RACERS Vol.76 TZ500
7頁表750t欄
0W19の登場は1973年。
1974年のファクトリー車はTZ750(694t)と大差なし。これを0W19と呼ぶべきかどうか?
0W29の「0W23の車体に750t化したエンジン」は誤りで、「1974年型TZ750(700t)の車体を基本にモノクロスサスペンションにし750tエンジン搭載」の誤り。
「0W23ベースの車体に750ccエンジン搭載」から矢印が1976年の0W31に向くべき。
0W31は「0W23ベースの車体に750tエンジン搭載」。
TZ750Fは1979年登場。
7頁右端欄
1974年「ドッズ、TZ750でF750チャンピオン」の赤文字は「TZ350」の誤り。1974年3月、FIMでTZ750がF750に適合しないことが決議された。
1976年欄の右端が1975年の右端欄と同じ。
1977年「TZ750改500エンジンサイドカーが登場」は「ジョージ・オーデル/ケニー・アーサー(及びクリフ・ホランド)がTZ750改500エンジンサイドカーでチャンピオン」の誤り。TZ750改500エンジンサイドカーは1975年には登場している。
9頁左上「〜0W23譲りのコンパクトなエンジンをベースに、カセットミッションの採用〜したのが0W35K〜」
0W35/0W35Kの1-2・3-4気筒ボアピッチは0W23より23mm大きい。
0W35Kで初めてカセットミッションが採用されたような文だが、カセットミッションの初採用は0W23。7頁が正しい。
10頁右列「(1980)〜バリー・シーンも含まれ、ミツイのサポートを受けつつノーマルTZで1シーズンを闘い〜」
右下写真はイギリスGPで与えられたアルミフレームのYZR500(0W48)。
11頁「一次減速比 2.136(47/22)」
「2.205(39/38・47/22)」の誤り。TZ500の動力伝達経路は下左図のとおり(変速機カウンターシャフトは省略)で、黒数字は1980年型TZ500パーツリストに記載のある歯数で、赤色数字は75頁写真の歯数。また、1980年型、1982年型を取りあげた雑誌記事では、一次減速比は2.205となっていた。
「乾燥重量 138s(1980、1981)、137s(1982)」
当時の公表資料どおりだが、1982年型を取りあげた雑誌記事(複数)ではエンジン側で1.5s、フレーム側で2.5s、計4s軽量化されたとある。1980年型、1981年型の乾燥重量138sはフェアリング(3s)を含まないようで※、フェアリングを含む半乾燥重量は
138 + 3 + 4(水・ギアオイル)=145s程度
で、1982年型は141sと思われる。
なお、1980年日本GPで3位入賞した水谷勝のTZ500がレース後の車両検査で147s(野田メモ)だった。
※ライダースクラブ1980-4では「カウリングを含めて138kg(乾燥)」とある。
1980、1981年型の138sは乾燥重量で、1982年型の137sは半乾燥重量(水・オイル含む)という可能性もある。 |
13頁「当時は〜WGPの情報などは、開催されてから少なくとも2、3ケ月ほど遅れて発売される雑誌の紹介記事を見るだけだった」
「1〜2ケ月」の誤り。下は1980年のライダースクラブ誌の各月号、掲載されたレースNo、レース開催日と発売日の時間差(日)で、時間差は29〜52日。
ただし、第1戦の順位のみが7月号に掲載された(時間差は16日)ように、順位のみの速報なら時間差は短い。
例えばライダースクラブ1980-8に昭和55年8月1日発行と書かれているが、実際の発行日は6月27日だったことをライターは知らないのかもしれない。
18頁上「(1979年)高井幾次郎が第6戦〜第9戦まで実戦テスト、第9戦スウェーデン〜見事9位〜」
第11戦イギリスGP予選6位でレースはリタイア。第10戦フィンランド、第12戦(最終戦)フランスは不明。ライダースクラブ1980-5の73頁下写真はイギリスGPプラクティスのものだが、フェアリングにフィンランドGPの車両検査のステッカーが貼られたままなので、フィンランドGP予選を走ったと思われる。
18頁下「(1979年)おそらく型遅れのYZRを駆る♯27C・サロン〜」
サロンのマシンは1979年型YZR500(0W45)。なお、第1戦ベネズエラは0W45が間に合わず、サロンはTZ350の排気量を僅かに拡大したマシンで500tクラスに出場し7位だった。
19頁中列「スリックタイヤ(グッドイヤー/ミシュラン〜」
