RS67U
SUZUKI
125cc4気筒のスズキRS67Uが出場したレースは、1967年日本GPと1968年3月のシンガポールGPのみである。1968年2月21日、グランプリレースからの撤退が発表され、RS67Uを含むグランプリマシンの開発は停止し、RS67Uは再び世界GPを走ることはなかった。
以下の文は、日本モーターサイクルレースの夜明け(中野広之)、TEAM SUZUKI(by Ray
Battersby, Osprey 1982)を参考にしてまとめたものである。
1 開発の経緯と戦績
(1)スクエア4気筒
125cc4気筒計画がスタートしたのは1964年11月の日本GPの直後で、RS65と名付けられた。ボア・ストローク35.5×31.5mmのスクエア4気筒である。その1年前にはホンダの125cc4ストローク4気筒が登場しており、1964年にはスズキからタイトルを奪還していた。スズキも1964年最終戦日本GPに水冷2気筒のRT63改A(公表名「RT64A」)を登場させ、エルンスト・デグナーが優勝していたが、ホンダのレベルアップを考えると2気筒のみに頼ることは危険と考えられたのだろう。下は技術者のノートに残るRS65の構想図の一部であり、次のようなことがわかる。
RS65の軸配置 当時のスズキレーサーのエンジンは、変速機カウンターシャフトの後にスプロケットシャフトを配置することがあった。50cc2気筒の12速、14速であれば、変速機の段数が多く車体中心からのチェーンラインのオフセットが大きくなりすぎるのを補正するためと考えられる。しかし、50cc単気筒9段変速のRM63、RM64にスプロケットシャフトがないのに、125cc2気筒8段変速RT63、RT64にはスプロケットシャフトがある。何らかの理由により意図的にクランクシャフトの回転方向を変えていたようだ。 |
減速比を設定するのに「RT63」を(写真省略)、ポートタイミングを設定するのに「RK64」を参考にしている。この構想図が書かれたのが1963年末〜1964年初め頃ならば、「RT63」はRT63、「RK64」は当時開発中だったRM64Y、RM64YU(RK64は1964年シーズンの出場を目指した開発者の個人的な命名?)を指すのだろう。1964年後半なら「RT63」は当時開発中だった「RT63改A」を指すのだろう。
12月にはエンジン設計図ができあがり、製作開始、試作エンジンが完成したのは1965年2月だった。早速ベンチテストを開始したが、クランクケース・油温の上昇など多くの問題が発生した。変速機を強制潤滑するなど種々の改良を加え、1965年の12月には実走テストも開始した。 | |
現存するRS65の前フォーク周り。下ステアリングブラケットに部品番号RS512の刻印がある。 |
(2)”スクエア”3気筒とスクエア4気筒の並行開発
4気筒の開発に予想以上に手間取ったため、4気筒で解決できないことも3気筒であれば解決できるのではないかと、1965年11月にRJ66と名付けた3気筒計画に着手した。ボア・ストローク38.5×35.75mmの"スクエア”3気筒(スクエア4気筒の右後気筒を除去した形)である。下は技術者のノートに残る3気筒の構想図の一部である。
この構想図が書かれたのはいつ頃だろうか?構想図にRJ65という文字が見られるが、本来の計画開始時期の直前であれば、RJ65と名付けられるのはおかしい。また、1965年最終戦日本GPに9段変速の本来のRT65が登場(アンダーソン、越野が乗車)していたのに、3気筒の構想図が8段変速なのは? おそらく、この構想図は1965年の前半までに書かれたもので、「RJ65」は個人的な命名であり、シーズン中の多忙の中で計画がスタートしないままシーズンが終了し、シーズン終了後に計画がスタートしたのだろう。あるいは、1965年シーズン中に技術者が個人的に設計を始めていたかもしれない。
シュナイダーの回想 1963〜64年にスズキ・チームの一員だったベルト・シュナイダー(Bert Schneider)は次のように回想(by
"TEAM SUZUKI")している。 |
12月には設計図ができ、製作を開始、1966年2月にエンジンが完成しベンチテストを開始、3月には実走テストを開始と、急ピッチに開発が行われた。下は現存するRJ66のクランクケースである。エンジン番号が50番台であることから、当初の設計から小変更が加えられたものだろう。
