RD05/RD05A                                                                      YAMAHA

 ヤマハRD05Aは1967年世界選手権250ccクラスで惜しくもタイトルを獲得することはできなかった。翌1968年に選手権を獲得したとはいえ、ホンダが世界選手権から退場した後であり、印象は薄い。しかし、既に4ストロークがこのクラスで優位に立つことは困難となっており、遅かれ早かれホンダ4ストロークがこのクラスで勝てなくなることは明らかだった。

1 1965年

 RD05(社内呼称YX05)計画がスタートしたのは1964年10月の日本GPの直後。同年9月のイタリアGPでホンダ250cc6気筒が登場し、6気筒が改良されればヤマハ250cc空冷2気筒・RD56はホンダ6気筒の敵ではなくなることは明白だった。このため、ヤマハも多気筒化路線を走ることになったのである。

   エンジン形式は2ストローク空冷(水冷)70度V型4気筒、吸気制御はロータリーディスクバルブ、ボア・ストロークは44×41mmである。開発着手当時、スズキ125cc水冷2気筒がすでに一定の成果を上げており、2ストロークレーシングエンジンの水冷化は不可避だと考えられたが、250ccは125ccよりスロットル全開時間が短く、冷却能力の面で125ccよりは余裕があること、そして水冷化による重量増の懸念だろうか、空冷型と水冷型が並行して開発されたが、開発にあたっては空冷型が優先された。 

   1号機エンジンのベンチテストが始まったのは1965年4月だった、この1号機エンジンはベンチテスト開始直後にクランクギア、動力取出ギア(ジャックシャフト(動力取出しシャフト)上)が破損してしまった。対策として90度等間隔点火から180度間隔2気筒同時点火への変更が行われたが、他の部分についても様々な改良が行われ、天竜テストコースでの実走テストも行なわれた。しかし、当時、袋井テストコースはなく、天竜テストコースでは本格的なテストは無理だった。日本国内でヤマハが本格的なテストを行えるコースといえば、ホンダの子会社が経営する鈴鹿サーキットしかなかった。しかし、機密保持を考えるならば鈴鹿は無理であり、海外でテストを行うこととなった。

 フィル・リード、マイク・ダフによる最初のテストが行われたのはベルギーGP後の7月中旬、コースはスネッタートン(イギリス)で、空冷、水冷の両方が持ち込まれた。サーキットを貸し切ってのテストだったが、早くもモーターサイクルニューズ(イギリスの週刊誌)にスクープされてしまった。

 RD05の最初のレースに選ばれたのは1965年第12戦イタリアGP。前年のイタリアGPでホンダ6気筒に驚かされたお返しをしようというわけだ。しかし、1965年250ccクラス、個人タイトルはフィル・リード(ヤマハ)、メーカータイトルはヤマハに決定しており、ホンダはまだタイトルの決まっていない350ccクラスに集中するため、250ccクラスは欠場していた。

  RD05が与えられたのはリード(ダフはRD56に乗車)で、空冷型と水冷型各1台が持ち込まれた。左はスタート直前の水冷型で、フレームの上下高が高く、燃料タンクの下側に段差がある。前フォーク周りはRD56のもののようだ。中はエンジン部を拡大したもので、やや前傾した水冷シリンダーヘッド/シリンダーが分る。

 レース当日はイタリアGPにしては珍しく雨だった。リード(右)はスタートよく飛び出したが、プラグかぶりに悩まされピットインを繰り返し、結局、周回遅れの7位に終わった。

 

  最終戦日本GP(10月23〜24日)に向けての練習中、ヤマハのNo2ライダーのマイク・ダフが転倒負傷したため、10月15日、イギリスにいたビル・アイビーを電話が呼び出され、アイビーは18日に鈴鹿に到着した。そして、リード、アイビー、長谷川弘の3人体制で日本GPに臨むことになった。
 プラクティスではマイク・ヘイルウッド(ホンダ)が2分30秒9でポール、リードは2分31秒9で2位、アイビーが2分33秒9で4位だった。

 写真を見ると水冷型のフレームの上下高さが低くなり燃料タンクの下の段差が低くなった(空冷型は不明)ことがわかる。また、イタリアでは水冷、空冷ともフェアリングは共通だったが、日本GPでは水冷型フェアリングの開口部の下半分をアルミ板で塞ぐようになった。

 レース(250ccは24日)では3人共、水冷型を選択した。スタートではマイク・へイルウッド(ホンダ6気筒、このレースから再びホンダに乗ることになった)が飛び出し、リードは若干遅れたものの追い上げ、1周目ヘアピンでは追いついたのだが、転倒。マシンを起こして再スタート、ピットインしフェアリングをテープで補修し、再スタートしたが結局リタイアした。アイビーはスタートでプラグをかぶらせ、序盤でピットイン、プラグを交換してからは快調に走り4位となった。長谷川はスタートではやや遅れたが、追い上げ3位に上がったが、エンジン不調になり遅れ、最終ラップには立体交差上でストップ、表彰式が行われるころにゆっくりゴールした。

長谷川の空冷RD05(手前)と水冷RD05(後)
 
アイビーの水冷RD05の前ブレーキ冷却フィン 再スタート後のリード(水冷RD05) 長谷川の水冷RD05 アイビーの水冷RD05 長谷川の水冷RD05と片山義美のRZ65

