第6戦オランダGP(バンドレンテ)

 このレースからBoet van Dulmenに0W60が与えられ、ロッシは再びTZ500Jに乗ることになった。プラクティスではロバーツが2分49秒87でポール、以下シーン、ウンチーニ、クロスビー、Middelburg(本レースからXR40が与えられた)、スペンサー、ルキネリで、フォンタン11位、van Dulmen12位。

 ピボットプレート左右下端を結ぶ部材が追加された新型フレームの0W61が2台登場、202と合わせて3台体制になった。このような場合、旧型フレームがお蔵入りし、新型フレームに旧型フレームのフレーム番号がそのまま打刻されることが珍しくないが、ここでは203、204が新型フレームと仮定した。左はプラクティス中の203で前輪は珍しく16インチ。

            203        203?

 レースでロバーツは新型フレームのおそらく203を選択、202のフェアリングを装着してレースに臨んだ。
 ロバーツはスタートから飛び出しウンチーニ、シーン、Middelburg、マモラが続きトップ争いを繰り広げるが、雨が降り、ロバーツが転倒し、マシンから火が出たが、ロバーツがマシンを起こしてコース外に出し、コース係員が消火した。そしてMiddelburg等も転倒、レースは6周で中断、レースは2ヒート制で行われることになった。

 ロバーツの203は修復のため、サスペンション、フェアリング等が交換され、第2ヒートに臨んだ。Middelburgが好スタートを見せたが2周目で転倒リタイア、シーンが首位に立つが激しく振られペースダウン、ウンチーニが首位に立ち、そのままクロスビー、ロバーツ(上右、第2ヒートスタート時)、シーンを引き離し優勝(第1ヒートとの合計でも)。総合ではロバーツ2位、シーン3位、クロスビー4位、van Dulmen6位、フォンタン9位。最速ラップはスペンサー(2分50秒38)。

第7戦ベルギーGP(スパ・フランコルシャン)

 プラクティスではMiddelburgが2分39秒100でポール、以下スペンサー、クロスビー、シーン、ロバーツ、ルキネリ、van Dulmen、フォンタン。
 下左・中が203、下右が204で、レースでは203が用いられた。赤矢印は補強部分。旧型フレームは姿を消したようだ。

 レースはシーンが好スタートを切りMiddelburgが続くが、1周目の終わりではMiddelburgが首位に立ち、シーン、クロスビー、ロバーツ(左、レース中)と続く。2周目にはクロスビーが、3周目にはロバーツが首位になり徐々にリードを広げる。
 やや遅れていたスペンサーは追い上げ3周目には3位、7周目には2位に上がる。スタートを失敗したウンチーニも3位に浮上。8周目には明らかにロバーツのマシンのハンドリングが悪化、スペンサーが首位に立ち、ロバーツは順位を落とし、スペンサーが初優勝。シーンとウンチーニの2位争いはシーンが制し、ロバーツは4位、van Dulmen7位、フォンタン10位で、クロスビーはリタイア。最速ラップはスペンサー(2分36秒94)。
                     203                   204

 ベルギーGPの1週間後(ユーゴスラビアGPの1週間前)、ラグナセカ(アメリカ)にロバーツが0W61で出場、1ヒート2位、2ヒート1位で総合1位。2位はマモラ。

第8戦ユーゴスラビアGP(リエカ)
 
 van Dulmenは再び市販スズキRGB500に乗ることになり、ファクトリーヤマハのライダーは本来の4人体制に戻った。プラクティスではシーンが1分33秒08でポール、以下スペンサー、ウンチーニ、クロスビー、Middelburg、ロバーツと続き、フォンタン10位。203、204いずれもフェアリング右側に後ショック冷却気取入口が設けられた。右は204だが、レースでは203が用いられた。

 レースではシーンが好スタート、3周にわたって首位に立つ。ウンチーニはやや遅れていたが、3周目にはスペンサーに続く3位に上がる。4周目には2人がシーンを抜き、ウンチーニはスペンサーを抜き首位に立つ。ウンチーニはクロスビーを加えた3人による2位争いを尻目にリードを広げそのまま優勝。2位クロスビー、3位シー-ン、4位スペンサーで、ロバーツは点火系故障でリタイアし、フォンタンもリタイア。最速ラップはウンチーニ(1分33秒7)。
第9戦イギリスGP(シルバーストーン)

