RACERS Volume 70
ハントはホンダチームの通訳・案内役も務め他メンバーと行動を共にしたが、エントリー上はホンダチームではなく個人出場だった。これ故にホンダの戦績から除外するのであれば、ヘイルウッドの1961年125t・250tマン島TT優勝、250t個人世界選手権もホンダの戦績から除外すべきである。ホンダからマシン貸与を受けたヘイルウッドはホンダチームの一員ではなく、エントラントは彼の父のチーム・Ecurie Sportiveだったからである。 |
第2戦ドイツで1961年型125tであるRC144が登場したがMZに惨敗、急遽、60年型RC143E(エンジン)の改良型2RC143EをRC144F(車体)に搭載するマシンが第3戦フランスに投入され、フィリスが0.2秒差でデグナー(MZ)を退け優勝した。この状況を「調子は上々」で説明できるのだろうか?
125tと250tの2クラスなのでコースレコードも2つしかない。2つの記録を更新することが「ことごとく」か?
このマシンは2R143E/RC144Fと思われる。
7頁「(結果表)谷口尚巳」高橋は125t第1戦スペイン、第2戦フランスと連勝、50tクラスでは6位、2位だったが、250tクラスは走っていない。第3戦125tで転倒しその後のGPを欠場したので、高橋は1962年250tクラスを走らなかった。
「(1962年)〜RC145が開催レース10戦で全勝」「6位」の誤り。 「(写真3)「スペインGPの250t〜CR72で走る♯28ロブと♯40レッドマン」
写真にはRC163と書かれている。このクランクケースはRC163エンジン。
1963世界GPは全12戦で250tクラスだけなら全10戦で、プロビーニが優勝したのは250t第1、2、8、9戦。本記事の「第10戦」は「全クラス通じての第10戦(250t第8戦)イタリアGP」。しかし、プロビーニは4勝したのに、なぜこのレースだけ取りあげたのか? サーキットは高速コースのモンツァなので「パワーに勝るはずのホンダが敗れた屈辱」とライター氏は言いたいのだろうか? それなら第2戦西ドイツ(ホッケンハイム)も高速コースだが。
「(写真6)〜RC172は好調で、6勝をマーク」17頁「(1966年)スズキは主要メンバーに加えて片山義美や森下勲の日本人ライダーもスポット参戦」
森下は1964年を最後にスズキチームを去りブリヂストンに移籍、1966年は50tクラスでオランダ・6位(19頁結果表参照)、日本・転倒リタイア。片山は50t全6戦中3戦、125t全10戦中6戦走ったが、これが「スポット参戦」と言えるかどうか。
「(写真説明)ブライアンズに53秒遅れの2位」
「51秒」の誤り。19頁結果表参照。
17、19頁「一発の速さはアンシャイト、トータルのレースタイムではタベリが有利に思えた」
レースで各2勝した2人に対して「トータルのレースタイムではタベリ有利」とは? タベリの完走率が高いことを「トータルのレースタイム」と表現しているのだろうか?
私は「高速コースのホッケンハイム、モンツァで2勝しているアンシャイトとスズキが富士スピードウェイでも有利」と思う。
「(写真1)〜アンシャイトが優勝し、約50秒遅れてホンダのブライアンズが2位」
「35秒」の誤り。19頁の結果表参照。
「(写真3)タベリが優勝、ブライアンズが3秒差〜」
「0.3秒」の誤り。19頁の結果表参照。
「(結果表)Rd.1 3位BRYANS 29分32.81秒 4位ANDERSON 29分36.25秒」
ブライアンズのタイムは日本のレーシングモーターサイクルの歴史(八重洲出版1973)でも記事のとおりだが、オートバイ誌1966-7、ライディング1966NO.21(MFJ)では29分32.87秒で、平均速度からするとこちらが正しいと思われる。
アンダーソンのタイムは日本のレーシングモーターサイクルの歴史(八重洲出版1973)、オートバイ誌1966-7、ライディング1966NO.21(MFJ)では29分36.65秒で、平均速度からするとこちらが正しいと思われる。
「Rd.2〜1Lap length=7.725km」
6.768kmの誤り。最速ラップ速度147.236km/hもこの距離で計算されている。7.725kmはコース改修前の数字。
「Rd.10 TOURIST TROPHY 5位 Z. Gleed」
「B(Brian). Gleed」の誤り。
「Rd.11〜50Laps」
11Lapsの誤り。
22頁「(左中写真)RC113」
このマシンは下の2RC114E/RC113Fではないか?
