3 1967年
1967年型RD05Aの開発にあたっては、一から設計をやり直しエンジンを大幅にコンパクト化することとなった。すでに1966年シーズンが始まる頃には、RD05の問題点が明らかになっており、1967年型の開発が始まっていたものと思われる。基本的なレイアウトはRD05もRD05Aも同じである。諸元は次のとおり。
RD05(1965-66) | RD05A(1967-68) | |
エンジン型式 | 2ストローク水冷(空冷)70度V型4気筒 | 2ストローク水冷60度V型4気筒 |
ボア×ストローク | 44×41o | |
クランクシャフト | 2軸で各気筒クランクは独立、同軸のクランクは中央のギア内側スプラインで結合 | |
クランクベアリング | 4ボール(内側)、4ローラー(外側) | |
動力伝達経路 | 各クランク中央→ジャックシャフト→クラッチ→変速機メインシャフト→変速機カウンターシャフト | |
変速機段数 | 8段 | |
冷却水経路 | 水ポンプ→後方気筒→ラジエーター→前方気筒→水ポンプ | |
エンジン潤滑 | 混合(50:1)+分離給油 | |
エンジンオイルポンプ | プランジャータイプ(ジャックシャフトからウォームギアで駆動されるシャフト上部からギア駆動) | |
変速機オイルポンプ | ギアポンプ(ジャックシャフトから駆動される上記シャフト下部から駆動) | |
点火方式 | マグネト | マグネトまたはトランジスタ |
点火間隔 | 180度(対角線上の気筒が同時点火) | |
キャブレター | ミクニVM(ベンチュリー径?) | ミクニVM27(67年型)、VM27S(68年型) |
最高出力(※) | 65PS | 73PS(68年型) |
車重(燃料なしの半乾燥) | 135→128kg | 115kg |
軸距 | ? | 1315mm(68年型) |
タイヤ | 前3.00×18、後3.25×18 | |
前ブレーキ | 2リーディング2パネル | 260o径2リーディング2パネル |
後ブレーキ | 1リーディング1パネル | 220o径1リーディング1パネル |
※ 当時、ヤマハは変速機出力側からチェーンで動力計を駆動し、動力を測定していた。したがって、測定していたのは「後車軸出力」である。公表された出力は変速機出力側に換算された数値である可能性もある。
1967年型と1968年型の主な外観上の違いは次のとおり。
クラッチ | プレッシャープレートに孔が多数空いている。 |
キャブレター | 68年型はファネル部分が短い。 |
フレーム | 67年型はシートレールとバックボーンの間に段差がある。燃料タンクもその段差に合わせた形状 |
前ブレーキ | 67年型は前ブレーキの後部に複数の小さい孔がある。67年型はエアスクープが外に張り出しているものが大半 |
後ブレーキトルクロッド前端取付部 | 67年型はスイングアームのほぼ中央、68年型はスイングアームの前端 |
フェアリング | 67年型は前フォークが当たる部分に切り欠きがあり、前ゼッケン下が若干窪んでいる。全体的に 68年型の方が小振り。 |
67年型 | 68年型 | ||
シートストッパーには「R No2 Castrol R30 OK」と書かれている。リードのスペアマシン? | V角、フレーム形状がわかる。 | D05803/R05803(エンジン/フレーム番号) マグネト点火仕様 (おそらくマン島) |
「日本のレーシングモーターサイクルの歴史」(1973八重洲出版)に掲載されたヤマハの技術者の長谷川武彦氏(後に社長)の回想では「RD05Aの完成は67年12月、翌68年はホンダの退場のため〜」とある。では1967年型はRD05Aではなく、RD05なのだろうか?
