motorpalaceになる。

※1960年オランダGP250tクラス(6月25日)でヤン・ヒューベルツがホンダ4気筒に乗り7位となったが、これはMoerkerkがヒューベルツに乗車機会を与えたことによるもので、1960年6月時点でのMoerkerkとホンダとの深い関係、Moerkerkのオランダレース界への関わりを示している。 Kjmv clubdag hmr134 by Peter van der Zon - Issuu(写真は1961年以降のもの)

 また、飯田も次のように語っている(浅間から世界GPへの道: 昭和二輪レ-ス史1950〜1980(八重洲出版2008)) 。

  「ヨーロッパ各国を転戦するわけですが、ホテルなどの手配は、オランダのロッテルダムのディーラーにお世話になりましたよ。世界中のモーターサイクルを扱っている大きなお店の社長さんでしたが、大のホンダファンになってくれて、私のブロークンな英語でも問題ない。ハートが通じ合うというか〜オランダと日本は戦争で敵同士だった。お酒を飲むとそういう話も出ましたけれど、それぐらい腹を割って話せる間柄になれたんです」

(2)塩崎定夫RacingOn461号の 発言のうちの虚偽を証明します。 (takahikonakajima.com)

虚偽1について

 「Moerkerkからフーゲンホルツを紹介される」を中島は虚偽としているが、(1)で示したように遅くとも1959年、おそらく1958年に既にホンダとMoerkerkと接点があったので、「Moerkerkからフーゲンホルツを紹介される」と「ホンダが((サーキット概略設計者としての)フーゲンホルツと接触する」が繋がっていても不思議ではない。
 
 さて、フーゲンホルツ招聘に関して飯田は次のように語っている

「突然サーキット担当(になることが)決まったのです※〜最初は真冬のヨーロッパに、レース場視察ということで出かけました。その時、本田社長にいくつかアドバイスを受けました。ひとつは日本人スタッフだけではなく外国人のアドバイスを受けた方がよいということ〜」(オートスポーツ1994-6-1)。
※1960年シーズン、ホンダチームは第1陣と第2陣に分かれていたが、飯田と河島監督は第1陣、第2陣の両方のメンバーだったので、飯田の帰国はイタリアGP(9月11日)の後で、帰国後にサーキット担当になったとものと考えられる。
 ホンダが外国人のアドバイスを受けることを決めたのは1960年9月以降のことである。

 そして以前ホンダ公式ウェブサイトに公開されていた「レーシングの源流」では次のように記述されていた。

「すでにヨーロッパでの活動によって多くの知人を持っていた飯田は、オランダでホンダ製品を取り扱うモーターサイクルディーラー、ヘッド・モト・パリス(注:Het Motorpaleis)のオーナーMr.モーカルクにその件を相談してみた。彼は、世界GP挑戦初期の不慣れなホンダ・チームの転戦に同行し、物心両面に渡って多大な世話になった人物であり、飯田とも心が通う信頼の置ける人物だった。そのモーカルクが推したのは、同じオランダ人のジョン・フーゲンホルツという人物だった。当時フーゲンホルツはオランダのザンドフォールトサーキットの支配人であり、コース設計の権威としても知られた人物だった。アッセンやホッケンハイムの改修を担当したのも彼であり、その実績には充分なものがあった」(注:ホッケンハイムの改修は鈴鹿サーキット完成より後の1965年)

 飯田が「彼(フーゲンホルツ)とは以前から面識があったので※」(オートスポーツ1994-6-1)と語っていることから

「飯田はフーゲンホルツと面識があった」→「飯田がサーキット建設に関わるようになる」→「本田社長から外国人のアドバイスを受けることを指示される」→「飯田は面識のあるフーゲンホルツがベストなのか確信がなかったのでMoerkerkに相談」→「Moerkerkもフーゲンホルツを推薦」→「フーゲンホルツに依頼」

と考えられる。飯田がフーゲンホルツと面識があっても、第三者(Moerkerk)からフーゲンホルツが推薦されたことは大きな意味があっただろう。特に本田宗一郎からフーゲンホルツを選定した理由を問われたことを想定すれば。あるいは飯田はフーゲンホルツをサーキット支配人と認識しており、Moerkerkによる推薦まではサーキット概略設計者として認識していなかった可能性もある。
※1960年GPシーズン、ホンダチームはオランダのザンドフールトでテストを行っていたようなので、飯田は1960年5月(ヨーロッパ到着月)、あるいは6月(マン島TTレース後)にはザンドフールト支配人のフーゲンホルツと会ったと思われる。また、飯田は1959年マン島TTレース125tクラスに出場したホンダチームの一員であり、1959年5〜6月にマン島でフーゲンホルツに会っていた可能性もある。

1959年の飯田の訪欧時期  
1959年5月3日、羽田を出発。 http://iom1960.com/origin-of-honda-racing-spirit/r1959.html