第5戦スペインGP終了時にランキング4位だったトム・ヘロン(スズキXR27)はダンロップを使用していた。なお、同頁の表でヘロンの第6戦ユーゴスラビアGP以降の得点欄が空欄になっているのは、スペインGP後、ノースウエスト200で事故死したため。
19頁中左(8頁中右と同じ写真)「1979 R8 Belgium」
「1979 R5 Spain」の誤り。
なぜか、SpainをBelgiumと誤っている写真が多い。 20頁中左 21頁下 24頁下左 25頁中左(No13) 31頁左 31頁上右(No23)※ 31頁中右(No5) おそらく25頁右上(No43)も誤り。 ※1982年ベルギーGP500tはホンダにとって15年ぶりのGP優勝で、スペンサーはゼッケン40だった。 https://global.honda/jp/RACERS/NS500_02/03.html |
「1981 500ccR6 Dutch TT」の誤り。
下「B・シーンは〜貸与された0W48R(アルミフレーム)〜」
貸与されたのは0W48R(2気筒後方排気)ではなく0W48(4気筒前方排気、アルミフレーム)。10頁右下写真のマシン。
21頁上「〜’82年もヤマハに乗る」
乗ったかどうかといえば乗ったので誤りではないが・・・van
Dulmenは基本的にスズキRGB500(市販レーサー)に乗り、オランダ、ベルギーのみヤマハ0W60に乗った。
22頁上左写真「16ラップする内に路面はウエットからドライに〜」
16周レースが終わった頃にドライに変わったような文。
26頁中右写真(No8のマシン)
説明がないが、デイブ・ポッター(1点)である。
28頁左列「0W60」
「0W54」の誤り
31頁左「R7 Belgium〜G・ロッシは〜序盤4戦に参戦、イモラ200で生死をさまよう大怪我を負い〜」
「R7 Belgium〜序盤4戦」、これだけで矛盾している(赤文字は前述のように「R4 Spain」の誤り)。また、例年、イモラ200が開催されるのが4月(1982年は4月4日)だと知っている人なら、イモラ200の後に引退したかのような記述がおかしいと気が付くだろう。
ロッシが重傷を負ったのはCampionato Italiano Velocità(9月19日、イモラ)。
ロッシはイモラ200の後もGPに出場したが戦績は悪く、MOTOCOURSE1982-83(Hazleton1982)に残る記録では第11戦サンマリノでの11位が最後のレース順位。
ライターはWikipediaの「1982年にはヤマハを駆ってイモラで行われた200マイル耐久レース(200miglia)に参戦するが、激しく転倒し、一時心肺停止状態に陥る」を参考にしたのだろうか? |
この写真は最終戦(R10)日本GPではなく第6戦鈴鹿100マイル。
毛利は第4戦鈴鹿以降、TZ500で出場した。日本GPでTZ750に乗ったのは佐藤順造1人。
34頁左列最後「〜’80年までの基本的な開催方式は、国際A級とB級の350〜750tまでのマシンが予選・決勝を通じて同じレースで混走し、各排気量、クラス別の順位でポイントを付与するものだった」
「1978−80年頃のエキスパート(1979年から国際A)750tの開催方式は、エキスパート(国際A)350との混走(予選・決勝とも)が基本で、多くの大会ではこの2クラスとエキスパート(国際A)250t、ジュニア250t、ジュニア350も混走であり、各クラス別の順位で得点を配分するものだった」
なお、ジュニアが国際Bに改められたのは1981年シーズン。また、私の理解では「レース」は「決勝」と同義。
Wikipediaの1980年の全日本ロードレース選手権では「基本開催方式は350ccから750ccまでが予選・決勝を通じ同一レースで混走し、各排気量別の順位で各クラスのポイントが付与された
」 このように34-35頁の記述はWikipediaの1980年の全日本ロードレース選手権を参考にしたものが多い。 |
「ここに、ヤマハ750t、スズキ500tのファクトリーマシンが出場することもあったが〜」 1976〜79の間、国内レースでヤマハ500tファクトリーマシンは走らなかった。
「〜ファクトリーマシンはもっぱら実戦テストを目的に参戦することが実情だった」
ヤマハYZR750はシーズン末の日本GP、ビッグロードレースに出場していたが、これが「もっぱら実戦テスト」なのだろうか? 私には広報が主目的と思える。
34頁右列「750tクラスでは、ほぼ全ての参戦ライダーがシーズン中盤までにTZ750からTZ500に乗り換え、あるいはTZ350からのステップアップすることになった」
