0W19/0W20-0W23 yamaha
1973年はロードレースの歴史の大きな転換点である。4ストロークの天下だった500ccGPに本格的な2ストローク4気筒が登場するとともに、それまで一般市販車ベースのレーサーにより争われていた750ccレースに間もなく2ストローク市販レーサーが登場することが明らかになったのである。
1 0W19/0W20の成り立ち
0W19/0W20の開発の経緯についてはよくわからない点が多い。以下の経緯はこんなことも想像できる、というぐらいの内容である。 |
スズキはT500(500cc2ストローク空冷並列2気筒)をベースにしたXR05(TR500)を1968年からアメリカ国内選手権(750cc)で走らせており、1969年にはシアーズポイントで初優勝(アート・ボーマン)を記録した。また、1969年にはホンダCB750が市販され1970年デイトナ200マイルレースでCB750レーサーが優勝(ディック・マン)した。ノートン、BSAの市販車をベースにしたレーサーも登場し、世界最大のモーターサイクル市場であるアメリカでの750ccレースは日本のメーカーにとって無視できないものとなっていた。1971年に入るとスズキGT750(2ストローク水冷3気筒)、カワサキ750SS(2ストローク空冷3気筒:型式名H2)の市販も間近になり、それらをベースにしたレーサーの登場も予想されていた。
ヤマハが750ccレースへの出場を検討するに際して考慮したのは、350cc2気筒一般市販車及び一般市販車をベースにした市販レーサーの存在だった。これらを水冷化し横方向に連結し、若干排気量を増加させれば750ccの4気筒になる。750ccレース、特にアメリカで開催されるものであれば、市販車をベースにする必要があり、そのため一般市販車の開発も同時に進めることになった。
しかし、GL750は結局市販されなかった。ヤマハはGL750と並行して4ストローク並列2気筒のTX750を開発しており、大排気量市販車は4ストローク路線で行くことになり、750ccレーサーは一般市販車をベースにするのではなく、2ストロークレーサーそのものを市販することで出場資格を得ることになった。そして再設計に当たって、排気量は695ccと中途半端になるがボア×ストロークをTR3と同じにし水冷化することで、基礎設計に要する期間を短縮することになった。そして350ccに対する250ccと同様、ボアを54㎜にすれば容易に500cc4気筒を作ることができるので、GP500に出場することが計画された。
1970年当時の250cc2気筒の一般市販車はDS6で、ボア×ストロークは56×50㎜であり350ccR3とボア、ストロークいずれも異なっていた。クランクケースもクラッチ装着位置が異なる(350ccはエンジン右、250ccはエンジン左)等、共通ではなく、エンジンは基本設計はともかく共通部分は少なかった。ところが、1970年10月に発売されたDX250のエンジンはストローク54㎜でRX350と同じであり、クランクケースも共通でボアのみRX350の64㎜を54㎜にしただけだった。また、DS6をベースにした1971年型市販レーサーはTD2だったが、1971年東京モーターショーにDX250をベースにしたTD3が展示された。 |
世界選手権GPでは1960年代にホンダ、スズキ、ヤマハがファクトリーチームを撤退させた後、50cc、125cc、250ccは2ストローク優位が明らかになっており、特定のレースを除けば事実上2ストロークによるレースだったが、500ccクラスではMVアグスタ3気筒が圧倒的に優位な時代が続いていた。1972年まで500ccクラスを走っていた2ストロークレーサーは、市販車をベースにしたスズキXR05、カワサキH1R(空冷3気筒)やヤマハ市販レーサーの排気量を355cc程度に拡大したマシンであったが、ヤマハが2ストローク4気筒の本格的なレーサーを走らせれば、MVに対して優位に立てるものと思われたのである。
1972年の250/350cc世界選手権では市販レーサーTD3/TR3に加えて、これらを水冷化した翌年の市販レーサーTZ250/350のプロトタイプ・YZ635/YZ634も走っていた。新型4気筒は基本的にYZ635/YZ634を2基、横方向に連結したものとなり、4気筒の左右2気筒のそれぞれのボアピッチも250/350cc2気筒と同じである。ただし、250/350cc2気筒の吸気制御はピストンバルブだったが、ピーキーな性格で扱いづらいため、4気筒ではピストンリードバルブに変更された(250/350ccの一般市販車も1973年からピストンリードバルブになった)。
そして、1973年2月に世界GP500への出場が発表され、それまでには社内呼称もYZ648A(500cc)/YZ648(700cc)から、0W20(500cc)/0W19(700cc)に変更されていた。これらの名称からも、この計画は700ccありきだったことがわかる。
当時の他のマシンの0W記号は、125cc:0W15、250cc:0W17、350cc:0W16、125ccモトクロッサー:0W11、250ccモトクロッサー:0W12、360ccモトクロッサー:0W13だが、疑問なのは1桁代の数字のマシンの存在が明らかになっていないことであり、それまでのYZ○○○記号のマシンにも0W記号が割り振られたのかもしれない。あるいは単に1桁代は欠番なのだろうか? |
2 1973年
1973年、0W20に乗ることになったのはヤルノ・サーリネン、金谷秀夫だった。サーリネンは前年、ヤマハに乗り250ccクラスで世界チャンピオンになり、350ccでもMVアグスタ350cc4気筒(1972年当初は3気筒)に乗るジャコモ・アゴスチーニに次いでランキング2位だった。金谷は1972年にGPに参戦、第1戦ドイツGP250ccクラスで優勝する等、活躍していた。