 
プラクティスではロバーツが1分29秒84でポール、以下ウンチーニ、スペンサー、クロスビー、van DulmenI、フォンタン。シーンに0W61が与えられたが、水曜日のフリープラクティスで他の転倒車を避けきれずクラッシュ、重傷を負いレースは欠場(シーンの0W61については本頁末尾参照)。
 
 ロバーツは0W60をテストするが(下左)、レースでは従来どおり0W61(おそらく203)を選択。下右は204で、ゼッケン3の上に後ショックユニット冷却気取入口がある。なお、プラクティスでパワーバルブ無のエンジンもテストされたといわれている。
 雨が降りレースのスタートが遅れた。スタート前、コースはほとんど乾いたが、一部濡れた箇所が残った。レースでロバーツがスタートをミスし第1コーナー出口で濡れた路面に乗り、前を走るライダーの転倒に誘われるように転倒し負傷。1周を終わり片山が首位に立つが2周目にはウンチーニが首位に立ち、そのままリードを広げ優勝。2位スペンサー、3位クロスビー、4位レッジアーニ、5位マモラ、6位フェラーリ(XR40)で、フォンタン8位。最速ラップはクロスビー(1分30秒5)。
            0W60          204
 この結果、ロバーツ、シーンは次戦スエーデンGPを欠場することになり、その時点でウンチーニの500ccタイトル獲得が決定した(ロバーツ、シーンはサンマリノGP、ドイツGPも欠場(ロバーツはドイツGPに姿は見せた))。
 
 サンマリノGP(ムジェロ)プラクティスでクロスビーが0W61に乗るものの、レースでは従来どおり0W60に乗った。また、ドイツGP(ホッケプラクティスでクロスビーがンハイム)で後サスペンションを0W60と同じベルクランクにした新型0W61が登場するが(左)、乗るに留まった。

 ドイツGP後、開催地のホッケンハイムで0W61が公開された。右はその時のものと思われ、204のようだが、後バンク排気管の消音器が大きくなっていること、前フォークのリザーボア部が大きくなっていることが目を引く。

  ドイツGP      プレス公開
ランキング
    Arg Atr F E I N B Y GB S SM A Total
1 ウンチーニ 8 15 - 10 15 15 10 15 15 - - - 103
2 クロスビー - 8 - 8 10 8 - 12 10 10 10 - 76
3 スペンサー 10   - - 12 - 15 8 12 - 15 - 72
4 ロバーツ 15 10 - 15 8 12 8 - - - - - 68
5 シーン 12 12 - 12  - 10 12 10 - - - - 68
6 マモラ - 4 - - - 6 6 4 6 12 12 15 65
7 片山 5 2 - 5 4 3 - 6 - 15 - 8 48
10 フォンタン 4 - - 4 2 2 1 - 3 8 0 5 29
日本GP(全日本選手権最終戦/鈴鹿)

 浅見貞夫に0W61、木下恵司、平忠彦に0W60が与えられたが、土曜日のプラクティスは雨、そしてレース当日は台風による天候悪化で午前中で日程を終了し、午後の500ccクラスは中止された。観客サービスとしてピットが公開されたが、0W61は仕舞い込まれ、0W60のみ一般公開された。

 左は浅見の0W61で、GPシーズン後半用いられた新型。また、中写真をGPシーズン中撮影された写真(右)と比較すると、スイングアーム前方の形状が異なる。また、中では左右のスイングアームピボットプレートを結ぶ部材が2重構造になっているが、右はそうではないようだ。
           日本GP 世界GP(おそらく前半)

 
  1982年の0W61はスペインGPで1勝したとはいうものの散々な戦績だった。その最大の原因は後サスペンションの横置クッションユニットにあるようだ。上左写真に後サスペンションのロッド・レバーが写っているが、スイングアームが上に動き、ロッド・レバーを動かし、クッションユニットを圧縮すると、レバーの支点にフレームを横に広げる力が働く(バイカーズステーション2004-10)。そして、フレーム自体がスプリングとなり、サスペンションが勝手な動きをしてしまう。といって、横剛性を高め過ぎれば、コーナーを曲がりにくいフレームになる。 
 また、クランクシャフトの慣性モーメントが少なく、スロットル応答性が良すぎることもこの問題に拍車をかけたようだ。