前気筒は前方排気、後気筒は後方排気。右側気筒後ろの孔のうち、右側は回転計ケーブル取出口、その左上の孔はねじ溝があり、 その周辺にボルト孔がないので、ブリーザー差込口だろう。オイルポンプ取付部は見当たらない。初期型(エンジン番号J6-1〜)はオイルポンプ付で後期型(J6-50〜)はオイルポンプ無しなのだろうか? |
RS65の開発は停止したわけではなく、1966年は4気筒と3気筒の並行開発が行われた。そして1967年の初めには4気筒に集中することになり3気筒はお蔵入りになった。2月初めに1967年型のRS67の設計を開始、何とか4月30日の第1戦スペインGPに間に合わすべく作業が進められた。2月下旬、契約のためスズキを訪れたスチュアート・グレアム(Stuart Graham)が、ベンチテスト中の125ccスクエア4気筒を見ており、すでにRS67計画に着手していたとはいえ、RS65エンジンを用いてエンジン上周りの開発が継続して行われていたのだろう。
すでに1966年125t第7戦アルスターGPでヤマハ4気筒(RA31)が姿を現しており、1967年には本格参戦することが予想されていたが、一方では、4気筒の開発が遅れたため、2気筒のRT67の開発も並行して行わなくてはならなかった。
(3)最後はV4気筒
作業は遅れ、3月6日に1967年型のRS67(スクエア4気筒)のエンジン設計図ができ、第5戦オランダGPへの出場を目標として製作を開始した。第1戦スペインGP(4月30日)では予想どおりヤマハ4気筒RA31が登場し、RA31に乗るビル・アイビーが優勝し、スズキの開発チームにはますますプレッシャーがかかった。そして、5月9日に待望のRS67エンジンが完成しテストを開始したが、思わぬ問題が発生した。しばらくの間、問題点の解決のための努力が注ぎ込まれたが、結局、V型4気筒のRS67Uとして再設計することになった。
左は中野広之さんの7月4日付の日誌に残るRS67Uのレイアウト図である(「日本モーターサイクルレースの夜明け」)。スプロケットシャフトがないが、設計段階では追加された。12段変速のため、当然必要だったのだろう。クランクケースの分割法、マグネトの配置(「Mg」はマグネトの意)、駆動方法がわかる。
RS67Uの図面ができあがり試作開始したのが7月22日、そして9月15日に1号機エンジン(エンジン番号S7-2-1)が完成、早速、ベンチテストを開始した。テスト開始後、幾つかの問題点も出て来たが、変速機潤滑ポンプのためのオイルタンク装着(後にオイルクーラーに変更)、クランクピンの径拡大、冷却水配管変更などの改良を加えテストを行った。また、180度間隔点火(対角線2気筒が同時点火)に加えて90度等間隔点火も試みた。
すでに1967年125t全12戦中第9戦終了時点でメーカー選手権はヤマハのものとなっており(選手権はベスト7戦の得点の合計による有効得点で争われる)、第10戦イタリアGP(9月3日)でアイビーが優勝した時点で個人選手権もアイビーのものになっていたが、スズキは第11戦カナダGP(9月30日)を欠場しRS67Uの開発を進め、10月15日の最終戦日本GPでの雪辱を期した。
グレアムが来日しスズキを訪れたとき、ワークショップには4台のRS67Uがあったという。そのうち、3台をトランスポーターに積み、竜洋テストコースに向かいグレアムによる初テストが行われた。1週間程のテストの後、10月10日にFISCO(富士スピードウェイ)へ出発した。
(4)日本GP
FISCOに持ち込まれたRS67Uは、フレーム番号S7-2-1の1号車を始めとした2、3、5号車の4台で、1、2号車が片山義美用、3号車が伊藤光夫用、5号車がグレアム用である。
しかし、11日に自由練習が始まるとスズキを不運が襲った。エースの片山義美が11日の練習中に転倒、鎖骨を骨折してしまったのだ。何とか12日の自由練習は走ったが、レースは欠場することになった(13日の50ccの予選は走り、ポールタイムを出したが50ccレースも欠場)。
このため、その後の自由練習、公式練習(公式予選)では1号車に伊藤、2号車にグレアムも乗った。グレアムの12日木曜日(自由練習日)の日記には「〜used
50 and 125s」(125が複数形)とあるので、12日にすでに2号車に乗っていたものと思われる。
