3 1974年                                                                   yamaha

 1973年にサーリネンを失ったヤマハは、1973年11月末にエースライダーとしてアゴスチーニを迎えることになった。アゴスチーニは1965年からMVアグスタに乗っていたが、1972年からMVチームに加わったリードに対する不満等もあり移籍を希望していたといわれている。しかし、アゴスチーニはMVに乗る前はモリーニに乗っていたが、MVもモリーニも4ストロークエンジンであり、2ストロークレーサーには(おそらく)乗ったことがなかったことが不安材料ではあった。
  右2枚は1973年12月の袋井テストコースでのテスト風景。左のマシンは、後ショックユニットがリザーボア付になっている。右のマシンは後ショックユニットが通常の位置になく、1本のショックユニットが燃料タンク下にある(以下、単に「モノショック」と記す:ヤマハは「モノクロス」と称していた)。モノショックは1973年型ファクトリーモトクロッサーに使用されており、1974年型250cc市販モトクロッサーにも使用された。モノショックのメリットとしてサスペンションストロークを大きく取れることが挙げられていたが、当時はロードレーサーでの効果を疑問視する声もあった。
 下左端・左はシーズン前に袋井テストコースで撮影されたモノショックの0W20である。フレーム形状は1973年型によく似ている。また、下左のスイングアーム後端、シートカウル前端を拡大したのが下中、下右で、通常のツインショックユニットが装着できるようになっている(下右の矢印の部分がツインショックユニット上端装着部で、その下に見える棒はリアスタンド)。そしてこのマシンと同型のマシンが1974年3月、モデナ(イタリア)に姿を見せた(下右端)が、ツインショックユニット装着部がはっきり見える。このフレームを使用してツインショックとモノショックの比較テストが行われたようだ。これを仮にA型とする。そして世界選手権ではこのマシンに加えてB型も使用された。上右端はB型と思われる。両型の違いはスイングアームピボット部からシートレールに繋がるパイプの形状とシートレールに溶接される位置、スイングアーム形状であるが、B型フレームを観察すると、スイングアームピボット部からシートレールに繋がるパイプはA型のものを一旦切断し細いパイプを溶接したように見える。現存するB型のフレーム番号が0W19-B-309であること等と併せて考えると、A型、B型いずれも1973年型フレームを改修したものと思われる。 
 なお、クランクケースは1973年の0W19、0W20から変わっておらず、変速機オイルフィルター装着位置もクランクケース右側のままである。シリンダー・シリンダーヘッド形状は変更されている。

 なぜ、1973年型ツインショックのマシンの改修型であることがわかるようなマシンが表に出たのだろうか?
              袋井テストコース モデナ

 これら1973年型改修マシンは1973年シーズン中に製作されたようだ。本来であればこのマシンにより開発を進め、1974年に入った頃に1974年型用OW20を製作するはずだったが、(おそらく)1973年11月末にアゴスチーニのヤマハ入りが決まった前後に0W20とは全く別のニューマシン・0W23の開発が始まった。
 0W20はエンジン、車体とも700ccのOW19と基本的に同じ比較的大柄なマシンであり、MVアグスタが改良されることはもちろん、1973年に噂されたスズキの1974年500ccクラス本格参戦を考慮すると、0W20に頼ることは危険だった。このため、エンジンを大幅にコンパクト化しカセットギアボックスを採用するなど戦闘力を高めた0W23の開発が始まったのである。0W23の開発が始まってからはその開発に重点が置かれたが、1974年第1戦には間に合わない。そのため1973年型改修マシンに0W20の改良型エンジンを搭載して1974年序盤を戦うことになったのだろう。もちろん、1973年型改修マシンでも十分な戦闘力を持っていたからでもある。

 アゴスチーニのチームメイトはTeuvo(Tepi) Lansivuoriが選ばれた。金谷は3月に行われたデイトナ200マイルレースにTZ750で出場したが、転倒・負傷し世界GP出場はできなかった。2人に与えられたマシンは次の3台だと思われる。

