鈴鹿サーキット地形模型

 ホンダの飯田は、ヨーロッパ視察前に石膏模型があったと語っている。
 「ヨーロッパの出張に出るときは、鈴鹿はまだ整地も終わってないんですよ。できてたのは石膏模型だけです。その後でフーゲンホルツを日本に連れてきたんです。」 「表向き、鈴鹿サーキットはオランダのサーキット設計者、フーゲンホルツ氏がコースのレイアウトを決めたことになってますけどね。彼は主体設計者※ではないんです。だって石膏模型ができたあとで、私が彼を連れてきたんですから。」 (バイカーズステーション2004-10)

 一方、塩崎は石膏模型作製を頼んでからヨーロッパ視察に出たとしており、飯田の発言と食い違いがある。
 本田宗一郎は、ヨーロッパへ出向く前の塩崎定夫に、こう言うのだ 『いきなり見に行くより、自分で一回つくってみろ。そうすればカーブの限界点など、疑問がわいてくるはずだ。疑問を持って行けば、要点を狙い撃ちで調べられる。ムダ足踏むな、時間を稼げ』
「そこで私も自分のイメージをいくつか練った後、模型店へ、千分の一(サイズ)の(サーキットの)石膏模型を頼んでから渡欧しました」( https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk05/ )

 コース用地の複雑な地形からすると、地形模型なしに塩崎がコースレイアウトを設計したとは考えにくい。

 フーゲンホルツによると「工場のホールに、サーキット用地の全体像がわかる大きな石膏の地形模型が2つ置かれており〜」(文献1・9頁)ということだが、これだけでは2種類の石膏模型があったということなのか、1種類の石膏模型が2分割されたもの※があったということなのかは分らない。文献1・10頁写真からすると2種類の石膏模型があったようにも見える。

 仮に2種類の石膏模型があったとすると、飯田が語ったのは最初の模型で、塩崎が語ったのは2番目の模型ということになる。

 ※模型にはコース周辺も含まれるため、長さ3m程度あると思われる。文献1の12及び10頁の写真からすると、デグナーカーブ西、ヘアピンカーブ東あたりで模型が分割されているようだ。

  文献1・12頁に写る地形模型からすると次のことが想像される。

〇塩崎は図1(1960年8月26日)の設計にあたって、最初の地形模型を作製した(外注)。
〇その後、図1の問題点がいくつか明らかになり、図2の構想を練り(図2構想案)、地形模型を発注し、ヨーロッパ視察に出た。
〇帰国後、図2構想案にさらに手を加え図2(1961年1月16日)とした。インフィールド部分の長さが短くなったようだが、その他の違いは不明。
〇文献1・12頁に写る地形模型は図2構想案に手を加えたもの。
 

  鈴鹿サーキットを設計者は誰?