0W61(1982年型YZR500) YAMAHA
1 0W61の成り立ち
ヤマハは1981年から500ccスクエア4気筒ロータリーディスクバルブエンジンの0W54を走らせていたが、このマシンはヤマハにとって最初のスクエア4気筒で、エンジン設計にかなり余裕があり、嵩、重量も大きく、マシンの戦闘力を大きく削いでいた。このため、エンジンを縮小化した500ccスクエア4気筒の0W60の開発が1981年の早い段階で始まった。
しかし、スクエア4気筒はキャブレターがクランクシャフト両外側に装着されるため、エンジン幅が大きくなってしまう。そこでV型4気筒としVバンクの間にギア駆動ロータリーディスクバルブを配置する新たなエンジンが計画された。もちろん、4個のロータリーディスクバルブを置くスペースはなく、前後2気筒のロータリーディスクバルブを共用している。ヤマハのサイトでは次のように記述されている。
「ある日のこと、ある技術者がVバンクの中でディスクが回ればねぇと呟いた時、すべてがクリーンになりました」(塩原)。前面投影面積で不利な側面ロータリーバルブを捨て、Vバンク内にキャブレターを配置し、一枚のロータリーディスクが2気筒分の吸気を受け持つという独創的なコンパクト構想の誕生だった。早速テストが開始され実戦投入への秒読みがスタートした。背面ロータリーディスクバルブ吸気である。 「開発初期はディスクの駆動部がすぐ摩耗するなど問題が出て、また性能的にも従来型ロータリーディスクを越えることが出来ませんでした。でも将来性を見据え、色々な試行錯誤を繰り返し、少しずつ熟成させました。」(塩原) |
複数気筒のロータリーディスクバルブを1つにまとめるエンジンは1975-76年のサイドカー世界選手権を獲得したケーニッヒ、そしてARO(FATH)に先例があるが、これらは水平対向4気筒エンジンにロータリーディスクバルブ1個または2個の組み合わせだった。おそらく塩原正一氏の記憶の片隅にこれらのメカニズムがあり、スタッフの呟きにより、これをV型エンジンに組み合わせるアイデアが閃いたのだろう。 | |
ロータリーディスクバルブを駆動する経路は、クラッチギア→補助シャフト→補助シャフトから直角に駆動されるシャフトで、最後のシャフトにバルブが取り付けられる。また、補助シャフトは水ポンプ駆動ギア、回転計ケーブル作動ギアにもつながっている。また、キャブレターをVバンク内に収めるために、新たにミクニ製2気筒分一体ピストンバルブ型が製作された。ボア×ストロークは56×50.7mm。 |
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100×0.342/0.5=68% となり、250cc並列2気筒よりは振動が少ないが、充分ではない。前述のヤマハのサイト中、0W76(0W61と同レイアウト)について、「そして振動対策などで、更なる改善が必要でした。」とあるのは、この振動の問題を指している。 |
さて、エンジン設計図の出図時期、車体の開発について、Racers Vol02(2010三栄書房)にヤマハの北川氏の次の証言が掲載されている。
「V4の大物図面が出図されたのは'81年の中頃なので、走行テストが始まったのは早くても'81年の年末です。当時エンジン設計を担当した塩原さんが暫定仕様の鋼管フレームも設計し、最初はそれを使って先行的にテストをしていました。'82年のレースに投入したアルミフレーム仕様は年が明けてからの開発です。」 |
このアルミフレームはそれまでのダブルクレードル型とツインチューブ型の中間型というべき形で、この0W61フレームからツインチューブ型への移行が始まった。また、後サスペンションは横水平に置かれたクッションユニットをその両側からリンク・ロッドで作動させる特異な構造が特徴である。
2 戦績
1982年、シーズンを通してヤマハ500ccファクトリーマシンを与えられたのは、ケニー・ロバーツ、マルク・フォンタン、バリー・シーン、グレーム・クロスビーで、タイヤは前2人がダンロップ、後2人がミシュランだった。いずれもシーズン当初は0W60に乗った。このうち、ロバーツのみがヤマハファクトリーチームで、他はヤマハからファクトリーマシンの貸与を受けるセミ・ファクトリーチームである。他にスペインGP・イタリアGPでグラチアーノ・ロッシ、オランダGP・ベルギーGPでBoet van Dulmenに0W60が与えられた。
1981年まで、ヤマハのライバルは事実上スズキのみといってよい状態だったが、1982年にはホンダがそれまでの4ストロークNR500に替えて2ストロークV型3気筒のNS500を走らせることが不気味な存在であった(NR500も特定のレースに出場)。
第1戦アルゼンチンGP(ブエノスアイレス)
ポールはロバーツ(0W60、1分34秒05)、以下フレディ−・スペンサー(NS500)、ランディ・マモラ(スズキXR40)、マルコ・ルキネリ(NS500)、シーン、クロスビー、フランコ・ウンチーニ(XR40)で、フォンタンは11位。
レースではクロスビーが飛び出すがすぐスペンサーが抜き、ロバーツ、シーンも追い付き3人がトップ争いを繰り広げる。終盤、3人の争いに周回遅れが絡んだ時にロバーツ、シーンがスペンサーを引き離し、ロバーツがそのままゴール。シーン2位、スペンサー3位で、フォンタンが7位、クロスビーはクランク故障でリタイア。最速ラップはロバーツ(1分33秒14)。
第2戦オーストリアGP(ザルツブルクリング)
0W61が登場しロバーツに与えられた。テスト期間は充分ではなかったが、0W61投入が決定されたのである。ヤマハの通例からすると、シーズン当初にロバーツに与えられたのはフレーム番号0W61-B-201、0W61-B-202の2台と思われる。以下、推測フレーム番号を「201」のように記述する。
プラクティスは大半がウェットで時折みぞれが混じる最悪のコンディション。ポールはクロスビー(1分25秒49)、以下シーン、ロバーツ、フォンタンでヤマハ勢が上位を占める。寒さ対策のため、0W61のフェアリングのハンドル部にカウルがテープで装着された。
第3戦フランスGP(ノガロ)
路面不良のため、トップライダー達によってボイコットされ、サンベネロに乗るミシェル・フルチが優勝。
そして、5月12日、ヤマハの高井幾次郎が菅生で0W61をテスト中に第1コーナーで転倒、死亡した。このため0W61のテストプログラムも遅れることになる。
高井選手の1980年日本GPでの優勝は私の脳裏に焼き付いている。白いフェアリングを輝かせ最終コーナーから姿を現す姿は今でも目に浮かぶ。そして、私が高井選手の死を知った時の虚脱感も忘れることはない。 |
オランダGPの6日前、ドニントンパーク(3.150km、イギリス)で行われたジョンプレーヤー500ccインターナショナルトロフィーにロバーツが0W61で出場。第1レグはクロスビーに続いて2位、第2レグもウンチーニに続いて2位で、トータルではウンチーニに次ぐ2位。右は201で、これがレースで用いられた。 |