プラクティスでは、ビル・アイビーが1分39秒32でポール、以下、フィル・リード(ヤマハ)、グレアム、伊藤、金谷秀夫(カワサキ)、本橋明泰(ヤマハ)、湯沢康治(ヤマハ)と続く。カワサキも水冷45度V型4気筒のKR3(KA-U)を登場させ、金谷秀夫、森下勲(11位)に託していた。
結局、2人ともレースは本来のマシンに乗ることになった。また、グレアムがレースで使用したマシンのエンジンはS7-2-2なので、2号車のエンジンを5号車に積み替えたのだろう。伊藤はS7-2-3エンジンを使用した。
15日のレースでスズキは片山の転倒に続く不運に見舞われた。有名な「再スタート事件」である。
スタート予定の11時が迫り、スタート30秒前の表示がされたにも関わらず、マシンの整列が遅れ雑然とした雰囲気であった。そのときウォーミングアップを続けていたフィル・リード(ヤマハ4気筒)がスタートラインを突っ切りピット前のウォーミングゾーン一杯まで走っていった。その瞬間、シグナルが青に変わり、すでに態勢の整っていたスズキの2人は素早くスタート、他のライダー達も慌ててスタートを切った。直ちにシグナルは赤に変わったが、赤旗が出されなかったため、レースが中止になるまで2周を要した。当然のことながら2周にわたり全力で走ったスズキチームは猛烈な抗議を行った。審査委員会は競技役員のミスを認め11時40分に再スタートとすることとなった。
再スタートで、グレアムはスタートをミス、しかし、リードも最悪のスタート、最後にグリッドを離れた。谷口(カワサキKR2(KA-T)・水冷並列2気筒)はエンジンがスタートせずそのままリタイア。最初のヘヤピンではアイビー、金谷、伊藤、森下、湯沢、グレアムと続く。1周目終わりのホームストレートでは、アイビー、金谷、グレアム、湯沢。本橋は1周目終わりにピットイン・リタイア。2周目のヘアピンでグレアムは2位に上がり、続いて金谷、湯沢。2周目終わりのストレートではアイビー、グレアム、湯沢、金谷の順だったが、アイビーとグレアムの差は8秒あった。伊藤はピストンピンセットリングが外れ3周目終わりにピットインしリタイア。リードは9周目に6位に上がるがリタイア、湯沢は17周目にエンジン故障でリタイア。アイビーがそのままトップでゴール、グレアムは最終ラップにコーナーで排気管を路面に当て転倒しそうになるが何とか堪え2位、金谷が3位、森下が4位だった。
1位 ビル・アイビー(ヤマハ) 45分27秒48(155.34km/h) 2位 スチュワート・グレアム(スズキ) 46分16秒79(152.58km/h) 3位 金谷秀夫(カワサキ) 1周遅れ 4位 森下勲(カワサキ) 1周遅れ 最速ラップ アイビー 1分39秒64(157.49km/h)
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再スタート。 |
(5)日本GPの後
日本GPの後、レース部門は縮小されたが、RS67Uの開発は継続して行われた。下は1968年2月19日に行われたS7-2-2エンジンのベンチテストの結果である。
・「爆発180度」とあるが、これは90度等間隔点火と区別するためだろう。日本GPで使用された2号機エンジン、3号機エンジンとも180度点火仕様だった。
・排気管の比較テストを行っているが、日本GP出場時の排気管番号からすると、この番号はスクエア4気筒のRS67のものを含んでいるのだろう。そして1968年2月時点では番号が90番台になっている。排気管のタイプごとの最高出力(後車軸出力)は次のとおり。
S48-0(日本GP出場) 42.1PS/15850rpm
S95-0.7t 43.2PS/16200rpm (0.7tの文字は不明瞭、排気管の厚みが普通と違う?)
S92-0
43.8PS/16500rpm
グランプリレースからの撤退が発表されたのが、このベンチテストの2日後であるため、このテストが結果的に最終段階だったのだろう。そして、RS67Uはグランプリの歴史にたった1回の結果を残すだけとなった。しかし、それまで機密保持の名のもとにスクラップになってしまった多くのスズキマシンと異なり、RS67Uは2台以上も生き残ることとなった。1960年代のスズキの象徴として・・・
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