1960年の飯田の訪欧時期  
ホンダチームは1960年5月10日のスズキとの合同壮行会(東京)の後、5月11日に羽田を出発したが、飯田も壮行会に参加していた(下写真左端)。
 1960年写真集−1 (iom1960.com)

 中島は本頁を読みMoerkerk等について知り、オランダの知人に問い合わせたところ「His(フーゲンホルツJr) father had contact with Honda long before Hans Moerkerk became  Honda dealer. 」との返事を受けたことをもって、「ジョン・フーゲンホルツ氏はハンス・モーカルク氏がホンダ・ディーラーになる以前からホンダとコンタクトを持っています。よって野田健一氏の主張する「モーカルク氏がフーゲンホルツ氏をホンダに紹介した」は時系列的におかしいということが判明しました。」としている(2024年8月1日) 。

検証1 はたしてモーカルク氏は実在の人物だったのか?→実在した!しかしホンダとのコンタクトはフーゲンホルツ氏が先行していた!|Takahiko Nakajima (note.com)

 しかし、オランダからの返答では次の時期の記述がない。
〇Moerkerkがホンダディーラーになった時期
〇フーゲンホルツSrがホンダと接触した時期

 上の検証1と類似の調査方法なので、結果1と同じ誤りを繰り返している。
 前述のように私はMoerkerkとホンダの初接触は遅くとも1959年、おそらく1958年と考えている。フーゲンホルツがそれより前にホンダ関係者と接触したとは考えられない。
 そもそも「ホンダがMoerkerkからフーゲンホルツを推薦される」と「既に飯田はフーゲンホルツと面識があった」は全く矛盾しない。

虚偽2について

 文献1によると、塩崎らが帰国したのは1960年12月末で、1961年1月10日に「PLEASE COME TO TOKYO」という本文だけの電報がホンダからフーゲンホルツに発信された。これをもって中島は塩崎の「連れて帰った」を虚偽としているが、「PLEASE〜」だけでフーゲンホルツを招聘したのだろうか? ヨーロッパで飯田等がフーゲンホルツに会った際に条件(依頼内容、期間、報酬等)を提示し訪日を要請し、飯田等が帰国後に短文の電報を送ったとしか思えない。
 そうであれば「連れて帰った」も老人の記憶違いであり、「連れて帰ったようなもの」とすべきであったと思う。
●文献1に掲載されたフーゲンホルツの手記によれば、フーゲンホルツはホンダからの電報(1961年1月10日)を受けて日本行きを決断し、同年1月19日にオランダを出発、翌日に日本に到着した。
 フーゲンホルツJr.によれば、「(本田宗一郎)氏は父に単純明快な文章で電報を送ってきました。「日本に来てください」と。2週間後に航空券が届き、父は数週間、日本に滞在しました。」とのことである(https://www.takahikonakajima.com/letter_Ron462.html)が、太字は明らかに誤りである。ただし「航空券をホンダが送った」が事実なら次の疑問がある。

〇フーゲンホルツが電報受信後にホンダに日本行きを国際電話で了承し、それからホンダが航空券をフーゲンホルツに送ったとすると、出発に間に合わない可能性がある。ホンダは電報発信より前に航空券を発送したのではないか?

●日本短期滞在の目的が単なる商用なら当時もビザは不要だったかもしれないが、フーゲンホルツの来日は単なる打ち合わせではなく業務受託が目的で、フーゲンホルツは報酬を得たのだからビザが必要だったのではないか? 短期就労ビザが必要だったとすると、次の疑問がある。

〇フーゲンホルツが電報を受信してから1週間でビザを取得できたのか? 
〇ホンダはフーゲンホルツが短期間でビザを取得できることを確信していたのか? 
〇ビザ申請の添付書類として、「PLEASE COME TO TOKYO」のみ記載された電報が有効だったのか?
〇電報よりかなり前、塩崎らがヨーロッパ滞在中に塩崎らが招聘状をフーゲンホルツに渡したのではないか? あるいはもっと早い段階で招聘状がフーゲンホルツに送られたのではないか?

虚偽3について

 名神高速道路の技術面については「名神高速道路建設誌 各論」(日本道路公団1967)も参考となる。
 高速道路の舗装技術に関しては概ね中島の意見のとおりと考えるが、塩崎の発言は虚偽とまでは言えないのではないか。塩崎は名神高速道路舗装技術の詳細を知らないだろうから、「虚偽」というより「思い込み」が適切だろう。
 また、名神高速道路の工事関係者が鈴鹿サーキットの工事現場を視察したとするなら、当然、名神高速道路の関係者が「勉強させてもらいに来ました」ぐらいの挨拶は当然するだろうし、それを塩崎が100%真に受けたのではないか? 
 なお、視察が行われたとすると、鈴鹿サーキット舗装工事の技術仕様、工事中に起きた問題と対策等についても調査しただろうしそれが仮に既に名神高速道路側が取得していた技術の範囲内だったかどうかは分らない。仮に名神高速道路側が取得していた技術の範囲内であり直接学ぶことがなかったとしても、その技術で問題があるかどうかが確認できたことが視察の成果になっただろう。