「国際A750tでは、それまでTZ750で参戦していたライダーの大半がシーズン中盤までにTZ500に乗り換え、これにTZ350からTZ500に乗り換え国際A750ccに新たに参戦するライダーが加わった」
35頁左列「チーム金谷」
「チームカナヤ」の誤り。
35頁左列「〜水谷勝も、シーズン後半にTZ500に乗り換えている」
水谷は全10戦(予定)の第6戦、実質全8戦となった選手権の4戦目でTZ500に乗り換えたので、「シーズン中盤」の方がよい。
「実質的なA350・750の開幕戦である第2戦鈴鹿」
「実質的なA750の開幕戦〜」の誤り。第1戦筑波のA750は誰も出場しなかったが、A350は酒井が優勝、2位平忠彦、3位鈴木修。
「〜木下が連勝、しかし、木下は急遽ボルドール24時間の参戦が決まり、その後のレースを欠場」
木下の2勝目は4月20日(鈴鹿)でボルドール24時間は9月13-14日だが、ライターはおかしいと気が付かなかったのだろうか。木下は「マレーシアGPに出たんです」(50頁)と語っている。
35頁中列「代わって第5戦筑波では悪コンディションの中で軽量なTZ350勢が有利に見えたが、TZ500の石川が〜優勝(しかし、出走台数が少なく〜ポイントは付与されなかった。また、石川はその後に世界GPにスポット参戦した)」
赤文字の前に「750tクラスは」を加えるべき。350tは成立した。
第5戦筑波の予選は雨だったが、レースまでに天候が回復しドライレースになった。筑波で雨天のレースだったのは第7戦。
石川が第5戦直後に世界GPに参戦したかのようにも読めるが、石川は第8戦菅生(7月13日)にTZ350で出場後、イギリスGP350t(8月10日)に出場した。
35頁中列最後「〜最終戦の日本GP・鈴鹿ではTZ500の鈴木とTZ750に乗る毛利がチャンピオンをかけて争う展開となった」(Wikipediaでは「最終戦日本GP・鈴鹿では鈴木と毛利の間で750ccクラスチャンピオンをかけて争う展開となった」)
得点上、チャンピオンを争ったのは、毛利、鈴木、佐藤順造、水谷。
毛利のマシンはTZ500。
4人の日本GP前有効得点、日本GPでの順位別の有効得点
最終ランキング ![]() 通常の得点は15、12、10、8、6、5〜だが、日本GPでは3点が加算される。 ベスト5戦を合計する有効得点制のため、佐藤は日本GP1位でも12点しか加算されない。 ただし、このランキングはシーズン終了後、12月4日に確定したもの。日本GP前は全く異なるランキング表がMFJから公開されていた。参考3(本頁末)参照。 |
35頁右列「〜そしてTZ500の3位・水谷に続いて鈴木は4位、毛利は他車と接触してしまい転倒〜」
「TZ500の水谷、毛利、TZ750の佐藤が2位争い(クラス1位争い)を演じるが、13周目のヘアピンで水谷が転倒、これに毛利、佐藤が巻き込まれて転倒。水谷は素早く再スタートし3位(クラス1位)で復帰するが、佐藤はマシン破損でリタイア、毛利は再スタートが遅れる。水谷は石川、鈴木との接戦の後に3位でゴール、鈴木4位、石川5位で、毛利は9位(750t8位)」
36頁左上・写真1「1980 R10 鈴鹿」
「1980年第6戦鈴鹿100マイル」の誤り。水谷がTZ500に乗り換えたレース。
写真1「シーズン前半はTZ750で参戦し〜後半はTZ500にシフトして最終戦で活躍するものの、直後にスズキと契約して翌年から市販RGBに乗る」
水谷が活躍したのが最終戦だけのような文だが、第9戦筑波で優勝していた。
最終戦日本GP(9月14日)の「直後」だと10月頃という印象を受けるが、水谷はビッグロードレース(10月19日)にTZ500で出場した。
1981年のスズキ500cc市販レーサーは「RGB500」ではなく「RG500」。
写真2・3「〜木下を追うのはTZ750で3位になった金谷秀夫」
金谷が乗ったのはTZ500。
写真4「高井幾次郎と金谷秀夫が参戦するのは〜菅生と、4月と9月の全日本鈴鹿、それにTBCビッグロードレース〜」
9月は日本GP。1981年は日本GP(鈴鹿)が4月開催だったので、高井、金谷が出場した。「9月(1981年は4月)の日本GP(鈴鹿)」とすべき。
37頁写真1、38頁写真1「佐藤順三」
「佐藤順造」
37頁写真1「(写真タイトル)「1980 R10 鈴鹿」
「1980年第6戦鈴鹿100マイル」の誤り。No18石川のマシンを写真3と比較されたい。
写真2「’78年のA750チャンピオン#20上野真一も、’80年はTZ750で走り続けた」
’78年のエキスパート750チャンピオン♯20上野真一も、’80年の上野の初戦・第4戦からTZ500に乗った。写真のマシンがTZ750に見えるか?
