RA31/RA31A                      YAMAHA

 ヤマハ125cc4気筒RA31/RA31A(社内呼称:YX31)は1967年、1968年の125cc世界選手権を獲得し、1968年マン島TTレースで125ccクラス初のオーバー・ザ・トン(平均時速100マイル突破)を記録した。

1 1966年

 1965年125cc世界選手権は、1964年のタイトルをホンダに奪われたスズキが第1戦から4連勝したが、ヤマハは第5戦マン島TTレースに2気筒RA97の水冷型を登場させ、フィル・リードが幸運にも優勝、続くオランダGPでもRA97に乗るマイク・ダフが優勝した(その後、最終戦以外は欠場)。しかし、1965年最終戦日本GPにホンダが5気筒RC148を登場させ、エンジントラブルで2位(優勝はヒュー・アンダーソン(スズキRT65))に留まったとはいえ、素晴らしい速さを見せた。また、スズキも2気筒に加え4気筒の開発を行っていることが噂されていたのである。このため、ヤマハは1966年に向けRA97の改良を行うとともに、ホンダ、スズキに対抗するため、日本GPの後に125cc4気筒RA31の開発に着手した。既に250ccクラスでは1965年第12戦イタリアGPで70度V型4気筒のRD05を登場させ1967年型から60度V型4気筒になったが、RA31は当初から60度V型4気筒で計画された。

 1966年125ccクラスはホンダ5気筒RC149に乗るルイジ・タベリとRA97に乗るビル・アイビーによる選手権争いが繰り広げられ、第6戦フィンランドGPを終わり、タベリ3勝、アイビー2勝、リード1勝という状況だった。そして第7戦アルスターGPに向けRA31が空輸された。しかし、アイビーはアルスターGPの1週間前、イギリス国内のレース(ブランズハッチ)にマチレスで個人出場し転倒、頭部を打撲してしまった。アイビーはアルスターGPに姿を見せたものの、体調は十分ではなくマシンに乗ることはなかった。プラクティスでRA31はリードに委ねられたが、まだレースに走らせるレベルではないと判断され、リードはレースではRA97を選択。レースはタベリ、ブライアンズのホンダ1-2で、リードは3位。

 第8戦マン島TTレース、左はプラクティス中のアイビーのマシンで、RA97とは異なるフェアリング、前傾したシリンダーヘッドからRA31と分る。前フォークはチェリアーニ製。レースではRA97が用いられ、アイビーが優勝したが、続く第9戦イタリアGPでアイビー、リードはタベリ、ブライアンズのホンダ1-2を許し、1966年の世界選手権はタベリとホンダのものとなった。

 
ホンダは富士スピードウェイの安全性を理由に最終戦(第10戦)日本GPをボイコット、レースはRA97に乗るアイビーが優勝した。第9戦、最終戦にRA31が持ち込まれたかは不明。1966年日本GP125ccクラスに出場した安良岡健(カワサキ)は、日本GP前の富士でのテストにヤマハが4気筒を持ち込んでいた(1978年モトライダー誌)、と回想していたが・・・

2 1967年

 ホンダは1966年を最後に50cc、125ccクラスから撤退、250cc、350cc、500ccに出場することとなったため、125ccクラスでのヤマハのライバルはスズキのみとなった。ヤマハはリード、アイビーの2人体制で、日本GP以外ではマン島TTのみ本橋明泰が出場した。

 以下のレース記録の大部分は、「日本モーターサイクルレースの夜明け」から引用している。

 第1戦スペイン、プラクティスではRA31に加えRA97も持ち込まれたが、アイビー(左)、リード共にRA31を選択した。2周まではアイビー、リード、片山(スズキRT67V)が首位争うが、アイビーが3周目にリードを奪いリードを広げ出す。アイビーのRA31は終盤1気筒が不調となるもののそのまま優勝、リードが2位。片山、グレアム(スズキRT67U(片山とグレアムのマシンは、エンジンは同じだがフレームが異なり、片山のマシンの方がエンジン搭載位置が高く前面投影面積が小さい))が3、4位。

  スペイン ドイツ
 第2戦ドイツGP、リードはスタ−トで遅れ、アイビー(上右)も最後尾スタ−ト。1周終りではアンシャイト(貸与されていたスズキRT66で個人出場)、片山、リード、グレアムでアイビーは7位。2周目はリードが首位、アイビーは4周で2位、5周目にはリードも抜き首位に立つ。しかし、アイビー、リード共には9周目の最終コーナーで1周遅れを抜き損ない、転倒しリタイア、片山が優勝、2位アンシャイト。

