NRの評価     HONDA

 1979年イギリスGP500ccクラス、2台のホンダNR500がスターティンググリッドに着いた。1967年日本GPを最後にホンダファクトリーがGPから姿を消して以来、12年振りにホンダファクトリーがGPサーキットに姿を現したのである。その4ストローク4気筒エンジンは、4気筒以下に制限されているレギュレーション適合した楕円ピストンエンジンだった。しかし、楕円ピストンエンジンは世界GPで一度もポイントを上げられないまま、1982年を最後にGPレースから姿を消した。

 その後、楕円ピストンエンジンは1987年に750ccのNR750レーサーとして復活し幾つかのレースに出場、1992年には一般市販車版のNR750が市販された。そして、1987年頃から

・楕円ピストンエンジンは革新的である。

・楕円ピストンエンジンは真円ピストンエンジンより優れている。単に4気筒に制限されたレギュレーションを潜り抜けるための技術ではない。

 という評価が日本の二輪雑誌で定着している。

 ここでは、「NR 世界初の楕円ピストンエンジン」の記事(以下「記事」という)を引用しながら、楕円ピストンエンジンを評価してみる。もちろん、記事で述べられた「NR」はレーシングマシンではなく市販NR750であるが、記事の内容はレーシングマシンにも当てはまる。

1 真円ピストン4気筒に対するメリット

 ホンダの広報資料 では、

 従来の丸型ピストンに比べショートストローク化と摺動抵抗の低減による高回転化と、多バルブ化(4→8本)による吸・排気効率の飛躍的な向上が 可能となり、この結果、低速域から高速域までワイドでフラットなトルク特性を発揮させ、幅広 い回転域で力強く俊敏な応答性を実現できる画期的な技術である。

としている。

 しかし、楕円ピストンエンジン4気筒は真円ピストン8気筒と同じバルブ数、コンロッド数である。その8気筒は4気筒と比べて、

・気筒あたり排気量は1/2倍になる。
・バルブサイズは(1/2)(1/3)倍、バルブ面積は(1/2)(2/3)倍になる。
・従って排気量あたりバルブ面積は(1/2)(2/3)/(1/2)=2(1/3)=1.26倍になる。


 もちろん、これは近似式ではあるが、8気筒が4気筒よりバルブ面積が大きいのは当然であり、「楕円ピストン4気筒が真円ピストン4気筒よりバルブ面積が大きい」と主張しても無意味である。本来は、真円ピストン8気筒と比較しなければならないが、真円ピストン8気筒バイクは(過去はともかく)存在しない。

  そこで、右図に複数の一般市販車の気筒あたり排気量(横軸:cc)と排気量あたり吸気バルブ面積(縦軸:cm2/cc)を整理してみた。NR750は気筒あたり排気量93ccとしている。

 図右上に近似曲線の式を示しているが、排気量あたり吸気バルブ面積が気筒あたり排気量の0.3601乗に反比例していることがわかる。もちろん、この関係式はどの車種のデータを入力するかによって変わるので、あくまで参考程度に考えて欲しいが、少なくとも気筒あたり排気量が小さい程、排気量あたり吸気バルブ面積が大きくなることが分る。

 そして、NR750を8気筒とすれば(気筒あたり排気量93ccとすれば)、排気量あたり吸気バルブ面積が小さいことも分る。

2 真円ピストン8気筒に対するメリット

 記事では、右表のとおりNRの1気筒と同ストロークの真円2気筒と比較し、

(1)バルブの有効開口面積が12%大きくとれる。

(2)往復運動部質量が4%軽くなる。

(3)シリンダ周長和が30%短くなる。

(4)シリンダ幅を18%小さくできる。

としている。
 

 (1)について記事では右図を示している。レーシングエンジンでは、バルブリフトはバルブ径の1/3より若干大きい程度だが、仮にバルブ径20×1/3=6.7mmリフトで比較すると、楕円ピストンと真円ピストンとの有効開孔面積の差はほとんどない。
 