2 1966年

 1966年型のRD05は水冷型一本で開発が進められた。フェアリングを装着した外観は1965年型と大きく変わらない。

 そして、1966年の250ccクラスはヤマハにとってマイク・へイルウッド+ホンダ6気筒に8連勝を含む10勝を許すという不本意な結果に終わった。果たして、RD05は失敗作だったのだろうか。1966年のRD05のレース記録をそれ以外の年のレース記録と比較してみよう。

 最近のGPとは異なり当時のレースは距離が長い。また、ライバルの数も少ないため、レース展開により大きくレース記録が異なる(レース途中でライバルが消えれば当然、ペースが落ちる)。何らかのトラブルを抱えたまま優勝ということも多かった。もちろん、天候の違いも考慮する必要はある。しかし、こうして並べてみるといわれるほど1966年のRD05の記録がそれほど悪い訳ではないことに気が付くだろう。むしろ、この年のマイク・ヘイルウッド+ホンダ6気筒が際立っていたこと、RD05のマシントラブルが多かったことが、このような結果になった思う。

開催国

 

コース

 

67(ヤマハ)最上位記録

66(ヤマハ)最上位記録

65(ヤマハ)最上位記録

64(ヤマハ)最上位記録

順位

ライダー

レース速度

順位

ライダー

レース速度

順位

ライダー

レース速度

順位

ライダー

レース速度

スペイン

モンジュイック

1

リード

118.03

1

ヘイルウッド

118.328

1

リード

117.173

3

リード

113.91

ドイツ

ホッケンハイム

2

リード

172.6

3

アイビー

175

フランス

クレルモンフェラン

1

アイビー

125.64

3

リード

125.66

1

リード

121.26

オランダ

アッセン

2

アイビー

143.01

2

リード

131.14

1

リード

140.464

2

リード

142.31

ベルギー

スパ

1

アイビー

196.74

2

リード

195.9

2

リード

193.4

1

ダフ

190.54

東ドイツ

ザクセン

1

リード

166.09

2

リード

163.32

2

リード

143.3

1

リード

160.36

チェコスロバキア

ブルノ

1

リード

156.67

2

リード

148

1

リード

153.4

フィンランド

イマトラ

2

アイビー

125.1

1

ヘイルウッド

132.7

1

ダフ

133.4

マン島

マウンテンコース

2

リード

164.19

1

ヘイルウッド

163.81

2

ダフ

152.4

1

レッドマン

156.76

イタリア

モンツァ

1

リード

192.79

1

ヘイルウッド

182.91

1

リード

183.32

「(ヤマハ)最上位記録」はヤマハのライダーが上位入賞したときはその記録、ヤマハのライダーが上位入賞しなかったときは、1位の記録を記入している。

66年にヤマハ、ホンダのライダーが上位入賞しなかったアルスターGP、66年のみ用いられた富士スピードウェイ6kmフルコース(日本GP)は省いた

「−」は、66年に使用されたコースでGPが開催されなかったレースコース。

速度の単位はkm/時。
 どちらにしろ、1966年のRD05はホンダ6気筒+ヘイルウッドの敵ではなかった。シーズン途中からヤマハチームは選手権を諦め、1967年に向けての試みを行うようになり、選手権をホンダと激しく争っていた125ccクラスに集中した。結局、この年、ヤマハが250ccクラスで優勝したのはホンダがボイコットした最終戦日本GP(長谷川が優勝)だけだった。

 ライダーはリード、アイビーの2人体制で、日本GP以外ではオランダGPのみボブ・アンダーソンにRD05が与えられた。

 
 右の写真のマシンは何れもチェリアーニ製前フォークを装着している。
 前年日本GPでアイビーのマシンに装着された前フィン付ドラムブレーキがシーズン当初用いられたが、大径の新型前ブレーキがドイツGPで登場しアイビーが用い、フランスGPか らリードも使用した。
スペイン ドイツ フランス ベルギー チェコスロバキア アルスター 
 下左端は第10戦TTレースでのリードのマシン。スイングアームのリアショック取付部を複数選択できるようになっている。
 下左は日本GPでのRD05(リードまたはアイビーのマシン)で、前フォークは新型(おそらくカヤバ製)になっているが、前ブレーキドラムは旧型(RD56のもの)。下右は長谷川とアイビー、下右端はアイビー。前フォークはチェリアーニ製で前ドラムブレーキは旧型。
    なお、日本GPでは250ccクラスに加えて350ccクラスにも僅かに排気量を増加させたRD05が出場、リードが優勝した。
              TT                                     日本

RD05エンジンの基本設計は1つ?

 当時のモーターサイクリスト誌の65年、66年の日本GPのリポートで「65年は下側気筒のエンジン幅が上側気筒より50mmほど広く、66年は上下とも同じになった」、「 上下のロータリーバルブが重なりあっている」という記述がある。また、「日本のレーシングモーターサイクルの歴史(1973八重洲出版)でも、RD05Aについて「ロータリーディスクバルブのオーバーラップ(水平気筒が外側)もこの時点ではなくなっている」と、RD05のロータリーディスクバルブがオーバーラップしているとしている。しかし、66年終盤のRD05の写真でもロータリーバルブのオーバーラップはないし、各バンクのシリンダーピッチは同じように見える。「記者の見間違い」が検証されずに引用される例である。

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