 第3戦
フランスGPは、アイビー(左)が優勝、18.5秒遅れでリードが2位、さらに1.8秒遅れ片山、4位グレアム。右はフランスGPで撮影されたものと思われるが、2基の2気筒用マグネト、キャブレターの大きなファネル部が分る。
フランス
 第4戦マン島TTレースには本橋も出場した。レースは10秒間隔のインターバルスタートで始まり、グレアムが最初にスタート、20秒後にアイビー、20秒後にリード、10秒後に本橋と片山が続いてスタート。片山は1周目バラクレーンを過ぎてエンジン焼付きでリタイア、スルビーではグレアム、本橋が1位。アイビーはクラッチ不調で1周目にリタイアし、1周終りではリードが1位でグレアムが1.4秒差で2位、3位本橋。2周を終わった時点ではグレアムがリードに0.8秒差で首位に立つ。彼の父レスリーは1949年初代500cc世界チャンピオン(マシンはAJS)で、1953年125ccTTでMVアグスタに乗り優勝したが、500ccTTの事故で死亡していた。息子は父が勝った125ccTTで勝つことができるか? 2人の争いは3周目(最終周)も続き、スルビーでもグレアムが首位だったが、山岳地帯でリードが盛り返し、3.4秒差で優勝。本橋も健闘したが、エンジンが調子を落としたようで3位。4位は1位から4分余り遅れたデイブ・シモンズ(カワサキKR2(KA-T))。
 左端はスタート前、ゼッケン6はアイビーのマシン、10はリード、11は片山、その奥は本橋。左は本橋、右はリード(いずれもレース中)、右端は本橋(手前)、リードのRA31。
 第5戦オランダGP、リード、アイビーともにスタートで大きく遅れ、1周目の片山、グレアムとの差は25秒。片山のマシンは不調になり、リードが10周目に首位に立ち優勝、アイビーも追い上げ2位となり、以下グレアム、片山。
 第6戦東ドイツGP、1周目は片山が首位に立ちしグレアムも2位だったが、片山は3周でリタイア、アイビーが首位に立ち、そのまま優勝、以下リード、グレアム。
 第7戦チェコスロバキアGP、片山が首位に立ち、リードが2位に付けるが5周でリタイア、片山も遅れだし、アイビーが6周に首位に立つ。片山は7周目リタイア。優勝アイビー、2位グレアム。
 第8戦フィンランドGP、グレアムがスタ−ト良く飛び出し、リードは1周目は6.5秒差の2位で、5周目に首位に立つが、9周目にマシントラブルでリタイアし、グレアムが優勝。アイビーのマシンは不調で2回ピットインしたが、何とか2位。3位シモンズで片山は本レース以降欠場。
 第9戦アルスタ−GP、アイビーが優勝、リードが2位。グレアムは2周までアイビー、リードに付いていたが、ピットインしプラグ交換し遅れたが3位。この結果、ヤマハは125ccで初のメ−カ−選手権を獲得した。
 第10戦イタリアGP、スズキは125cc4気筒RS67Uの開発を進めており、ファクトリーチームは欠場したが、アンシャイトがRT66で個人出場。アイビーはエンジンがなかなか始動せず遅れるが、追い上げ9周目に首位のアンシャイトに迫る。しかし、エンジン不調となりピットイン、そこからさらに追い上げ最終周に首位に立ち優勝、世界選手権を獲得した。2位はアンシャイト。
 第11戦カナダGP、スズキは第10戦に続き欠場。低気温の中、行われたレースで、アイビー(右端)は2度も冷却水補給のためピットインしたが、ライバルはおらず、他を2周以上引き離して楽勝。
オランダ 東ドイツ アルスター イタリア カナダ
第12戦(最終戦)日本GP

  スズキ90度V型4気筒・RS67U、カワサキ45度V型4気筒・KR3(KA-U)が登場、3メーカーの2ストロークV型4気筒が顔を揃えた。プラクティスでは、アイビーが1分39秒32でポール、以下、リード、グレアム(RS67U)、伊藤光夫(RS67U)、金谷秀夫(KR3)、本橋、湯沢康治(RA31)と続く。

 10月15日の
レースは「再スタート事件」が起き、3メーカーの対決に水が差された。スタート予定の11時が迫り、スタート30秒前の表示がされたにも関わらず、マシンの整列が遅れ、ウォーミングアップを続けていたリードがスタートラインを突っ切りピット前のウォーミングゾーン一杯まで走っていった。その瞬間、シグナルが青に変わり、すでに態勢の整っていたスズキの2人はスタート、他のライダー達も慌ててスタートを切った。直ちにシグナルは赤に変わったが、赤旗が出されなかったため、レースが中止になるまで2周を要した。2周にわたり全力で走ったスズキチームは猛烈な抗議を行い、審査委員会は競技役員のミスを認め11時40分に再スタートとすることとなった。
 再スタートでリードは最悪のスタート、最後にグリッドを離れた。谷口尚己(KR2)はエンジンがスタートせずそのままリタイア。最初のヘヤピンではアイビー、金谷、伊藤、森下KR3)、湯沢、グレアムと続く。1周目終りのホームストレートでは、アイビー、金谷、グレアム、湯沢。本橋は1周目終りにピットイン・リタイア。2周目のヘアピンでグレアムは2位に上がり、続いて金谷、湯沢。2周目終りのストレートではアイビー、グレアム、アム、湯沢、金谷の順だったが、アイビーとグレアムの差は8秒あった。リードは9周目に6位に上がるがリタイア、湯沢は17周目にエンジン
故障でリタイア。アイビーがそのままトップでゴール、グレアムは最終ラップで排気管を路面に当て転倒しそうになるが何とか堪え2位。金谷が3位(周回遅れ)、森下が4位だった。下中はリードのマシン、下右はおそらくアイビーのマシン。
 ヤマハ4気筒は1967年125ccクラスでスズキ2気筒・4気筒を相手に12戦中10勝を挙げるという圧倒的な強さを見せた。しかし、スズキが最終戦で4気筒を登場させなくとも、スズキが4気筒を開発していることは1967年シーズン以前から周知の事実であり、ヤマハも1968年に向けて新型マシンRA31Aの開発をスタートさせていたのである。
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