毛利、金谷、上野のマシンをTZ750と誤っているが、Wilipedia1980年の全日本ロードレース選手権
の次の表をライターが信用したことによるものと思われる。![]() |
39頁「(1980年)しかし、TZ500の発売もあって、この年からGP500レギュレーションとなり〜」
1980年4月のビッグロードレースは750tレースで、YZR750、TZ750、TZ500、スズキRG500が走った。
40頁右列「(1981年)〜この年からMS普及本部の契約となってYZRに乗った木下恵司が優勝」
41頁写真1「MS普及本部の契約となって〜〜YZRに乗った木下」
50頁の木下のインタビュー記事では、1980年に既にMS普及本部契約。1981年はファクトリー契約。
41頁左列「(日本GP)〜木下はTZ500にスイッチ、彼のTZはファクトリーパーツの入ったいわゆる”TZ改”だった」
木下のマシンは4気筒前方排気のTZ500の両外側気筒を後方排気にしたもので、外見は0W53のフレームをスチールフレームにしたもの。41頁中列にある「(第5戦菅生)木下には他のTZとは異なる後方排気を用意」のマシンは日本GPで登場していた。
「(1981年)TZ500にスイッチした毛利良一」
毛利は1980年第4戦鈴鹿以降、TZ500で出場していた。
41頁中列「0W56」
「0W54」
41頁右列「(第6戦鈴鹿200km)水谷は大会前のテストで右手を骨折しており以後欠場」
水谷は鈴鹿200kmとその後のレースを欠場したような記述だが、同頁写真3では「〜最終戦鈴鹿2位〜」とある。水谷は第6戦鈴鹿に出場(11位以下)、第7戦筑波は500tクラス不開催、第8戦菅生は4位、最終戦鈴鹿は2位。
41頁写真1、2「(写真タイトル)1982〜」
「1981」の誤り。
写真3「1982 R6 鈴鹿」
1982は1981の誤り。この写真、第4戦日本GP(鈴鹿)のように見える。
45頁左列「スクエア4の最新型0W53」
「0W54」の誤り。
48-49頁・ランキング表
1980年の表は上に示したWilipedia1980年の全日本ロードレース選手権を改変したものであり、その誤りもほぼそのまま写されている。調べる能力がないのなら、MFJ公表のランキング表(各レース順位はなく得点のみ)をそのまま転載すれば、と思う。
Wilipedia1980年の全日本ロードレース選手権の表(再掲)のマシン種別以外の問題点は次のとおり。
〇各レースの国際A750の順位(得点対象外のファクトリーマシンを含む)が記載されており、例えば最終戦の順位は1位高井(得点対象外)、2位河崎(得点対象外)、3位水谷(18点)である。しかし、1980年に公認車両でなかった市販RG500による戦績は全くなかったことになっており、例えば1980年6レース目の筑波は市販RG500(得点対象外)の酒井清孝が1位で2位が鈴木(TZ500)だが、このランキング表では鈴木が1位になっている。また、MFJ競技規則では例えば6〜7台出走なら4位以下は無得点になるが、出走台数が少なく無得点となった順位の記載がない。ファクトリーマシンを含めた順位を記載するなら、これらの順位も記載すべきだろう。
〇R(リタイア)、DNS(予選を走ったがレースは不出場)が記載されているが、記載漏れが多い。
〇順位の記載漏れがある。
48頁の表を校正してみた。太字は修正・加筆したもの。なお、「石川岩夫」は1980年シーズンの後に「石川岩男」に改名。
49頁の1981年、1982年のランキング表もWikipediaを参考にしたようだが、1982年の鈴木、和歌山のマシンがTZ500ではなくRG500になっていたり、6レース目(筑波)の4位が2人いたりと、誤りが追加されている。
50頁左列「〜木下さんが、国際A級500に転向したのはTZ500が発売された1980年だ」
