RC165-2RC166/RC174 HONDA
1 1964年
1963年の250cc世界選手権で、ホンダはモリーニ・4ストローク単気筒に乗るタルキニオ・プロビーニ(資金的な問題からマン島TT、東ドイツGPを欠場)に思わぬ苦戦を強いられた。最終戦日本GPでホンダのジム・レッドマンはヤマハRD56(2ストローク2気筒)に乗る伊藤史朗を僅かな差で退け優勝し選手権を獲得したが、仮にレッドマンが優勝できずプロビーニが2位以上であればチャンピオンはレッドマンではなくプロビーニになるところだった。そして、この年から参戦を再開し、この日本GPを含めて4GPに出場したヤマハも、レッドマンが負傷欠場したベルギーGPで伊藤が優勝、他の3GPでも伊藤がレッドマンに次いで2位入賞するなど,ホンダにとって脅威となっていた。
このようなことから、11月の日本GPの後にホンダは4気筒に替わる6気筒計画に着手した。ボア・ストローク39×34.8oのRC165である。
1963年12月に設計開始したとすると下表のようなスケジュールが考えられる。試作1号機完成からGPデビューまでかなり期間があることになる。ホンダの技術者だった八木氏によると「1号機組立て終了後4日後に52PS/17000rpmを発揮した」ということだが、これはいつのことなのだろうか? ケース1 3〜4月試作1号機完成、出力は目標を達成したがトラブルが続出し改良に期間を要した。 ケース2 3〜4月試作1号機が完成したが、出力、信頼性共十分ではなく、設計をやりなおした。八木氏が言及したのは再設計後のエンジン。 ケース3 設計完了が遅れ6月頃から試作開始、8月に試作1号機が完成した。
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ホンダは1964年の第1戦USGPを欠場し第2戦スペインから出場したが、4気筒に乗るレッドマンはプロビーニ(ベネリ4気筒)に抑えられ2位、第3戦フランスGPでも63年型ヤマハRD56に乗るフィル・リードが優勝、レッドマンは2位だった。マン島でレッドマンに6気筒の開発がスタートしていることが知らされ、その第4戦マン島(64年型ヤマハRD56が登場)、第5戦オランダとレッドマンが連勝、タイトル争いの首位に立った。しかし、第6戦ベルギーGPではマイク・ダフ(RD56)、そして第7戦ドイツGP、第8戦東ドイツGP、第9戦アルスターGPとリードが3連勝し、ヤマハ4連勝で250ccクラスのメーカータイトルは初めてヤマハのものとなった。
通関に手間取ったが何とかイタリアGPに間に合った。RC165がモンツァに持ち込まれた時、エンジン周りにはカバーが掛けられ6気筒であることを隠しており、その正体を現したのはエンジンに火が入りウォームアップを開始したときだった。そしてレッドマン(左、右)の手によりプラクティスを開始すると圧倒的な直線スピードを見せ、リードと同じトップタイムを記録した。 レースでも、レッドマンは序盤からリードを奪ったが、7周目頃から徐々にペースが落ちリードに抜かれ終盤にはダフにも抜かれ3位でゴール、個人タイトルもリードのものとなり、ホンダは1961年から3年間保持していた250ccクラスの個人/メーカータイトルを失った。 |
第11戦(最終戦)日本GPには、改良されたRC165(下左、下中、下左)がレッドマン、ルイジ・タベリに与えられた。イタリアGPからの外観上の変更点は次のとおり。
・フェリング下部がオイルパンを包んでいたものを、オイルパンをフェアリング下部に突き出すようにした。
・フレームのリアショック上部取付部周辺の形状変更。
・前ブレーキを前フォークに直付けしていたものをトルクロッドで固定するようにした。
プラクティスではレッドマン(下中)が2分31秒6でポール、2位リード2分32秒1、以下長谷川弘(RD56)、マイク・ヘイルウッド(MZ水冷2気筒)、粕谷勇(ホンダ2RC164)、タベリ(下右)2分37秒4、伊藤史朗(RD56)と続く。 | |
レースではレッドマン、タベリが好スタート、やや遅れてヘイルウッド、粕谷、リード、長谷川、伊藤と続く。ヘアピンではリードが追い上げ2位、ヘイルウッドも3位に浮上、タベリは粕谷にも抜かれ5位に落ちる。しかしレッドマンは少しづつ2位以下との差を広げ、18周になるとリードのRD56はエンジン不調になり19周目には粕谷が2位に浮上、リードは21周でリタイア。レッドマンはそのまま独走で優勝、2位粕谷、3位長谷川、4位タベリだった。 |
2 1965年
1964年日本GPの直後から1965年に向けて新型エンジン2RC165Eの開発が始まっていた。クランクシャフト周り、シリンダーヘッド周りを見直し(吸気バルブ径拡大等)したエンジンである。
