RC112-2RC114                                                                 HONDA

1 1962年

 1962年、世界選手権ロードレースに50ccクラスが追加されホンダも50cc単気筒のRC110で参戦したが、1961年ヨーロッパカップのチャンピオンマシン、クライドラ-の敵ではなかった。そしてスズキも第3戦マン島TTレースに改良型エンジンを登場させ優勝、この期に至ってホンダは単気筒を諦め、2気筒エンジンの開発を開始した。ボア・ストローク33×29o、2バルブのRC112エンジン(以下「RC112E」と記載)である。そしてRC112Eの開発開始直後に2RC112Eの開発も開始した。RC112E、2RC112E何れもエンジン下周りは共通でシリンダーヘッド周りのみ異なる仕様と思われる。

 世界選手権には間に合わなかったが、全日本選手権(鈴鹿、11月3、4日/50ccクラスは2日目)に姿を現し 、1962年世界選手権での雪辱を狙った。RC112E、2RC112Eのどちらが鈴鹿に持ち込まれたのか、あるいは両方が持ち込まれたのかよくわからないが、RC112Eが用いられた可能性が高いと思う (以下の「RC112」の記述にはこのような不確定要素があることに留意されたい)。下左端の写真(※中野広之 氏のHPから引用)では点火プラグがエンジン左側から斜めにシリンダーヘッドにねじ込まれているので2バルブエンジンと分る。

 プラクティスでRC112を試したタベリ(下左)はレースでは単気筒RC111を選択、RC112にはトミー・ロブ(下中※の左)、谷口尚己(下右※)が乗った。また、下右端はプラクティス中のロブだが、前輪にブレーキが見当たらない。前ブレーキに自転車と同じキャリパーブレーキを試みたといわれているが、ブレーキ無も試みたのだろうか(規則では前後輪に作動するブレーキが必要である)?。レースではドラムブレーキを装着された。また、フェアリングの窪み(HONDAのロゴの下)は前フォークが接触するため現場で加工したものだろうか?

 レースはエルンスト・デグナー(スズキRM62)が独走していたが、4周目に立体交差前右80Rで転倒(このコーナーが「デグナーカーブ」と呼ばれるようになった由来)。その後は市野三千雄(RM62)が2位以下を大きくリ−ドしていたが、最終ラップに転倒してしまう。 そして、アンダーソン、森下勲(共にRM62)と2位争いを繰り広げていたロブが2人を振り切り優勝し、谷口は鈴木誠一(RM62)と同着の4位だった。
 

2 1963年

 1962年の全日本選手権で幸運な勝利を得たとはいえ、RC112の競争力はスズキRM62に劣っていた。そして1963年に向け、RC112E、2RC112Eのテスト、開発を継続する一方、4バルブのRC113Eの開発を1963年1月に開始した。間もなくRC112Eの開発は停止、2RC112E、RC113Eを並行開発した。そして1963年4月頃にはエンジン下周りを大幅に設計変更すると共に再び2バルブとなった2RC113Eの開発もスタートした。

 このように1963年に向けての複数種のエンジンの開発が進められたがシーズン開幕までに期待した性能は得られず、シーズン当初からの参戦は見送られた。F1レースへの進出するためホンダも多忙になっており、あえて勝てるかどうかわからないレースへリスクを冒して参戦する必要性に乏しいことも要因だった。
 改良エンジンの目標出場レースを1963年最終戦日本GP(11月10日)と決め3種類のエンジンの開発が行われた。このうち、2RC113Eの開発は一定の成果を上げた後、4バルブへ設計変更することになり2RC113Eの下周りの諸元を利用したRC114Eの開発を1963年8月に開始した。しかし、日本GPに出場するには時間が足りず、結局、日本GPにはRC113E/RC113Fが持ち込まれた。(日本GPで2RC112E、2RC113Eが使用された可能性も否定できない)