また、ヤマハは250ccクラスにもニューマシン・0W17を開発しサーリネン、金谷に与えた。0W17はエンジンも車体もYZ635、1973年に市販されたTZ250とは大きく異なり、これらとはまったく別のファクトリーマシンである。
左端、左、右は1973年シーズン前に袋井テストコースで撮影された0W20で、右端はメーカー配布写真。 両車のシリンダーヘッド/シリンダー形状、キャブレターの違い(マグネシウム合金かアルミ合金か)がわかる。 |
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第1戦フランスGP(ポールリカール)
ヤマハチームはゾルダー(ベルギー)でテストが行い、第1戦に臨んだ。
サーリネン、金谷に与えられた0W20はフレーム番号0W19-B-302、0W19-B-303、0W19-B-304で(以下、単に「302」というように略記)、302、303がサーリネン用、304が金谷用だと思われる。「0W○○」は機種記号であると同時に社内の計画記号でもあり、予算もその計画の中で管理される。0W19、0W20は一体の計画によるマシンだったため、500cc0W20のフレーム打刻も0W19になったのである。 下右はフレーム番号302のマシンで、シリンダーヘッドの外形はメーカー広報写真のものと同じだが、黒塗装されていない。下右端はフレーム番号303のマシンで、シリンダーヘッドこれらと同形状だが黒塗装されている。おそらく未塗装のものが新型のものだろう。シリンダー形状は302/303フレームのマシンの何れもシーズン前公開マシン/メーカー配布写真のマシンとは異なる。
302
304
302
303
金谷は1週間前(4月15日)のイモラ200マイルで転倒、左足を負傷していたが、2分18秒5でポール、以下サーリネン2分19秒3、アゴスチーニ2分19秒5、リード2分20秒2と続く。 事前にMVがポール・リカールでテストした時は2分20秒を切れていなかったという情報が流れていたが、20周116kmのレースがスタートするとハイペースで進んだ。スタートはサーリネン(302)、アゴスチーニ(MV3気筒)、リード(MV4気筒)、金谷(304)の順で飛び出し、2周目の順位はサーリネン、アゴスチーニで3位を争うリード、金谷とサーリネンのの差は約2秒。10周目にアゴスチーニが転倒しサーリネンがリード、金谷を約5秒リードする。レースはこのままの順位で終了し、サーリネンが0W20の初レースを優勝で飾った。
第2戦オーストリアGP(ザルツブルク)
プラクティスはサーリネン1分21秒97、金谷1分22秒58でアゴスチーニが続く。 レース(35周)は雨の中で行われたが、それまで0W20はテストでも雨中の走行実績はなかった。スタートはリードが早く、サーリネン(302)、金谷 |
第4戦イタリアGP(モンツァ) 高速コースのホッケンハイムでヤマハはMVに苦戦を強いられたが、第4戦モンツァも高速コースでしかもMVチームの地元である。そこでヤマハは応急的にフェアリングのラジエーター開口部下側(排気管が前輪の直後に見える部分)に蓋をしテールカウルにも手を加え、空気抵抗低減を図ったマシンをプラクティスで走らせた。 しかし、第4戦イタリアGP500ccは行われなかった。500ccクラスの前に行われた250ccクラスのスタート直後の高速第1コーナー(Curva
Grande)で多重事故が発生、1972年250ccチャンピオンのサーリネン、同ランキング2位のレンツォ・パソリーニ(ハーレー・ダビッドソン(アエルマッキ))が死亡するという大惨事になった。そしてレースはそのまま中止になり、500ccクラスも中止されたのである。そしてヤマハチームは1973年の残りの500ccGPを欠場することになった。 |
0W19の登場 8月4/5日に富士スピードウエイで開催されたYGSF(ヤマハ・グランド・スポーツ・フェスティバル:1972・1973年開催されたヤマハ主催のイベント)で、本橋明泰、金谷秀夫、河崎裕之、三室恵義による0W19のデモ走行が行われた。 |
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外観上、0W20と大きな違いはない。シリンダーヘッドの外形はシーズン前に袋井で公開された0W20と同じだが黒塗装されている。シリンダーの外観はGPを走った0W20と同じで、クランクケースも砂型のままである。排気管が0W20に較べて若干太く長くなっているが、複数のタイプがあるようだ。 アメリカでのレース、1973年からヨーロッパで行われていたF750(フォーミュラ750)に出場するためには、200台以上生産する必要がある。10月30日~11月12日の東京モーターショーに展示された市販レーサーTZ750のプロトタイプはクランクケース形状も若干変わり、変速機用オイルフィルター装着位置がクランクケース右側から左側に移っている。 なお、翌1974年に市販されたTZ750はデイトナ200マイルレースで優勝する等活躍したが、F750シリーズには出場できず、F750への出場は1975年からになった。このあたりを含めてTZ750、YZR750のその後については、別稿(公開予定未定)で取り上げることとしたい。1976~79年のYZR750(0W31)の概略については別館に記述している。 |
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