Agostini A  おそらくシーズン前公開マシン。
B  主に使用されたマシン。ツインショックを装着できるようにはなっていないので、LansivuoriのB型でのツインショックとの比較テストが終わった後に、1973年型0W20から改修され、フレーム側のツインショック装着部は(必要ないので)切断されたようだ。おそらくフレーム番号は0W19-B-309
Lansivuori B  シートレールにツインショックユニット装着部が残されている。このマシンを使用してツインショックとの比較テストが行われた後、スイングアームは交換されたようだ。交換後のスイングアームはアゴスチーニのB型と同型と思われる。

 さて、それまでヤマハが目標としていたのはMVアグスタだったが、1974年は新たなライバルが加わることになった。1973年までXR05を走らせていたスズキが、噂どおりに本格的な2ストローク500ccスクエア4気筒・ロータリーディスクバルブのXR14(RG500)を登場させたのである。

第1戦フランスGP(クレルモンフェラン)

 アゴスチーニ(右)がスタートから飛び出すが、9周目、フィル・リード(MV4気筒)を8秒先行していた時に変速機ベアリング破損のためリタイア。優勝はリード、以下、バリー・シーン(XR14)、ジャンフランコ・ボネラ(MV4気筒)、Lansivuori、Michel Rougerie(ハーレーダビッドソン2気筒)。
  右はおそらくプラクティス中に撮影されたものと思われるが、マシンはB型。
第2戦ドイツGP(ニュルブルク)

 
左の手前のマシンはアゴスチーニのB型でチェリアーニ製前フォークをテストしている。また、ナックルガードを装着している。奥はアゴスチーニのA型。中も同じくアゴスチーニのA型。右はおそらくLansivuoriのB型。
 レースはトップライダー達がコースの安全性を理由にボイコットし、TZ350に乗るEdmund Czihakが優勝。
第3戦オーストリアGP(ザルツブルク)

 雨の中のレースは、アゴスチーニとボネラの接戦になるがアゴスチーニが逃げ切り優勝、以下ボネラ、シーン、フィンドレー(XR14)。アゴスチーニのマシンはB型で、雨天のためナックルガードが装着された。
 右はプラクティス中のB型で、スイングアームピボット部からシートレールに繋がるパイプの位置、スイングアーム形状がA型と異なることがわかる。
 
第4戦イタリアGP(イモラ)

 スタートからアゴスチーニ(右の後側)、シーン、リード、ボネラによる激しいレースが繰り広げられるが、アゴスチーニが終盤にリードを奪い、そのまま優勝かと思われたが、最終ラップにガス欠でリタイア。優勝はボネラで、以下Lansivuori(右の手前側)、リード、フィンドレー。Lansivuoriとアゴスチーニのマシンのフェアリング形状の違いが目を引く。アゴスチーニのマシンはおそらくB型。

第5戦マン島TTレース(マン島マウンテンコース)は1973年に引き続いてほとんどのファクトリーライダー達がボイコット。スズキのフィンドレーは出場したがエンジン故障でリタイアし、TZ350に乗るPhil Carpenterが優勝。

第6戦オランダGP(アッセン) 

 アゴスチーニ(下左端、B型:レース中)がコースレコードを記録し圧倒的な強さで優勝、以下、Lansivuori、リード、ボネラ。得点は単純合計する
のではなく有効得点制(1974年は全10戦なのでベスト6戦の得点を合計)によるため、優勝回数が大きな意味を持つ。アゴスチーニは2回リタイアしているが、優勝2回となりMVの2人(各1回)に対して優位に立った。
 上左のアゴスチーニのマシンはA型、上右手前のLansivuoriのマシンはB型でその左奥はアゴスチーニのB型、そのさらに奥にかろうじて見えるマシンはアゴスチーニのA型である。前ブレーキローターの形状の違いに注意。LansivuoriのB型をよく見ると、ツインショックユニット上端装着部がシートレールにある。スイングアーム側にツインショックユニット装着部はない。上右端はアゴスチーニのB型のスイングアーム部分を拡大したもので、後端の形状が第3戦時と異なり、新型スイングアームのようだ。
第7戦ベルギーGP(スパフランコルシャン)
 
