TZの記事     YAMAHA

 別冊モーターサイクリスト誌2009-3号にTZ250を中心としたヤマハ市販レーサーの特集記事がある。2009年型TZ250がヤマハの2ストローク市販レーサー最終型となったことに因んだものである。私のサイトは基本的にファクトリーマシンを取り上げているが、本特集にはファクトリーマシンの記事もあるので、日本のバイク雑誌の認識不足の例として取り上げる。

 P71のTZ250の記事に

「〜生い立ちは決して順風満帆とは言い難かった。水冷化によって得られたものは性能ではなく、いくばくかの耐久性向上でしかなかったからだ〜当時、ヤマハは500ccワークスレーサーの製作で市販レーサーまで手が回らなかったのだ。そして、実際にレースでは空冷モデルの後塵を拝すことになってしまったのである。」

とある。この記事を書いた人のいう「性能」とは「出力表示」のことだろう。しかし、仮に出力表示が同じだったとしても、空冷であればレース中に冷却能力が不足し出力が低下する。簡単に「いくばくかの耐久性向上でしかなかった」というようなものではない。また、この人がいう「空冷モデルの後塵を拝す」とはどのような「レース」なのか分らない。世界選手権ではあっという間にTZ250への乗り換え(エンジン積み替えを含む)が進んだ。国内のMFJのノービスクラスでは空冷TD3の方が速いこともあったかもしれないが、それはライダーの問題である。

 当時、国内のMFJ主催のレースは、ライダーのランクにより、下からノービス、ジュニア、エキスパートジュニア、セニアとクラス分けがされており、エキスパートジュニア、セニアでは250ccクラスはなかった。また、ジュニアの250ccクラスは350ccクラスと混走で、250ccクラス単独でレースが行われたのはノービスクラスだけだった。

 TZ250はTZ350と共に語られねばならないマシンである。TZ350は単に世界選手権350ccクラスだけのマシンではなく、F750、全日本選手権750ccクラスでも大活躍した。500cc、750ccクラスに他に戦闘力のある市販レーサーがなかった1973年、TZ350はあっという間に世界のサーキットを席巻したのである。また、1972年世界選手権250ccクラスでヤマハはアエルマッキ(1973年にハーレーダビッドソン が買収)とタイトル争いを繰り広げたが、1973年には新設計のファクトリーマシン0W17を登場させた。また、国内ではTZ250はノービス、ジュニアクラス専用のマシンだった。このような状況を考えると、500-750の開発等を除いてもTZ250市販の優先順位が下なのは当然であり、単純に「500ccワークスレーサーの開発で市販レーサーまで手が回らなかった」と書かれることに違和感を感じる。

 また、写真説明中、ドラムブレーキについて、

「TDからの流用品」
「水冷化によって発生したコストを吸収するため」


とある。当時、GP500世界選手権でもシーズン当初からディスクブレーキを使用していたのはヤマハ、スズキくらいで、MVアグスタもシーズン当初はドラムブレーキだった(リンク先は1973年500t第3戦ドイツGPでサーリネン(ヤマハ0W20)と首位を争うリードのMVアグスタ4気筒)。また、1973年型ヤマハ0W16/17(350cc/250ccファクトリーマシン)もドラムブレーキであり、当時は市販車の方がディスクブレーキ化が先行していたのだ。TZ250/350のブレーキがドラムなのは1973年当時の状況からすると当然のことである。

 TZ250はTD3を水冷化したマシンであり、シリンダー、シリンダーヘッド、ラジエーター周り以外がほとんど共通である。「流用」とは本来の用途とは異なる用途に用いることだと思うが、この方の言に従うなら、フルモデルチェンジ後のマイナーチェンジ車は、部品の大部分を「マイナーチェンジ前の車から流用」していることになる。また、「水冷化によって発生したコストを吸収」するためなら、TD3のブレーキよりコストを削減しないといけないのだが・・・
 

 その他の頁でも、記述、写真説明の間違いは多いし、P79の表でも1981年型TZ250がTZ250HではなくTZ250Gになっていたり、TZ500が1977年に発売されたことになっていたり間違いだらけになっている。P79の表はこちらの資料を元に誰かが加筆して間違えたようだ。ちょっと見ただけでこれだけおかしいところがあるのだから、数値等をチェックしていけば誤りはさらに見つかるだろう。

 とはいっても、認識不足、間違いだらけの記事は雑誌屋のお家芸である。この記事の最も大きな問題点は全体の構成にある。当時の全体像をよく知るライター氏不在で、メカニックの思い出話、TZの開発に携わった技術者のインタビュー、コレクター紹介記事を寄せ集めただけの記事で、TZがどんなマシンだったか理解しようとしても無理である。一体、どんな読者を対象にしようとしたのだろうか。「TZ」という名前の2ストロークレーサーが1973年に登場し、36年後に最後のTZ2ストロークレーサーが販売され、TZ2ストロークの歴史が終わった。その終わりをまとめる記事としてはあまりに悲しいレベルである。

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以下、誤り等の例

P68

 原田哲也の写真は、世界チャンピオンになった1993年ではなく1992年(国内)。

 右のサーリネンのマシンが「TZ250(PROTO TYPE)」になっているが、TD3(空冷)の間違い。フェアリングの塗装、フェアリング下部トレイ形状がTD3のものだし、フェアリング奥にラジエーターはなくフレームパイプがはっきり見える(年表1972年の項参照)。