差があるのは低バルブリフト時で、「12%」は上表の「Mean Effective Intake Valve Area」=「平均有効開孔面積」であり、図の有効開孔面積×バルブリフトの積分値(図の網掛け部分の面積)をバルブリフトで除した値。この理由として、記事では「シリンダーによるマスク効果が減るためとしている。

 さて、検討エンジンのストロークは42㎜であり、これは真円ピストンであればボア53.2㎜でストローク/ボア比=0.789となる。これを(例えば)ボア56㎜とするなら、シリンダーによるマスク効果は減少する。この場合、ストローク37.9㎜でストローク/ボア比=0.677となる。往復運動部分の質量が増加するが、これが許容されるなら楕円ピストンのこのメリットは減少する。もちろん、ボアを広げれば、燃焼室断面が薄くなるとともに火炎伝播距離が長くなり、燃焼悪化が懸念される。ただし、楕円ピストンの場合も次に示すように火炎伝播距離では弱点を持っている。

 付け加えるなら、1で示したようにNRを8気筒を見なした場合、NRの排気量あたりのバルブ面積は小さいので、比較する対照は、真円ピストン+NRバルブ面積ではなく、真円ピストン+ 1.1×NRバルブ面積が適切と思われる。

 (3)、(4)については幾何学上のことであるが、(2)は誰も検証することはできない。

3 真円ピストンに対する弱点(あるいは弱点の可能性)

(1)燃焼室形状
  上の表中の図でわかるようにNRでは2つの点火プラグからピストン中央の上下端への距離が真円ピストンより明らかに長く、平面長で23%程度長く見える。その一方で、点火プラグからピストン上下端への距離が短くなるが、スキッシュエリアの幅が広く浅くなってしまっている。これ以外の要因も含め、燃焼室内のガスの流れがどうなるのか、疑問点は少なくない。

(2)冷却
 シリンダー幅を18%短くできた結果として、燃焼室、ピストンの中央部の冷却が苦しくなっている。

(3)吸気干渉
  右はホンダRA121E(1991年型F-1エンジン)3.5リッター60度V型12気筒で、各気筒のエアファネルのベルマウス部が隣接している。点火順序は分らないが、同時点火ではないので、隣接するベルマウス部が同時に吸気を開始することはない。

  楕円ピストンでは、楕円ピストン毎の2つの吸気口が隣接し、同時に吸気を開始するので互いに干渉してしまう。

(4)熱膨張
 真円ピストンエンジンでは、ピストンピン方向の熱膨張が大きいため、ピストンは「真円」ではなく、ピストン横(ピン孔方向)が痩せた形になっている。楕円ピストンではさらに痩せさせる必要があり、冷間時のピストンクリアランスを大きくなる。
 また、ピストンの排気側と吸気側でピストン温度は同じではないが、真円ピストンで円弧を修正することで対応できる。楕円ピストンでは排気側と吸気側の温度差はピストンの屈曲に繋がる。

(5)2本のコンロッド
 楕円ピストンでは1つのピストンに2つのコンロッドが組み付けられるため、真円ピストンでは許される各コンロッド、クランクピン等の寸法差が、楕円ピストンエンジンではピストンの歪みの原因になる。また、たとえ寸法誤差がゼロであったとしても、クランクシャフトは完全な剛体ではないため、各クランクピンごとの歪み、捩れは同じではなく、これもピストン歪みの原因になる。

(6)シリンダーヘッド組付け
 
シリンダーヘッドを組付けることによるシリンダーの歪みが大きい。

(7)排気脈動
 通常のレース用V型8気筒エンジンであれば、片側バンク毎に見れば180度等間隔点火であり、排気脈動を利用して吸排気効率を高めることができるが、楕円ピストン4気筒は片側バンクで見ると360度等間隔点火であり排気脈動の点で不利である。