 0W23(左)がアゴスチーニに与えられた。アゴスチーニ用0W20(B型)もパドックで確認できるので、持ち込まれた0W23は1台だけだったようだ。Lansivuoriのマシン(右:スタート時)は0W20(B型)。
 高速コースでレース距離も長いため燃費が問題となり、アゴスチーニのマシンは大型燃料タンクに換装するとともに、テールカウル内にも補助燃料タンクを設置した。
 レースは、MVに対して燃料の量が多いことがハンデになったのか、終始、リードがレースを支配する展開で、アゴスチーニ(上中:レース中)は2位に留まった。以下ディーター・ブラウン(TZ350)、パトリック・ポンス(TZ350)、フィンドレー。
第8戦スエーデンGP(アンダーストープ)

 アゴスチーニは第7戦で登場した0W23をレースで使用せず、0W20(B型)を使用した。Lansivuoriも従来どおり0W20(B型)で出場。
 シーン、アゴスチーニ、リード、Lansivuori(右)等によるトップ争いが繰り広げられるが、シーンのXR14の水ポンプが破損し水が漏れ、シーンはスリップして転倒、直後を走っていたアゴスチーニも巻き込まれ転倒・リタイア。Lansivuoriが500cc初優勝し、以下リード、Penti Korhonen(TZ350)、ボネラ。

第9戦フィンランドGP(イマトラ)

 アゴスチーニはスエーデンGPの負傷でフィンランドGPを欠場することになり、この時点でアゴスチーニがチャンピオンになる可能性はなくなった。
 レースは0W20(B型)に乗るLansivuori(右)がリードするが、リードに抜かれさらにボネラにも抜かれる。終盤、Lansivuoriは追い上げるが、ボネラにブロックされたような形になり、そのままリードが優勝、以下ボネラ、Lansivuori、フィンドレー。この結果、リードの世界選手権獲得が決定した。

第10戦(最終戦)チェコスロバキアGP(ブルノ)
 
 ポールはリードで、以下ボネラ、Lansivuori、シーン、アゴスチーニと続く。
 右の写真でアゴスチーニが乗るマシンは0W20(おそらくB型)。これがレース中のものかどうか分らないが、0W23は第8戦で用いられておらず、このレースでもアゴスチーニは0W20を用いた可能性が高い。

 レースはアゴスチーニが負傷を押して出場するが、リードが優勝、以下ボネラ、Lansivuori(左、0W20(B型))、シーン、ブラウン、アゴスチーニ、フィンドレー。

 ほとんどのファクトリーライダーが欠場したドイツGP、マン島TTでTZ350に乗るライダーが優勝したことが効いて、メーカー選手権はフィンランドGP終了時点でヤマハのものとなったが、これは評価できることではない。しかし、1974年の戦績を見ればMV+リードとヤマハ+アゴスチーニは対等だったといえるだろう。ヤマハに足りなかったのはほんの少しの幸運だったのである。

ランキング

  F A Atr TT N B S Fin Cz Total (gloss)
Read 15 - 0 10 - 10 15 12 15 15 82(92)
Bonera 10 - 12 15 - 8 1 8 12 12 69(78)
Lansivuori 8 - 0 12 - 12 0 15 10 10 67(67)
Agostini 0 - 15 0 - 15 12 0 - 5 47(47)
 有効得点は、10戦中ベスト6戦の得点合計。
 下線は0W23によるもの。Lansivuoriは全レースで0W20(B型)に乗った。
 「-」は欠場。
日本GP(鈴鹿)

 全日本選手権日本GPにヤマハファクトリーチームが出場、金谷、河崎にYZR750(モノショック型:本レースで初登場)、本橋明泰に0W23(左、右)が与えられた。
 9月12日の公式予選は雨で、和田正宏(カワサキH2R、2分38秒0)、毛利良一 (TZ350、2分39秒2)、清原明彦(H2R、2分40秒4)、河崎(2分40秒4)、金谷

(2分40秒8)、阿部孝夫(H2R、2分40秒9)と続き、本橋は9位(2分42秒9)。
 
 13日レース当日、コースのあちこちが湿っており、和田、清原、安良岡健(スズキXR11(TR750))は安全性を理由にボイコット。レース(17周)は本橋が飛び出し、後続との差を広げ8周目には2分24秒2のコースレコードを記録。金谷は着実に2位をキープ、3位は故隅谷守男(ホンダCB500R(750cc))。そしてレースはそのままこの順位で終了、4位には追い上げ最終ラップに本橋を上回る2分23秒6のコースレコードを記録した河崎が入った。
その1 その4 MENU