別冊モーターサイクリスト誌2000-6号のRC166特集では、2RC165について「〜フリクションロス低減のためクランクピン径とジャーナル径を縮小している。」と書かれている。本記事は元ホンダの八木静夫氏らがまとめた1994年の「HONDA R&D Technical Review」に掲載された「世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史」(以下「前編」)及び「ホンダの二輪レース用機関の出力特性−機関諸元の選定−」(以下「後編」)を参考にしているようで、前編の諸元表には2RC165の欄に「クランクピン径とジャーナル径を縮小」と書かれている。 しかし、後編のTable3のRC165、2RC165、3RC165、RC166のクランクシャフト平均軸径は16.2oで変わらない。また、ボア×ストロークとクランクシャフト平均軸径から計算される「諸元係数」も4機種共同じ値が記載されており、後編Fig8の諸元係数のグラフも同様であり、前編の記述と矛盾している。 一方、八木静夫氏がまとめた「ホンダエンジン開発史」では、RC165のクランクシャフト平均軸径は17.23mm、2RC165及び3RC165のクランクシャフト平均軸径は16.23mmとなっている。「17.23mm」という具体的な数字が記載されており、本文中でも2RC165について「〜16.23としてPmltの低減を図るとともに」とあることから、RC165→2RC165の過程でクランクシャフト平均軸径が縮小されたことになる。ただ、小数点以下の数字が「0.23」と全く同じだが、単なる偶然なのだろうか。後編中のRC165の諸元係数の値は解析時のミスによるものだろうか。 |
ホンダは第1戦USGPを欠場(リードが優勝)、第2戦ドイツGPからの出場となった。2RC165Eは間に合わず、1964年日本GPのマシンと基本的に同じRC165(RC165E/RC165F)が持ち込まれた。しかし、レッドマンは250ccレースの前日に行われた350ccレ−スで転倒負傷し欠場。優勝はリード、2位ダフ。
第7戦ベルギ−GPはレッドマン(上右、※中野広之さんのHPから引用)、リードの激しい争いになり、レッドマンがリードを0.4秒差で退け優勝、3位以下はダフ、片山、ぺリス、ビール(ホンダ4気筒).。レッドマンのマシンは「101」だろう。
第8戦東ドイツGPはレッドマンの楽勝、2位はリード、5位ビールだった。以後、スズキは第12戦まで欠場。
このようなことからすると第5戦マン島TTで登場した2RC165Eが第5戦以降そのまま用いられたのではなく、RC165Eが用いられたり、「RC165Eヘッド+2RC165Eシリンダーブロック」あるいはその逆の組合せが用いられた可能性がある。 |
第9戦チェコスロバキアGPは、終盤までレッドマン、リード、ダフの争いが続いたが、レッドマンのペースが残り2周あたりから落ち、リード、ダフのヤマハ1、2、レッドマン3位。
第10戦アルスタ−GP、レッドマンは先に行われた350ccレ−スで変速機故障のため転倒負傷し250ccレースは欠場。欠場が決まった時点でメーカータイトルはヤマハに決まり、個人タイトルも事実上リードのものとなった。レースはリード、ダフが1、2位、ブライアンズがホンダCR72で5位。
第11戦フィンランドGP、レッドマンは負傷が癒えず欠場。チャンピオンを獲得したリードも欠場し、ダフが優勝、Rosner(MZ)・3位ブライアンズ(CR72)、4位ビール(CR72)。
第12戦イタリアGP、レッドマンは350ccクラスに集中するため欠場、ヤマハはRD05(水冷70度V型4気筒)を初登場させリードに与えたが、トラブル続きで7位がやっと。ダフもリタイアしタルキニオ・プロビーニ(ベネリ4気筒)が優勝。
最終戦(第13戦)日本GPでは、1961年にホンダに乗り250ccチャンピオンとなったマイク・ヘイルウッドが久し振りにホンダに乗ることになった。プラクティスの順位は、ヘイルウッド(下左端)、リード(RD05)、レッドマン、アイビー(RD05)、粕谷勇(下左)、片山、長谷川(RD05)。 レース当日、レッドマンは前日の350ccレ−スで顔を蜂に刺され欠場。スタートはヘイルウッドが良く、リードが少し遅れるが追い上げヘアピンで追いついたが転倒、結局、ヘイルウッドがそのまま独走し優勝、2位粕谷、3位アイビーだった。 持ち込まれた2RC165E(フレームはRC165Fだと思われる)はいずれもフェアリング両端にオイルクーラーが装着されていた。それまでのレースでもオイルクーラーが別位置に装着されていたかもしれないが、フェアリング両端に装着した姿が初めて確認されたのはこのレースである。 |
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左端のヘイルウッドのマシンのオイルパン形状はそれまでのものとは異なる。オイルクーラーが装着されたことを考え合わせると新造エンジンだと思われる。右はヘイルウッドまたはレッドマンのマシンだが、クランクケース後端の形状はマン島TT時と同じ。右端の粕谷勇のマシンも同様。 |
なお、日本GPでは350ccクラスでもホンダ6気筒が走った。レッドマンとジャコモ・アゴスチーニ(MVアグスタ3気筒)の個人タイトル争いが日本GPに持ち込まれており、アゴスチーニが優勝しレッドマンが3位以下ならアゴスチーニ、アゴスチーニが2位以下ならレッドマンという形勢だった。