RD05、RD05Aは所詮、名称だけの差であるが、エンジン外観は1965〜66と1967〜68では大きく異なるし、ビッグバイク誌1999年5月号の当時の技術者のインタビュー記事でも、RD05Aの登場は1967年である。なお、長谷川氏は1965年シーズン後に4輪部門に転出したはずである。
以下は1967年型RD05Aの戦績である。なお、レース展開の資料の大部分は中野広之氏からご提供いただいた。
第7戦東ドイツGP(ザクセン)
6周までリードとヘイルウッドの激しいトップ争いが演じられるが、7周目、ヘイルウッドの6気筒のエンジンが故障、ピットイン・リタイア。リードはペースを落としそのまま優勝。 1位 リード 46分40秒6(166.09km/h)、2位 アイビー 47分34秒1、3位 ブライアンズ 48分19秒4、最速ラップ:リード 3分1秒8(170.57km/h) |
第8戦チェコスロバキアGP(ブルノ)
1周を終わり、リード、アイビーのヤマハ勢はヘイルウッドに10秒の差を付ける。ヘイルウッドは追い上げをあきらめペースダウン、ヤマハ勢2人の独走になるが、チームの作戦かリードが優勝。なお、ピット前ストレートではヤマハが229.91km/h、ホンダが219.9km/hだった。
1位 リード 48分4秒2(156.57k/h)、2位 アイビー 48分4秒3、3位 ヘイルウッド
49分5秒5、4位 ブライアンズ 49分8秒4、最速ラップ:アイビー 5分13秒7(160.96km/h)
第9戦フィンランドGP(イマトラ)
第10戦アルスターGP(ダンドロッド)
第11戦イタリアGP(モンツァ)
第12戦カナダGP(モスポートパーク)
第13戦日本GP(富士スピードウェイ右回り4.359kmショートコース)
プラクティスではヘイルウッドが1分34秒98でポール、アイビーが1分36秒16で2位、以下、ブライアンズ、本橋、リード、長谷川弘(RD05A)と続く。
レースではヘイルウッドがフライング気味にスタートするが、1周目、長谷川がトップでホームストレートを通過、ヘイルウッドが直後につける。そのままレースが進むが、4周目、リードはエンジン故障でピットイン、リタイア。ヘイルウッドは5周目のヘアピンで長谷川を交わすが、ホームストレートでは長谷川が抜き返す。6周目終わりにヘイルウッドがピットイン、点火系の不調の様子、ピットアウトするが1周でピットイン、リタイア。長谷川、アイビーの順でそのままレースは進み、メーカーチャンピオンはヤマハのものと誰もが思ったが、26周目の1コーナーあたりで、長谷川がクランク破損でリタイア、アイビーがトップに立つ。しかし、アイビーも29周目、長谷川と同じ地点でクランク破損でリタイア。ブライアンズがトップに立ち、そのままブライアンズがトップでゴール、本橋が2位。この結果、メーカーチャンピオンは、全13戦中有効得点にカウントする7戦全てを制したホンダのものとなった。個人チャンピオンは二転三転の末、ヘイルウッドに決定した。
1位 ブライアンズ 53分5秒05(162.59km/h)、2位 本橋 53分26秒63、最速ラップ:長谷川 1分32秒71(169.26km/h)
ヘイルウッドはフライング気味。 | スタート前の長谷川。 | 長谷川のRD05Aの前フォークはカヤバ製、アイビーのRD05Aはチェリアーニ製。 | 本橋のRD05A、10Tの前フォークはカヤバ製で、10はチェリアーニ製。レース(右端)では10Tが用いられた。 |
1967年のRD05Aの戦績を見ると、エンジンの故障が非常に多いことに気付くだろう。戦績に関する元の記述が正しいとは限らないし、むしろ、当時は事実と異なることが表に出ることが少なくなかったようにも思うが、クランク大端部が大きな弱点になっていたようだ。「1967年、ヤマハはホンダに敗れたのではなく、ヘイルウッドに敗れた」ということもいわれるが、むしろ、自ら破れたのである。そして1968年に向けてのRD05Aの改良は、1967年の大きな敗因であったエンジンの信頼性向上に主眼が置かれた。