1980年は国際A級750であり、TZ750も走っていた。
中列「(1980年連勝の後)「マレーシアGPに出たんです〜最後の筑波と鈴鹿は〜ボルドールに出場したため欠場したんです」
筑波は出場し、転倒・リタイア。
マレーシアGP(5月25日)優勝、ペナンGPで2位。
52頁「1980 TBCビッグロードレース」
上の表彰台の写真は10月のビッグロードレース第2ヒートだが、下の写真は1980年第3戦菅生のもの。木下はビッグロードレースにプレイメイトレーシングチームカラー(5月)、伊太利屋カラー(10月)のTZ500で出場した。
53頁「(木下)僕のはノーマルのTZだから〜」
1981日本GPでの木下のマシンは「TZ500」とされるが、1981年型TZ500と異なり両外側気筒後方排気に改造されており、1982年型TZ500プロトタイプに相当するマシン。
54頁「1981 R2 鈴鹿」
誤り。1981年第5戦菅生と思われる。41頁写真1(1982とあるのは1981の誤り)と対比されたい。
55頁上写真「’84年にHRCに移籍しNSR500を走らせた」
赤文字は「NS500」の誤り。1984年型NSR500は国内レースでは走らなかった。
63頁下写真「(5A0は)〜2番サイレンサーの角度が若干立ち上がった」
58頁の4A0と比べるとそう見えるが、この4A0の排気管は例外のようだ。4A0の公表写真(6頁上)のサイレンサーは5A0と同様である。
67頁「(1982年型は)新たな排気レイアウトでバンク角は大幅に向上したのだが」
18頁下の2台の0W45の写真で分るように4気筒前方排気でもバンク角は確保されていたが、排気管の形状に制限があった。両外側の後方排気化により、排気管の形状制限が緩くなり高出力化したことが利点と考える。79頁の記述が正しい。
ホンダNSR500(1軸クランクV型4気筒)の1985-86年型は全4気筒排気管をエンジン下に配置していたが、1987年型で2気筒後方排気にしたのも、これが大きな理由だろう。
69頁上「(1982年型の)車重は前年から1kg軽い」
諸元表の比較ではこのとおりだが、前述のとおり、当時の雑誌記事ではエンジン側1.5s、フレーム側2.5s、計4s軽量化されたとある。
73頁「容量32リットルの巨大な燃料タンク〜」
81頁上写真3「巨大な燃料タンクの容量〜32リットル」
32リットルは競技規則の制限量であって、諸元表では31.5リットル。
74頁写真1、2「(250と500は)寸法も共通箇所が多く〜」
そのとおりだが、1981年型TZ250と1980年型TZ500のピストンは共通部品だったことを付記して欲しい。
77頁中左写真「1982 4A0」
「1980 4A0」の誤りと思われる。
78頁下「クランクケースの大まかなレイアウトは、ヤマハ製の2スト直4マシンに共通のもの。つまりクランク室のみ上下分割〜」
TZ750のクランクケースは通常の上下2分割。
79頁左列「〜当時のファクトリーマシンにはマグネシウムボディの専用キャブを使うのが常識だったのを〜」
常識ではなかった。19頁中左の写真は1979年スペインGP(写真説明のBelgiumは誤り)で撮影されたロバーツの0W45で、キャブレター主要部はアルミ製でフロート室、ファネル部のみマグネシウム製。下は1979年イギリスGPで撮影されたロバーツの0W45で全アルミ製キャブレター。
81頁右列「0W53にはリンク式サスペンションに改造された個体も存在し〜」
0W53はリンク式サスペンション。浅見の0W53Pはリンクが外されていたが、フレームにリンクの取付部は残されていた。
83頁上写真2「(ラジエーターは)逆Tの字型で〜」
「Tの字型」。こちらを参照。
下写真1、2「4A0の撮影車にはエンジンガードがなく、5A0にはある」
そのとおりだが、4A0にエンジンガードがないのが標準と誤解する人がいるのではないか?