プラクティスで2RC165Eのボアを僅かに広げ255ccとしたマシン(左)にレッドマンが乗ったが、結局、レッドマンはレースでは4気筒の2RC172に乗り、6気筒には粕谷が乗った。
レースでは序盤、アゴスチーニ、ヘイルウッド(MVでの最後のレース)がレッドマンをリードするが、アゴスチーニが点火系の故障でピットイン、ヘイルウッドがスパートし優勝、2位レッドマン、粕谷は3位入賞した。
1965年、レッドマンは350ccクラスでの転倒・負傷に苦しむと共に終盤はタイトルの掛かった350ccに集中するため250ccクラスを欠場、250ccクラスでは全13戦中6戦に出場、3勝するに止まった。しかし、優勝できなかった他の3レースも2レースはトップを走りながら変速機故障で遅れ、1レースではレース終盤に遅れ優勝を逃す、というようにレッドマンにとって不運なシーズンだった。ホンダ6気筒は1965年、能力がありながら選手権をホンダに奪還することができなかったのである。
3 1966年
また、フレームは1965年型に比べ大幅に剛性を向上したものになった。1965年日本GPの後、ヘイルウッドとホンダの関口氏との間で1966年型のマシンについて話合いが持たれたということであり、これが反映されたのだろうか。以下、1966年の当初のマシンを3RC165E/3RC165Fと表記する。
もう一つの可能性として、2RC165Eと3RC165Eのエンジン後部の形状は同じであり、3RC165EとRC166Eはエンジン後部の形状が異なっていたことが考えられる。 しかし、1966年に確認できた6気筒マシンは全てエンジン後部の形状が2RC165Eとは異なっていること、125cc5気筒RC149Eが1966年シーズン当初から6気筒用マグネトを使用しブリーザーの位置がRC166Eと同様になっていたことから、本頁では3RC165E、RC166Eいずれもエンジン後部の形状は同じとした。 |
第1戦スペインGP、レッドマンが序盤、先行するが5周目に転倒しマシンは炎上、リード、アイビーのヤマハRD05勢もプラグかぶりでリタイアしヘイルウッド(下左端)が独走し優勝。
第2戦ドイツGP、プラクティスではリードがポール、レースでも好スタートを切るが1周目の終わりでヘイルウッド(下左の右)がかわす。リードは2周目に再びトップに立つが最終コーナーで転倒、直後を走っていたヘイルウッドは何とかかわした。その後はレッドマン(下左の左、下中)、ヘイルウッドの争いになったが、0.4秒差でヘイルウッドが優勝。
レッドマンのマシンのオイルパンは第1戦のヘイルウッドのマシンのものとは若干異なる。
スペイン
ドイツ フランス
第7戦チェコスロバキアGP、プラクティスでヘイルウッド(上右)の3RC165Eエンジンが壊れ、グレアムのマシンに乗ることになった。このため、グレアムは欠場、レースはヘイルウッドが優勝、リードが2位、ダフが4位。ヘイルウッドは全12戦の過半数となる7戦を開幕7連勝で制し個人タイトルを獲得、ホンダもメーカータイトルを獲得した。ヘイルウッドのマシンは第6戦東ドイツGPで使用したものと同一。
なお、ヘイルウッドは350cc、500ccでも勝ち、1日に3クラス優勝した2人目のライダーとなった(1人目は1964年のオランダGPで125cc、250cc、350ccクラスに優勝したレッドマン)。
第8戦フィンランドGPではグレアムに古い2RC165E/RC165Fが与えられた(上右の37)。1965年日本GPを走ったマシンと外観上は同型であり、おそらく展示用にヨーロッパに送られていたマシンが急遽持ち込まれたものと思われる。優勝はヘイルウッド(上右の5)、2位グレアム。
第9戦アルスターGP、3クラスチャンピオンに挑むヘイルウッドは500kmルール(1日に走るレース距離は500km以内)のため、既にタイトルの決まった250ccクラスを欠場した。レースではグレアムが出場したが、リタイア。
下左は第11戦イタリアGPのパドックだが、ヘイルウッドのマシンのキャブレターはフラットバルブで、ブリーザーキャッチタンクは従来どおりエンジン前方にあることがわかる。このマシンは第10戦マン島TTに出場したマシンと同一。
レースでは、グレアムがヘイルウッド(下右)の後でチャンスを窺っていたが、残り4周余りというところでグレアムのマシンのクランクシャフトが破損しリタイア、ヘイルウッドの楽勝に終わった。ヤマハ勢は欠場。そして第12戦日本GPは、シーズン中にホンダが予告したとおり富士スピードウェイの安全性を理由にボイコットした。
このように、ヘイルウッドは1966年250ccクラスにおいて、出場した10レース全てに勝つという圧倒的な強さ・速さを見せた。しかし、その強さはヤマハのニューマシン・RD05が期待とおりの性能を出せなかったことによることも多く、改良型RD05Aが登場する1967年にホンダ6気筒の真価が問われることになるのである。 |