23頁「(下写真)エキゾーストパイプは排気管長を稼ぐため、左右でクロスしている」
排気管はタイヤ後端を越えてはならないが、写真では排気管後端はタイヤ後端のかなり前にあり余裕がある。左右でクロスしているのは排気管長を稼ぐためではなく、排気管の曲がりを緩くするため。
25頁「(写真6)キャブレターはφ26」
43頁「(写真説明4)キャブレターはφ26」もそうだが、50t2気筒と125t5気筒のキャブレター径が250t6気筒より大きい。何かおかしい?
26頁「(1962年)〜ホンダに対してスズキのRM62単気筒は常に優位を堅持」
「第3戦以降」の文言が抜けている。
「ホンダは’62年の50tクラス最終戦鈴鹿に」
このレースは世界GPではない。
「’65シーズンは、ヤマハが125tクラスに水冷2気筒のRA97を〜」
誤りではないが「RA97の水冷型」の方がよい。空冷RA97が1964年オランダで登場していたからである。
「(1965年125t)この年のヤマハの125t挑戦はこれら2戦のみ」
誤り。32頁の写真1が3戦目の日本GPの写真。
27頁「(写真1)♯8がホンダのロビ」
「ロブ(Robb)」の誤り。
「(写真3)’65年マン島TT125t。手前は優勝したヒュー・アンダーソン」
「’64年マン島TT125t。奥は優勝したルイジ・タベリ、手前のヒュー・アンダーソンはリタイア」の誤り。なお、1965年マン島TT125tで優勝したのは(26頁にあるように)フィル・リード(ヤマハ)で、アンダーソンは最速ラップを記録したものの5位。下は1965年マン島125でのアンダーソン。
Hugh Anderson (Suzuki) 1965 Ultra Lightweight TT Our beautiful pictures are
available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts (ttracepics.com)
28頁「(1961年)東ドイツのMZのライダーだったエルンスト・デグナーが西側に亡命し、スズキと契約したことが契機となって、2ストロークにおける排気脈動のカデナシー効果など、その理論が確立されていった〜」
ライター氏はデグナーのスズキ入りが契機となってヤマハが1964年にタイトルを手にしたとでも言いたいのだろうか?
カデナシー効果はミシェル・カデナシーが1930年代に特許を取得した技術によるもの。また、1961年以前のMZの排気管を見た他社の技術者がその排気管の形状の意味に気が付かなったはずがない。
29頁「(左列下)50t2気筒のワンシリンダーを5つ使えば125tになる、と発想したのは本当の話だそうだ」
これだけでは当たり前過ぎて「本当の話」というほどのことかと思う。「振動を考えれば4気筒の次は6気筒」が常識だった中での発想に価値があったのだが。
「(図説明)その発想は設計者自身のものである」
元ホンダの八木氏によると125t5気筒の発案者は本田宗一郎社長とのことである。
世界二輪グランプリレースに出場したホンダ
レース用エンジンの開発史 | 本田技術研究所 論文サイト (hondarandd.jp)
「(写真説明)〜RA273には、RCレーサー同様の合理的かつ独創的なアイデアが使われていた」
「合理的かつ独創的」に相当しそうなアイデアは本文には「(右列)6気筒の真ん中にセンターギアを持ってきて3気筒ずつ回せば」しかないが、自動車用エンジンのクランク中央動力取出はメルセデス・ベンツ2.5リッター直列8気筒(1954-55F-1チャンピオンカーのエンジン)等の先例がある。
なお、ホンダRA273がクランク中央動力取出を採用したのは、(記事中に「組立式ではまずもたない」とあるように)一体クランクシャフトではなく組立クランクシャフトだったことが大きな理由であり、「摩擦損失を少なくするためにクランクベアリングをローラーベアリングにしたが、そのためにクランクシャフトが組立式になり、動力取出シャフトを設けたためその摩擦損失が付加され、重量も増大した」のが合理的かつ独創的といえるだろうか?