 本来であれば、このような問題はテストコースで解決すべきことだが、あまりに実戦投入を急いだために問題点が露呈してしまったのである。

追記 イギリスGPプラクティスでシーンが乗った0W61

 このことについて、次の記述がある。

(1) MOTOCOURSE1982-83
 Sheene had tried the V four first during Monday's practice. That was the first day that Yamaha had let him lay hands on the motorcycle. He needed very few laps to confirm his suspicions that the head angle was too steep. It had been built for Roberts who preferred an angle around 22°; Sheene had found the same thing when he tested the square four at Donington at the beginning of the year. He knew what needed to be done and took the V four's frame to Spondon Engineering in Derby and there they hacksawed through the frame tube behind the head-stock, and changed the head angle. That sort of alteration can be made to aluminium frames whereas it is very difficult with tubular steel. The aluminium is lighter but thicker gauge so it is possible to butt weld the two ends of the hacksawed tube together again. With a head angle nearer to 24.5° Sheene was ready for practice again on Wednesday.

(2) BARRY SHEENE - A WILL TO WIN(1986ライダースクラブ、日本語版、原書はby  Michael Scott, 1983W. H, Allen)
 「月曜日、シーンやようやくこのマシンに乗ることができた。〜シーンはすぐにヤマハの本社に電話をして、マシンのキャスターについて尋ねてみた。それに対する答えは、キャスターは前年度彼が乗っていたスクエア4のそれと同じというものだった。しかしその答えに納得のいかなかったシーンは、自分プラム・ゲージ(キャスターを図るゲージを持ち出してきて、キャスターを実際に計ってみた。彼はそのマシンがナーバスで、痙攣するようなハンドリングを持っていることから、キャスターが彼の好みよりはるかに立ちすぎているのではないかという懸念を持ったのだ。」

 「〜シーンはダービーにあるスポンドン・エンジニアリングに電話をした。〜月曜日の夜遅く、マシンはシルバーストーンから88km北に上った所にあるスポンドンの工場に運ばれた。そして翌日、徹底的な改造が行われたのである。メインフレームがふたつに切断され、ステアリング・ピボットは38mm後方に持ってこられ、2.5°ねかされた。その後フレームは再び溶接され、火曜日の晩までに組み上げられた。〜そして水曜日、バリーはシルバーストーンに戻って、彼の考案したこの徹底的な変更がどんな効果をもたらすか試すことになった。」(ライダークラブ誌連載記事をまとめた本で、連載時は84-8号に掲載)

 この2つの記事の内容はよく似ており、情報源は同じだろう。簡単にまとめると次のとおり。

・月曜日、シーンは0W61に少し乗っただけで、キャスターが立ち過ぎていることに気が付いた。
・月曜日の夜にダービーにあるスポンドン・エンジニアリングにフレームを持ち込んだ。
・火曜日、ステアリングヘッドとフレームパイプを切断し、ヘッドアングルを変更、突合せ溶接した。
・水曜日のプラクティスに間に合った。

 右は水曜日に転倒したシーンの0W61で、アンダーループ(赤矢印)と、ステアリングヘッドに繋がる2本のパイプ間に三角形のプレート(青矢印)が追加されている。これらは他のマシンでは確認できない。

 したがって、この2つの補強はスポンドン・エンジニアリングで行われたものであり、MOTOCOURSE1982-83等の記述は真実である可能性が高い。ただし、溶接作業が火曜日昼頃に終わったとすると、水曜日の走行まで24時間もなく、アルミ合金溶接の時効に充分ではない。上記青矢印補強部分は、低下した強度を補うためのものかもしれない。もちろん、このような危険な加工をヤマハが容認したとは到底思えない。
 

 なお、ロバーツは0W61の前輪にダンロップ18インチタイヤを使用することが多く、シーンは0W60の前輪にミシュラン16インチタイヤを装着していた。シーンがロバーツ用0W61の前輪にミシュラン16インチタイヤを装着すればキャスターが不適当になるのが当然のように思える。

補足 
○(2)の文中、下線部について疑問がある。タイヤは毎年進歩するし、対応する車体もタイヤに合わせて進歩するのに、なぜ1982年シーズン終盤時点で1981年のマシンを0W61の対照にしたのだろうか。下線部は0W61についての記述ではなく、(1)の文中"Sheene had found the same thing when he tested the square four at Donington at the beginning of the year."に関するものではないだろうか。

○2の文中、スポンドンとシルバーストーンとの位置関係について「88km(原書では55miles)北に上った所にあるスポンドンの工場」とあるが、2011年2月現在、スポンドン・エンジニアリングとシルバーストーンは直線距離で100km程度離れている。mileではなくnm=nautical mileなら55×1.852=102kmになる。

 

その1 0W70 MENU