Het MotorpaleisとHans Moerkerk

 ホンダC71(250cc)が1959年1月にアムステルダムのショーで出品され、オランダに輸出されていた。1959年アムステルダムショーに展示されたC71の写真がHonda Early Classic Motorcycles by Roy Bacon, Osprey 1985の63頁(日本語版(HONDA CLASSICS 駆け抜けていった神々(リンドバーグ 1987))では68頁)に掲載されている。

   そして、次のことから1959年時点でC71がオランダに販売されていたことが分る。
 1959年マン島TTレースにホンダが初出場したが、羽田を出発する時に河島監督、飯田(マネージャー)、ライダーと一緒だった整備員の関口、廣田は帰国時のチームの写真には写っていない。このことについて河島は次のように語っている。

 「私どもがロンドンを出ます11日の朝、オランダに先に参りました整備員の2人から電話がありまして〜〜オランダに参りました翌日にはデーラー関係の他に報道関係まで集めまして〜」(ホンダ広報誌「フライング 1959-7」)

 関口、廣田はオランダに輸出したホンダC71(250�t)等の整備指導のためにオランダに赴いたもの(関口へのインタビュー記事(グランプリ・イラストレイテッド1987-3))。

 以前ホンダ公式ウェブサイトに公開されていた「レーシングの源流」に「前年1958年に輸出を開始したばかりのドリーム250」とあるので、オランダへの輸出は1958年に始まったものと思われるが、これについては他資料で確認できなかった。輸出(日本発)が1958年で輸入(オランダ着)が1959年なのだろうか?
 いずれにしても1959年時点でホンダのバイクがオランダで販売されていたことは間違いない。 当時、オランダでホンダの輸入を手がけていたのがロッテルダムのHet Motorpaleis(社長はHans Moerkerk)とエイントホーフェンのR.A.M.O.(Riemersma  Accessoires Motoren Onderdelen、社長はTon Riemersma)だった。両社は協力関係にあり、こちら(リンク)からするとホンダとの契約はR.A.M.O.が主となっていたようだ。
 1959年6月のR.A.M.O.の広告(リンク)。Importeurs motorfietsen en scooters (beschrijvingen)から
 1961年頃の広告 Honda C72, C77, C114 and CB72 – ホンダ広告アーカイブ (4-stroke.nl)(リンク)

 FS1 forum - De FS1 in Nederland によれば、1957年にMoerkerkらが日本を訪問したとのことである。1959年当時のHet Motorpaleisの施設は1956年にオープンしたもの。Digibron, Nieuw motorpaleis geopend

 こちらにホンダ・ベルギー工場が1963年に生産開始した50�tバイクの記事(1963年9月)にホンダの50�tが1963年の4年前からHet Motorpaleis(ロッテルダム)、R.A.M.O.(エイントホーフェン)により輸入されていたことが書かれている。また、この記事にHonda Motor N.V.(ロッテルダム(後にRidderkerkに移転))が登場しており、この時点でHet Motorpaleis、R.A.M.O.はホンダの輸入元ではなく、単なる販売店になったと思われる。ただし、Honda Motor N.V設立にHet Motorpaleisが関係していた可能性もある。
 「オートバイ・乗用車産業経済史 −ホンダに見る企業発展のダイナミズム−」(出水力、日本経済評論社2002)によると、ヨーロッパ・ホンダのオランダ支店(アムステルダム)は1963年に設立された。

 これは第二次世界大戦前のHet Motorpaleisの写真で、掲げられたブランドのほとんどはHet Motorpaleisが輸入元だったことがある。また、P.v.Wijngaardenと書かれているが、彼はHet Motorpaleis社長でありオランダの有名なレーシングライダーでもあった。1950年に亡くなり、経営パートナーだったMoerkerkがHet Motorpaleisを引き継いだもので、Het Motorpaleisは、元々オランダの2輪レース界に深く関わっていた。

 1960年オランダGP250�tクラス(6月25日)でヤン・ヒューベルツがホンダRC161(4気筒ファクトリーレーサー)に乗り7位となったが、これはMoerkerkがヒューベルツに乗車機会を与えたことによるもの。「Mijn geluk is geweest dat Cees van Dongen bij het Motorpaleis in Rotterdam werkte. Dat werd importeur van Honda. Cees zei dat hij stopte met de racerij en toen kwam Moerkerk gelijk naar mij toe met de vraag of ik erop wilde rijden.」(https://www.kreidler.nl/forum/viewtopic.php?t=48314)

 ホンダがMoerkerkにいいライダーの紹介を依頼したか、Moerkerkがホンダに地元のレースでオランダ人ライダーをファクトリーレーサーに乗せることを提案(要求)したものと思われるが、このことが1960年6月時点でのMoerkerkとホンダチームとの深い関係、Moerkerkのオランダレース界への関わりを示している。

 Het Motorpaleisはヤマハ輸入元でもあったが、写真1(リンク)、写真2左端(リンク)がMoerkerkで、写真2のマシンのフェアリングにMOTORPALEISの文字がある。こちらのヤマハRD56(250cc2気筒ファクトリーマシン)のフェアリングにもMOTORPALEISの文字がある。

 その後、レース活動の支援にあたってはRiemersma(R.A.M.O.が店名変更)と組んで「Motorpaleis Riemersma Racing」として活動していたが、1974年頃から別々の活動となった。

https://knmvwegraces.wordpress.com/wegraces-deel-4/#jp-carousel-3729 1974年デイトナ200マイルでのJan KostwinderとヤマハTZ750で、フェアリングにMOTORPALEISの文字がある。

http://highsider.com/textlager/netherlands_textlager/Hartog_79_01.htm 1979年オーストリアGPでのウィル・ハートフとスズキXR27(RGB500)で、フェアリングにRIEMERSMAの文字がある。


  後に、ヤマハのオランダ輸入元として、Het Motorpaleisから分離する形でI.M.N.(Inter Motor Nederland) BVを設立しレース活動も行った。1980年オランダGP500�t優勝(ジャック・ミドルブルフ)はその大きな成果である。
 

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