31頁「1965年の最終戦、鈴鹿の日本GPに登場したRC148」
手前のゼッケン22のマシンは4気筒の4RC146。
32頁「(写真3)’66年東ドイツGPの表彰」
「’66年アルスターGPの表彰」の誤り。35頁結果表参照。なお、東ドイツGP2位は片山義美、3位はビル・アイビーで、表彰式の映像は下の55秒から。
CAN809 EAST GERMAN
MOTORCYCLE GRAND PRIX 1966 (youtube.com)
34頁「6戦目のフィンランドGPでは〜リードが1秒差で」
35頁結果表では0.1秒差。ただし、1966年当時の雑誌記事では0秒差になっていた。オートバイ誌1966-10では「〜全く同時にゴールイン。判定にかなりの時間を要したが〜その差は僅か10cmとのこと。精確な写真判定装置が必要という非難が多かった」となっている。そして下写真(チェッカードフラッグが写っている)からも「0.1秒差」とは思えない。
「後半戦の戦いではブライアンズの援護射撃もあって」
「後半戦の戦いでは」は「シーズンを通して」とすべき。タベリは125t第2、4、5、7、9戦で優勝したが125t第4戦東ドイツを除き2位入賞(前半戦2回、後半戦2回)し、タベリとヤマハ勢のポイント差を広げた。
35頁「(写真3)RA97は〜トランスミッションは8速」
1966年型RA97には
8速と9速の2仕様があった。
「(結果表)Rd.2〜1Lap length=7.725km」
6.768kmの誤り。7.725kmはコース改修前の数字。
「Rd.4〜Fastest lap Luigi Taveri 2'26"9 165.879km/h」
Fastest lap Luigi Taveri/Phil Read 3'19"8
138.818km/hの誤り。Rd.2の記録がそのまま記載されている。
「Rd.7 CSFR」
CSSR(Československá socialistická
republika)の誤り。CSFR(Česko-slovenská federatívna republika)は1990〜1992年の国名。
「Rd.9 1Lap Length=12.067km」
11.91kmの誤り。最速ラップ速度152.06km/hも11.91kmで計算されている。
「Rd.10 TOURIST TROPHY〜1966/9/2」
「1966/8/31」の誤り。1966年マン島の日程は8月28日:サイドカー・250t、31日:125t・350t、9月2日:50t・500t。
45頁「(下写真)’65年チェコスロバキアGP〜2RC165」
シリンダーヘッドはRC165のように見える。なお、11頁写真5と同じ場所、同じ時間帯に撮影されたもの。
47頁「(上写真)(350t)このレースの終了をもってヘイルウッドとMVの契約も終了」
10頁同様、誤り。
49頁「(1967年マン島)このレースでは250/350/500の3クラスで優勝し、マン島TTで10勝という記録を達成した」
12勝の誤り。「10勝」は写真の250tレース後の数字で、これによりTTレース最多優勝記録の10回(スタンレー・ウッズ、第二次世界大戦前)に並び、2日後の350、さらに2日後の500tでも勝ち、TT12勝を記録した。
250tレース後のヘイルウッドとウッズ。A
record broken; 1967 Lightweight TT For sale as Framed Prints, Photos, Wall Art
and Photo Gifts (ttracepics.com)
50頁「(写真1)’65年のマン島で〜リードを追うヘイルウッド」
このレースは1966年のイギリス国内レース、おそらくカドウェルパークで撮影されたもの。ヘイルウッドがホンダ6気筒に初めて乗ったのが1965年最終戦日本GPであることが本文に書かれているのに。
写真5と写真6
の説明が入れ違いになっている。
51頁「〜勝利数でリードをひとつ上回ったヘイルウッド(9戦5勝)が〜」
カッコ内は「13戦5勝」の誤り。ヘイルウッドは13戦走ったし、ポイント獲得レース数は8だし、どこから「9戦」が出たのか不思議。
「(結果表)Rd.2〜1Lap Length=7.725km」
6.768kmの誤り。7.725kmはコース改修前の数字。
「Rd.7 CSFR〜Fastest Lap=Ralph BRYANS 4'42"0(152.06km/h)」
CSSR(Československá socialistická republika)の誤り。CSFR(Česko-slovenská federatívna republika)は1990〜1992年の国名。
Fastest Lap=Mike HAILWOOD
5'23"8(153.9km/h)の誤り。1966年125tアルスターGPの記録が記載されている。
「Rd.9 1Lap
Length=12.067km〜152.37km/h」
11.91km〜149.36km/hの誤り。