95頁
1968 A.Wohlgemut → W.
Kalauch WohlgemutはFathが1960年にBMWで世界チャンピオンになった時のパッセンジャー
1971 P.Rutterfort → P.
Rutterford
1979 C.Meierhaus → K(Karl).
Meierhans
1982 J.Huber → A(Andreas).
Huber
99頁左列「YZRレプリカ(当時はそんな言葉もなかったが)という触れ込み〜」
「YZRレプリカという言葉がなかったのにYZRレプリカという触れ込み」という矛盾。
なお、ライダースクラブ1980-5・78頁に「YZRレプリカ」、ライディング1980-4(No115)に「YZRのレプリカ版、ヤマハTZ500」とある。
裏表紙「(ジャック・ミドルブルグ、1980ダッチTT)〜’71年以来の純プライベートライダーによるGP500での勝利であり〜」
ヤマハTR3、TZ350の排気量拡大マシンによる勝利を除けば、次のライダーが市販スズキRG500で優勝していた。
1976年 パット・ヘネン フィンランドGP
1977年 ジャック・フィンドレー オーストリアGP(トップライダーはボイコット)
1977年 ウイル・ハートフ オランダGP
1979年 デニス・アイルランド ベルギー(トップライダーはボイコット)
1979年 Boet van
Dulmen フィンランドGP
参考1 汚れた英雄に登場するマシン 1980年日本GPでTZ500に使用された補強スイングアームについても記述している。
参考2 1980年日本GP (毛利良一のTZ500は未撮影)
参考3 1980年国際A級750tのチャンピオン
最終的に鈴木修がチャンピオンと決定されるまで、混乱があった。
(1) 1980年日本GP直後に1980年国際A級750tチャンピオンは鈴木修と非公式に発表された。
下はライディング1980-9に掲載された日本GP直前のランキング表。〇が付けられた得点は有効得点(ベスト5戦分)に加算されないもの。
これに最終戦日本GPの得点を加算すると鈴木がチャンピオンになる。
(2)
上表の第4戦鈴鹿の水谷の得点が10(3位)、毛利の得点が6(5位)だが、2位の河崎裕之のスズキRGB500(XR27)はファクトリーマシンでありMFJ非公認車両であるにもかかわらず得点対象としたことによる。まず、これを除外する(毛利、水谷の得点が加算)。そして、日本GP国際A級は国際格式(実際はMFJライセンス保有者のみが参加)であるため、世界GP等と同様にファクトリーマシン(MFJ未公認車両)も得点対象とする。
この結果、毛利56点、鈴木55点となり、毛利がチャンピオンに内定する。
(3) 市販レーサーであるスズキRG500は公認車両と認識されていたが、MFJロードレース委員会において、スズキからの公認申請のない非公認車両であることが問題になる。このため、第7戦筑波での得点対象者の1位は酒井清孝(市販RG500)ではなく鈴木になる。また、このレースで水谷は転倒したが、再スタート、TZ350勢の後でフィニッシュしたのだが、750ccクラス3位と認められ10点が加算される。この結果、水谷がチャンピオンとして12月2日に電話通知される。
(4) MFJ競技規則では出場者数によって得点が上位何位まで与えられるかが決まるが、公認車両による出場者数から酒井ら市販RG500出場者が減算されたことにより第7戦の水谷の10点等、下位の得点が抹消される。
(2)の下線部はMFJ競技規則に反するとして、得点対象、出場者数算定から除外される。
これらの結果、12月4日、鈴木がチャンピオンと決定(最終ランキング表)。
参考文献 ライダースクラブ1981-1、1981-2
下はライディング1980-5に掲載されたTZ500の公認公示で、国内出荷台数25台とあるが、この25台が公認の基準。実際には25台も出荷されなかったが、「注文があれば出荷します」という前提である。スズキがRG500の公認申請を行わなかったのは「25台」を厳密に解釈したためと思われる。
「半乾燥重量138s」とあるが、一般市販車の公認公示で「半乾燥重量」とされたものが実は乾燥重量だったので、これも「乾燥重量」の誤りと思われる。