  1963年最終戦(第9戦)日本GPにはタベリ、ロブ、谷口、島崎貞夫、高橋国光が出場。このレースはアンダーソン(スズキRM63)とハンス・ゲオルグ・アンシャイト(クライドラ-)の世界選手権争いのレースだったが、タベリが圧倒的な速さを見せ優勝、アンシャイトは2周まで2位だったが3周目エンジントラブルでリタイア、結果はタベリ(下左)、アンダーソン、増田俊吉、市野三千雄(共にRM63)、島崎(下中の左)、伊藤光夫、デグナー(共にRM63)、ロブ(下中の右)、谷口の順となった。谷口は転倒後、追い上げての入賞だった。
 右端は島崎のマシンでシリンダーヘッド右にプラグコードが真っ直ぐ差し込まれているので4バルブとわかる。また、フレームの右シートレールをブリーザーのキャッチタンクにしている。

3 1964年

  1964年に向けてRC114Eの開発が始まったのは1963年8月であるが、開発が遅れ1964年シーズン序盤はRC113E/RC113が用いられた可能性がある。そしてマン島TTでRC114E/RC113Fが、日本GPで2RC114E/RC113F-2が登場したようだ(「5 現存するマシン」参照)。

  第1戦
USGPをホンダは欠場、第2戦スペインGPからの参戦となり、新加入のラルフ・ブライアンズ(左)、ロブ、高橋(右※)が出場したがプラクティスからエンジン故障が多発、レースでも3人ともリタイア。
  第3戦
のフランスGPでは、ブライアンズは序盤2位だったが3周目にリタイア。


  第4戦TTレ−スは、ブライアンズ(下左端、下左)が序盤遅れていたが、3周目(最終ラップ)に追い上げアンダーソン(スズキRM64)2位、谷口(下中※)もブライアンズから18.4秒遅れの5位に入賞した。ブライアンズのマシンのフェアリングのゼッケン下分割線は1963日本GPと同じ(オランダ、ベルギー、ドイツでも同じ)だが、谷口のマシンは別タイプである。下右はマン島で撮影されたと思われるブライアンズのマシンで、クランクケース右後部の形状が日本GPの島崎車と異なるので、エンジンはRC114Eと思われる。下右端はおそらくマン島で撮影された谷口のマシン。両車とも基本的に同じようだ。谷口がレースで使用したマシンは京浜精機製の機械式燃料噴射機構を装着していたといわれている。
 

 第5戦オランダGPは、3周までアンダーソンがトップでブライアンズ(左)が続くという展開だったが、アンダーソンがエンジントラブルでリタイアし、ブライアンズが独走し優勝。
  第6戦
ベルギ−GPはブライアンズ(右)、アンダーソン、森下(RM64)、伊藤光夫(RM64)、アンシャイト(クライドラ-)の5人の接戦で、結局、ブライアンズ、アンシャイト、アンダーソン、伊藤、森下で、1〜4位のタイム差は3.2秒の接戦だった。
 第7戦ドイツGPはブライアンズ(左※)の独走優勝、森下、伊藤光夫、アンシャイト。右の写真はドイツGPで撮影されたものと思われるが、フェアリングの形状が左のマシンと異なる。
 第8戦フィンランドGPは、ブライアンズが5周まで大きくリ−ドを保っていたがリタイア。その後はアンダーソンとアンシャイトの激しい首位争いとなったが、アンダーソンが0.7秒差で優勝。この結果、個人タイトルはアンダーソンに、メ−カ−タイトルもスズキに決定した。
 最終戦(第9戦)日本GPではスズキチームが125ccクラスに専念するため欠場、出場したのはホンダのファクトリーマシンに乗るブライアンズ、タベリ、谷口、伊藤晶(下左端、ゼッケン6、32、18、15)とホンダCR110に乗る永松邦臣の5人だけとなり、世界選手権として認められる最低出場者数の6人に満たないため世界選手権としてカウントされなかった。レースでは、谷口が一時トップを走るがチームの作戦でペースダウンしブライアンズ(下左)に優勝を譲った。
 下中はブライアンズのマシンだが燃料タンク形状がマン島時と異なる。奥に見える伊藤のマシンの燃料タンクはマン島時と同形状である。下右※の谷口のマシンはクランクケース後端形状がRC113E、RC114Eと大きく異なることから、2RC114Eと思われる。下右端※はブライアンズまたはタベリのマシンでRC114Eと思われる。4台ともフェアリング形状はマン島での谷口車と同じタイプ。

 1964年、ホンダは50ccクラスのタイトルを獲得できなかったが、後半の活躍はスズキを恐れさせるに十分なものだった。そして1965年にはホンダ2気筒とスズキ2気筒が真正面からぶつかることになるのである。

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