「Rd.10 TOURIST TROPHY 1966/9/2」
「1966/8/28」の誤り。
「Rd.11 1Lap Length=6.3km」
5.75kmの誤り。
54頁 「(レッドマンの写真説明)なお、'63ダッチTTでのハットトリックは、彼が初めて成し遂げた偉大な記録だった」
1963年ではなく1964年の誤り。
「初めて」とあるが、3クラス制覇ならその横のヘイルウッドに関する記事にあるようにヘイルウッドが1961年に達成済。初めてなのは「1日間でのハットトリック」。
「(1963年マン島TT350tクラス写真説明)RC173」
RC172の誤り。RC173は1966年型。
55頁 「(中列)そして9月、ヘイルウッドはホンダから電報を受け取った」
HAILWOOD by Mike Hailwood and Ted Macauley, Cassell 1968によると電報ではなく手紙。なお、同書では時期はshortly before the Japanese Grand Prixとなっていたので、記事の「9月」はそのとおりと思われる。
「(中列)ヘイルウッドとMVの間に契約は残っていたが、それは350tクラスで〜鈴鹿を走り終えるまでだ。続く250tクラスのレースでヘイルウッドは自由の身になるため、ホンダ6気筒に乗ることは契約的に何の問題もなかったのである」
10頁同様、誤り。そもそも契約期間が日本GP決勝1日目(土曜日)まで、というライター氏の発想が理解できない。
「(右列、350tレース記述の後)そして250tの最初の練習走行を終えたピットには、ヘイルウッドのホンダ6気筒に対するファースト・インプレッションを聞きたい多くのジャーナリストたちでにぎわうことになる」
250tクラス最初の練習走行が350tレースの後のような記述になっている。350tレースは10月23日(土)、250tレースは10月24日(日)に行われ、各クラスの公式予選は10月20〜22日に行われた。
「250t決勝で、顔を蜂に刺されるというアクシデントに遭ったレッドマンは欠場〜」
250t決勝で蜂に刺されて欠場・・・「出場したのに欠場」という文章。250t決勝で(前日)顔を蜂に刺されたレッドマンは欠場、と言いたいようだ。
68頁「(元ホンダの宮腰氏)1955年にF-1で活躍したメルセデスベンツW196Sのコンロッドレシオ3.8を参考にし〜」
「勝利のエンジン50選」(カール・ルドヴィクセン、二玄社2004)では、1955年のメルセデス・ベンツF-1エンジンのコンロッドレシオを4.0としている。
F-1カーはW196R(エンジンはM196R)で、W196S(エンジンM196S)は3リッタースポーツカー(ルマン24時間レース等を走る)なので、宮腰氏の言う「W196S」はF-1ではなくスポーツカーのはず。各エンジンのボア×ストロークは
M196R:76×68.8 mm、M196S:78×78
mm。69頁右上の図の説明に「〜M196のエンジンは〜2496t〜先進的エンジンだった」とあるから、この図はM196Rということになる。しかし、図を拡大してみると(下図)、ボア(黄線)とストローク(赤線✖2)が同じに見えるし、コンロッドレシオ(白線/赤線)=3.8あたりに見えることから、この図はM196Sのものと思われる。宮腰氏がF-1エンジンと思っていたコンロッドレシオはスポーツカーエンジンのものの可能性が高い。
「先進的エンジン」
「先進的エンジン」とは他者の先駆けになるエンジンだと思うが、他社が採用しないようなメカニズムのエンジンが先進的なエンジンなのか?
69頁最下行「※4 λ=1/r」
分子が「いち」なのか「エル」なのかはっきりしないが、 λ=ℓ/r(ラムダ イコール アール ぶんの エル) 、つまりコンロッド長/クランク半径。
71頁の出力記述と86-87頁諸元表
対比するとかなり違う。
RC164 45.6/13500→45.6/14000
2RC165 54.3/17500 → 記載なし(左記出力はRC165のもの)
3RC165、RC166 56.8/18500 → (RC166のみ)56.8/17500
RC166B 59.2/18400 → 59.2/18500
エンジンの出力は個体差があるし、同一個体ですら(補正式があっても)気象条件等によって計測値がばらつく。 ただ、上の食い違いは単にライター氏のミスのような気もする。
また、86-87頁の諸元表、いろいろおかしな数値がある。例えばレースに出なかったRC140が「最大トルク発生回転数>最高出力発生回転数」になっており、最高出力も18PSと、よく知られた(86-87頁に記載はないが)RC142の最高出力17.3PSを上回っている。また、500tのRC181、2RC181とすべきところがRC180(1965年製作の450t)、RC181になっている。また、マシンによっては
最大トルク時の出力>最高出力 になっている。
71頁最後「(1967年)ヘイルウッドが13戦7勝を挙げてGP250cc2連覇を達成した」