(3)Racing on 461号塩崎定夫氏発言へのフーゲンホルツ家からの反論 (takahikonakajima.com)

「塩崎定夫氏が設計者ではなく工事の責任者であることはジョン・フーゲンホルツ氏自身が書かれた日本での行動記録にもしっかりと記載されています。フーゲンホルツさんの日記のなかで記述される塩崎定夫氏の役割はフーゲンホルツさんへの接待とブルドーザーの手配のみです」
 
  中島はフーゲンホルツの概略設計だけで開発行為が可能だと考えているのだろう。フーゲンホルツ記録では(1月27日の設計結果提出後)「〜その場で塩崎定夫氏に建設開始の指示が下された。〜排土板をそなえたブルドーザーを10台調達し〜アクセス道路を拡張する工事が始められることになった」とあり、あくまでアクセス道路の拡張のことであるが、中島はサーキットの建設工事そのものと理解したのだろうか?
 また、工事着手後のコースレイアウトの変更は誰が主導したというのだろうか?
 「鈴鹿サーキット開場50周年記念 アニバーサリーデー・オフィシャルブック&全レース優勝者総覧」(モビリティランド2012)207頁では1961年8月、同書本文では6月。
 地鎮祭は8月25日に行われた(リンク)。

「父は鈴鹿での仕事に対し、多額のお金を受け取りました。もし父が設計者でないなら、ホンダはなぜそんなことをしたのでしょうか〜オランダの国立自動車博物館に収蔵されている鈴鹿サーキットのオリジナル設計図面には父の署名が入っていたはずです」(フーゲンホルツ子息の手紙中)

 
この設計図面は文献1の表紙のコース図61nYpzgLDRL._SL1222_.jpg (1000×1222) (media-amazon.com)または1-図3のフーゲンホルツ案であり、最終案とは異なるものと思われる。

「資料にするために塩崎氏が靴べらでニュルブルクリンクの路面アスファルトをこすり落としたという(塩崎の)話も、信じられません。靴べらではアスファルトを完全にこすり落とすことなど、できません」(フーゲンホルツ子息の手紙中)

 飯田も「視察時は冬のヨーロッパだったので、サーキットの路面は雪で隠れていたのですが、表面のアスファルトを靴べらで採ってきたのです」と語っている(オートスポーツ1994-6-1)。

 路面の荒れた箇所(こちらを参照)であれば靴べら(当時であれば金属製)で一部を剥がすことができたと思われる。

 ただ、こすり落とすにしても剥がすにしても褒められた話ではない。飯田は2008年頃には「冬にドイツのニュルブルクリンクに行って、靴べらで雪を掘って、路面のサンプルを拾ってきたりしていました」(浅間から世界GPへの道: 昭和二輪レ-ス史1950〜1980(八重洲出版2008))と語っている。靴べらはアスファルトを採るためではなく雪を掘るために用いたのであり、(路面が荒れて剥がれた)舗装のかけらを拾ったということのようだ。こちらが事実なのか、「路面を削った」ではまずいとして修正したのか・・・

(4)文献1・10頁「(鈴鹿にて)本田氏はすぐに、農家には別のところに田畑が用意されると答えられた」
 11頁「(鈴鹿にて)本田氏もほかの人々も地形模型上での検討を熱心に見ていた」


 フーゲンホルツは1月21日に東京で本田宗一郎と面談した後に鈴鹿に行き設計作業を開始し、1月27日に東京で本田宗一郎に設計案を提出したが、鈴鹿に本田宗一郎も同行したのか? 「ホンダの人」を本田氏と誤訳したのか?

(5)文献1・22頁「この図では第5案をもって最終とされているが実はその後もあるのである」

  「第5案」とは1-図6であるが、鈴鹿サーキット開業(1962年9月)頃に公開されたコース図(下)とどこが異なるのか分らない。

 

参考
 鈴鹿サーキット - Wikipedia では メインストレート 800m、西ストレート 1200mで、鈴鹿サーキットの公式数字は suzuka_courseguide.pdf (suzukacircuit.jp) メインストレート 約800m、西ストレート 約1000m。
 上の開業(1962年)当時のコース図で上図からすると メインストレート 770m 西ストレート 890m辺り。1980年代に第1〜第2コーナー、スプーンカーブが少し内側に小さくなっているから、今はこれより少し短くなっているだろう。 ホームストレートの公式数字「800m」は770mの四捨五入になるが、西ストレート「約1000m」は少しサバを読んでいるようだ。そしてWikipediaの「西ストレート1200m」は論外。

 現在の鈴鹿サーキットをgoogleで距離測定したもの


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