年表全体

 ヤマハのファクトリーマシンはOW○○(オーダブル○○)という機種記号が知られているが、実は0W(ゼロダブル)である。本記事のP72以降の年表でも1984年までは0Wで1985年以降はOWになっている。同じ記事の中では統一していただきたい。そうでなければ読者が混乱するだけである。私の以下の記事では0Wに統一する。

 「発売」とあり、発売月が書かれていないが、○年12月と○年2月では全く意味が異なる。前者では○年シーズンの選手権レースに出場できないからである。また、ヤマハの市販レーサーのように輸出されている場合、「どこの国で」いつ発売されたかが問題になる。TR2/TD2のように国内市販されなかったレーサーも発売年が書かれ、国内市販されたレーサーの発売年も国内発売年なのか、国内発売年なのか区別されず、そして発売月が2月であっても11月であっても○年と記載されていることに違和感がある。
 レーシングマシンなのだから、シーズン毎に整理した方がよかったように思う。

年表1970年
 P72、「TR-2」とあるが、TR2が海外で市販されたのは1969年で、国内では市販されなかった。

年表1972年
 P72、TZプロトタイプがGP250とGP350でデビューウィンとある。右は1972年開幕戦ドイツGP250ccクラスで優勝した金谷だが、 フェアリング下部トレイ部分(アルミ)の形状からマシンはTD3(空冷)と分る。この年、ヤマハ水冷250/350に乗ったのはサーリネン、金谷、グールド、シーンで、シーズン当初は前2人が350ccのみ水冷、後2人は250ccのみ水冷だった。

 水冷250がYZ624になっているが、YZ635の間違い。

  「J.サーリネンはYZ634で世界チャンピオン獲得」とあるが、YZ634は350ccマシンで、サーリネンが世界チャンピオンになったのは250ccクラス。

 「56×50mm、水冷並列ツインでTD3の水冷版だ。」とあるが、54×54mmの間違い。

年表1973年
 P72、「0W16(350)でJ.サーリネンがデイトナ200優勝」とあるが、TZ350の間違い。0W16/0W17はTZ350/TZ250とは全く別のマシンである。

 D.ブラウンに0W17が貸与されたとあるが、0W17が貸与されたのはT.ランシボリ。
 TD3が1973年にTA250と名前を変えたように書かれている。左のマニュアルの写真はTZ250だが、タイトルにはTA250と書かれている。一方、右はヨーロッパ向けと思われるポスター(英語とフランス語で併記)の一部だが、TZ350とTD3が並んでいる。
 TA250という名称が用いられたことは間違いないが、全世界向けの名称ではなかった可能性が高い。少なくとも日本では「TA250」という名前が用いられた記憶はない。

 「全日本セニア750ccチャンピオンは根本健」とあるが、TZ350に乗っていたことが書いていないと何のことか分らない(1974、1975年も同じ)。

年表1974年
 P73、「0W23(500)にモノサス採用」とある。この書き方であれば、0W23が最初のモノサスになるが、0W23が登場したのはシーズン中盤であり、第1戦に登場したマシンは前年と同名称の0W20で、このマシンは既にモノサスだった。

年表1977年
 
P73、片山が柳沢雄造チューンのTZ250改3気筒350ccを使用したとあるが、この3気筒はヨーロッパで製作されたもの。

年表1980年
 P74、「TZ350開発終了により250は専用設計に、ボア54.5×54mmとし249ccフルスケール」、とあるが、54.2×54mmの間違い。54.5なら250ccを越えてしまう。また、250ccと350ccとは元々ボアが異なるので、「250は専用設計に」は意味不明。

年表1982年
 P74、デイトナ200でクロスビーが乗ったマシンはTZ750ではなく0W31

年表1985年
 P75、平忠彦が乗った250ccマシンは0W85ではなく0W82。

年表1988年
 P75、1988年の250が1軸90度Vツインの0W90になったとある。1988年型は2軸クランクVツインの0W90で、1軸90度Vツインの0WA8が世界GPシーズンが終了した後のMFJ-GP(筑波)で登場したのだが、どうしたらライター氏のような勘違いができるのだろうか。

 ローソンのマシンは0W86ではなく0W98。0W86は1987年型。

 P76、「本間利彦がYZR250全日本GP250チャンピオン」とあるが、シーズン当初はTZ250に乗っていた。P83の技術者の回想で「88年の全日本第3戦西日本で本間利彦と難波恭司のTZがワンツーを取ったときがあって〜」とある。

年表2002年
 P75、「新設計のクランクケース採用(高剛性の砂型だ)。」とある。また、P78左上端にも「砂型クランクケースで高剛性化」とあり、「砂型だから高剛性」と考えているようだ。ヤマハの公表資料では「高剛性の砂型クランクケース採用」とあり、砂型だから高剛性とは書いていないのだが・・・

TZモデルヒストリーP72
 
 「TR2(1970)」はTR2(1969)の誤り。

 「TR3(1973)」はTR3(1971)又はTR3(1972)の誤り(1971は発売年で1972は実レース年)。

TZモデルヒストリーP73
 
 TZ250(1977)の写真は1976年型のもの。

 TZ350(1978)の写真は1979年型のもの。

TZモデルヒストリーP74
 
 TZ250(1982)の写真は1983年型のもの。

 TZ500(1980)の写真は1981年型のもの。

TZモデルヒストリーP75
 
 TZ500(1981)の写真は1982年型のもの。

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