(8)慣性力の釣合い
 楕円ピストンV型4気筒も真円ピストンV型8気筒もレーシングエンジンであれば往復運動部分の慣性力の釣合いは似たようなものである。しかし、真円ピストン8気筒ではクランクピン配列を変えることにより、乗用車用V型8気筒エンジンのように2次慣性力を釣り合わせることができるが、楕円ピストンエンジンでは無理である。
 真円ピストン並列4気筒であれば1次慣性力は完全釣合いであるが、楕円ピストン並列2気筒では1次慣性力をバランサーシャフトなしには完全釣合いにできない。
 
 真円ピストンエンジンでは気筒数が増えるにつれ、慣性力の釣合いの選択肢が増えるが、楕円ピストンエンジンでは選択肢を放棄せざるを得ない。

4 まとめ

  1、2、3を並べてみれば、答えは私が書くまでもない。

 記事の最後は以下の文で締めくくられており、技術的成果でなく苦労話でまとめざるを得ないところが、楕円ピストンに対する現在のホンダの技術的評価を表しているように思える。

 歴史上『NR』は空前にして絶後となった。進化なのか、ばからしいことをやっていたのか、弊社内でも様々な意見を聞いた。自分の机にしまってある楕円形のピストンを手にして、1992 年頃を振り返ってみる。来る日も来る日も悪い結果ばかりのテストを1000 回以上繰り返した後に、やっと良いデータが出た時の仲間の笑顔。リング工場で繰り返し加工トライをしているうちに夜中になり、担当の方が寒さに手をさすりながら「さすがに腹減りましたね?」と微笑んだこと。量産1号機が組み上り、エンジンを始動してブンブンとやった後に「フ~っ」と皆がそろって息を吐き、顔を見合わせて苦笑いしたこと。物作りが大好きで、夢中になっていた人々のステキな笑顔が想い浮かぶ。あきらめないことが結晶してマシンに輝きを与えたと自負して世に出した。『NR』は300台で生産を終えたが、このスピリッツは弊社のバイク創りに、今でも脈々と受け継がれている。

追記

 近似的にレーシングエンジンの最高出力は「排気量に比例し、気筒当たり排気量の1/3乗に反比例する(参考:「排気量と回転数」)。
 この関係から、1979年当時の自然吸気レーシングエンジンの代表としてフォード・コスワースDFV(3リッターV8)の最高出力を500㏄4気筒、500㏄V型8気筒、750㏄V型8気筒の最高出力に換算してみた。

 前提条件は次のとおり。
(1)DFVはイギリス製エンジンであり、推定された出力もヤードポンド法によるbhp(1bhpは1.014PS)
(2)二輪の出力測定は変速機出力軸であり、変速機の伝達効率は95%。
(3)二輪の騒音規制対応による出力損失は5%。

 1980年頃のDFVエンジンの最高出力を500bhp程度とするなら、500㏄4気筒、500㏄V型8気筒、750㏄V型8気筒の換算最高出力は、それぞれ110PS、139PS、182PSとなる。110PSでは2ストローク500㏄4気筒マシンに対抗することは困難なことはいうまでもない。
 そして、NR500の最終最高出力135PS/19500rpm(1982年12月) 、NR750の最高出力(1986年初め)162PS/16250rpm(何れの値も「ホンダNRストーリー」(1992山海堂))をこのグラフと比較してみれば、NRレーサーの最高出力の価値が どの程度かわかるだろう。

 1989年のホンダ3.5リッターV10の最高出力685PS/13000rpm(https://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1989/01/)は3リッターV8換算出力で566bhpとなる。 もちろん公表数値の信頼性がどの程度のものかという議論はあるが、 これを500㏄真円ピストン4気筒に換算すると124PSになる。1979年から10年後の4ストロークレーシングエンジンレベルであれば、 ホンダが10年間の技術的飛躍を1979年当時に達成していたならば、1979年当時の2ストローク500㏄4気筒エンジンに何とか対抗できたことになる。

 長円ピストンエンジンという技術的に困難な形式のエンジンの開発によって得られたノウハウは真円ピストンエンジンの開発においても無駄にはならなかったと思う。しかし、そのノウハウが真円ピストンレーシングエンジンの開発によって得られないものなのかどうかは疑問である。ホンダだからこそ。

 

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