3 1968年

 1967年に125ccクラスのタイトルを手にしたヤマハだったが、1968年に向けて、エンジン、車体とも再設計したRA31Aの開発を進めていた。スズキが1967年最終戦日本GPにRS67Uを登場させたが、その以前からスズキが4気筒125ccを開発していることは衆知の事実であり、RS67Uの登場を待つまでもなく、RA31に替わるマシンの必要性が認識されていたのである。
 しかし、RS67UをベースにしたRS68の開発を進めていたスズキは1968年2月21日にグランプリレースからの撤退を発表、ヤマハはライバルを失うことになった。
 
 ヤマハチームのライダーは1967年と同じフィル・リードとビル・アイビーの2人である。そして2人の間で無駄な争いを避け、125ccはリード、250ccはアイビーがタイトルを取るという「協定」が行われた。この「協定」はシーズン当初は順調に機能した。リードは第1戦ドイツで優勝、第2戦スペインは2人ともリタイア、そして第3戦マン島TTを迎えた。

 マン島TTレースは1907年に始まり、1911年からマウンテンコース(第1次大戦後に再開された1920年にコースを一部変更)が使われるようになったが、「オーバー・ザ・トン」(平均時速100マイル突破)が一つの目標となっていた。初のオーバー・ザ・トンは1957年にジレラ500cc4気筒に乗るボブ・マッキンタイアにより達成されたが、350ccでは1962年にMVアグスタ4気筒に乗るゲーリー・ホッキングとマイク・ヘイルウッドが記録した。そして250ccクラスではその3年後の1965年にヤマハRD56(空冷2気筒)に乗るリードにより達成されていた。そしてその僅か3年後の1968年、アイビーは250ccの半分の排気量でオーバー・ザ・トンを狙ったのである。

 リードはゼッケン2で最初にスタート、アイビーはゼッケン9で5番目にスタート。アイビーは1周目で早くもオーバー・ザ・トンに迫り、2周目には22分34秒0:100.32mphでオーバー・ザ・トンを達成した。しかし、アイビーの狙いはオーバー・ザ・トンだけであり、「協定」により3周目は途中でストップし、悠然と2位でゴールした。

 125ccTTが世界選手権の1戦として行われたのは1973年までで、1974年に単なる国際レースとして行われたのを最後に中断したが、1974年までにアイビーのラップ記録は更新されなかった。マン島TTに125ccクラスが復活したのは1989年であり、アイビーの記録が更新されるまで21年を要したのである。
 しかし、ライバルを失っていたヤマハはTTレースの後、ファクトリーチームを引き上げ、RA31Aはリードとアイビーに貸与されることになった。そして、シーズン中盤には、ヤマハは1969年にファクトリーマシンを出さないことが明らかになった。リードは”最後”のチャンスと、7月の250ccチェコ
 スロバキアGPから「協定」を反故にし、250ccクラスでもタイトルを獲得する決意を固めた。このため、2人の間は険悪な状態となった。しかし、第4戦から最終戦(第9戦)までの6戦でリードは4勝、アイビーは第7戦フィンランド、第9戦(最終戦)イタリアで2勝するに留まり、リードは第6戦チェコスロバキアで優勝した時点で125ccクラスのタイトルを手にした。
マン島 オランダ チェコ フィンランド アルスター

 125ccクラスが2気筒6段変速機に制限されるのは1970年からで、1969年もRA31Aが出場することは可能だったが、ヤマハは1968年を最後にGPレースからファクトリーマシンを撤退させ、4ストロークに続いて小排気量クラスでの2ストローク多気筒の歴史も幕を閉じたのである。

4 諸元等

(1)諸元
  RA31(1967) RA31A(1968)
エンジン形式 2ストローク水冷60度V型4気筒
ボア×ストローク o 35×32.4
クランクシャフト 2軸で、各気筒クランクは独立、同軸のクランクは中央のギア内側スプラインで結合
クランクベアリング おそらく、4ボール(内側)、4ローラー(外側)
動力伝達経路 各クランク中央→ジャックシャフト→クラッチ→変速機メインシャフト→変速機カウンターシャフト
変速機段数 9段(1967年、特定のレースでは11段が用いられた可能性あり、1966年型は10速)
冷却水経路 水ポンプ→後方気筒→ラジエーター→前方気筒→水ポンプ
エンジン潤滑 混合(50:1)+分離給油
エンジンオイルポンプ プランジャータイプ(ジャックシャフトからウォームギアで駆動されるシャフト上部からギア駆動)
変速機オイルポンプ ギアポンプ(ジャックシャフトから駆動される上記シャフト下部から駆動)
点火方式 マグネト マグネトまたはトランジスタ(※)
点火間隔 180度(対角線上の気筒が同時点火)
キャブレター  ミクニ VM22 ミクニ VM22S
最高出力(※) PS 40? 44PS
車重(燃料なしの半乾燥)  93 90.5
軸距 mm ? 1240
タイヤ 前2.50×18/後2.75×18
前ブレーキ 200o径2リーディング2パネル
後ブレーキ 200o径1リーディング1パネル

※ 当時、ヤマハは変速機出力側からチェーンで動力計を駆動し、動力を測定していた。したがって、測定していたのは「後車軸出力」である。公表された出力は変速機出力側に換算された数値である可能性もある。
※トランジスタ点火が開発されたが(RD05A編参照)、マグネト点火が主に用いられた。 

(2)67年型と68年型の外観上の差異
 1967年型と1968年型の外観上の違いは次のとおり。RA31AはRA31の基本的なメカニズムは変更せず、エンジン、車体も再設計したマシンであることが分る。

ディスクバルブカバー 1968年型は上下2気筒分一体、1967年型は各気筒別体
キャブレター 1968年型はファネル部が短い
排気管 1968年型は膨張部分が大きい
排気管遮熱板 1968年型が大きい
フェアリング 1967年型は右側にクラッチが露出
シートストッパー 1968年型が大きい
 
67年型 68年型
V角がわかる。ディスクバルブカバーは各気筒別体。 フェアリングにクラッチが露出。排気管膨張部分は小さい。 排気管、排気管遮熱板の違いが分かる。ディスクバルブカバー
は左右各2気筒分一体。

 なお、RA31/RA31AとRD05Aはその成り立ちから分るように外観がよく似ており、大きさを比較するものがないと判別に困ることもある。雑誌等でも間違えて解説していることが少なくない。

5 現存するマシン

(1)A31802/R31802
 ヤマハが保有するマシン(上右・右端)。存在が明らかになったのは1973年に再公開された時で、その時点では右シフトであり、リードまたはアイビーのマシンである。その後、1983年にフジ・モーター・ミュージアムに貸し出し展示され、同ミュージアムが閉館するとヤマハに戻ったが、1998年のセンチニアル・クラシック・TTで再び姿を現し、本橋明泰の手により素晴らしい走りを再現した。その後、幾つかのイベントで姿を見せたが、なかなか完調な走りを見せてくれないのが残念である。

 点火系は1998年タイムトンネルまではマグネト点火だったが、1998年スズカヒストリックミーティングの時にRD05Aと点火系を交換しトランジスタ点火になった。右端はトランジスターユニットの銘板。前後のリムに「YX-31AF」、「YX-31AR」という刻印がある。
     
(2)その他
 
他にもヤマハから流出したRA31/RA31Aが存在するという噂が絶えない。右のマシンは1967年型RA31だが、どこで撮影されたものなのだろうか。ヤマハから流出したものなのだろうか。
     
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