「ヘイルウッドが13戦5勝を挙げて〜」の誤り。ブライアンズの2勝を合わせてホンダ7勝である。
73頁「(オイルパン)1964年9月〜急遽イタリアGPに出場したが、エンジン熱ダレ発生により3位となり冷却性能の対策が不可避となる。そこでオイルクーラーの装備と同時に〜特にオイルパンは〜」
イタリアGPの後にすぐオイルクーラーが装着されたような文だが、すぐ対策されたのはオイルパンであって、オイルクーラーが装着されたのは1年後。
83頁「(写真5)バルブ挟み角は流石に大きい。当時においては4バルブの採用もあるが、ヘッドの冷却性を考えるとあまり小さくできなかったのではないだろうか」
RC165〜2RC166のバルブ挟角は75度、RC115/RC116、RC148/RC149のバルブ挟角は55度であり、空冷であっても6気筒のバルブ挟角をさらに小さくすることは可能だった。また、1976年型ホンダRCB1000のバルブ挟角は42度、1980年のスズキGSXシリーズ(市販車)のバルブ挟角は40度だった。当時のホンダは(この程度のストローク/ボア比であれば)バルブ挟角75度程度の方が高出力にできると考えていたのである。
「(写真8、9)〜6本出しのメガホンマフラー。もちろんディフューザーなどない直管」
ライター氏はディフューザーを消音器だと思っているようだ。元ホンダの八木氏は1958年の入手したモンディアル125tレーサーを解析して排気系のディフューザー効果を学んだとしている。
世界二輪グランプリレースに出場したホンダ
レース用エンジンの開発史 | 本田技術研究所 論文サイト (hondarandd.jp)
85頁「(写真8)リアショックは〜実戦ではガーリング製のものが使われたこともあった」
1965年以前はガーリング製がよく用いられたが、1966-67年の世界GPでガーリング製は用いられなかった。つまり、このマシンの説明としてガーリング製云云は誤り。
90頁「’66年のマン島TTでRC173を駆るヘイルウッド。決勝は他クラスのタイトル獲得に専念するため不出走〜」
ヘイルウッドはRC173で1966年マン島TT350tレースに出場し、1周目のビショップスコート地点でエンジン故障によりリタイアした。写真はプラクティスではなくレース1周目のクォーターブリッジ地点。
ライター氏は350tクラスが250t、500tクラスと同日開催とでも思ったのだろうか? また、125tレースも走ったこと(33頁写真、35頁結果表)をどう考えるのだろう?
モーターサイクリスト誌1966-11の写真説明では「〜350tクラスではヘイルウッドの棄権でアゴスチーニが〜TT初優勝」とあったが、ライター氏はこの「棄権」が「途中棄権」だと気が付かずに記事にしたのか?
91頁「350t〜レッドマンは、’63年に6勝〜」
9ページ同様、「5勝」の誤り。
「(中列)〜RC173とヘイルウッドは初戦の西ドイツGPから8戦中6勝をあげ、最終戦を待たずに〜350tライダータイトルを獲得」
「ヘイルウッドは初戦の西ドイツGPから8戦中6勝をあげ」は「ヘイルウッドは350cc第1戦西ドイツ以降の8戦に出場、第1戦西ドイツを始め6勝をあげ」とした方がよいのでは。なお、6勝目は第7戦アルスターで、この時点でライダー/メーカータイトルを確定させた。第8戦マン島はリタイアし、第9戦・10戦は欠場。
「8戦」が全開催レース数なら「10戦」の誤りで、裏表紙の「ヘイルウッドは350クラスでも全8戦中7戦に出場」(「全10戦中8戦に出場」の誤り)からすると、この可能性も十分ある。
「(中列)このRC174のベースとなったのはRC166で、同じ41mmボアに6mm長い37.5mmストロークをのクランクを組み合わせることで〜」
86、89頁の諸元表ではRC166は39×34.8mmで、RC166Bが41×31.5mm。このRC166BはRC166改(71頁右列)とも2RC166とも称される。
「(写真1)マロリーパーク〜レースオブザイヤー(ポストTTレース)〜’67年の〜♯11ヘイルウッド〜♯8ダン・ショーレー〜」
下線部が誤り。こちらに同じ写真がある。Mallory Park Post Tt In 1968 - Internal-Combustion.com
レースオブザイヤー(9月)とポストTT(6月)は別のイベントで、これはポストTT。また、1967年ではなく1968年のもの。ヘイルウッド(ゼッケン1)のRC174が1968年型で、ヘイルウッドのヘルメット、グラブも1968年仕様なのですぐ分る。なお、ゼッケン8はShorey(ショレー)ではなくロドニー・グールドで、ショレーはゼッケン30。
「(写真1)すでにヘイルウッドは加速態勢に入っているのがすごい」
写真の状態ではエンジン始動済かどうか不明瞭。ヘイルウッドの押し掛け手順は次の通り。
マシンを押す
→ マシンに横座りし、クラッチを繋ぎエンジン始動 → マシンに跨りながら加速
→ マシンに跨ったら本格的に加速
写真ではまだ横座りの状態。つまりエンジンが始動済かどうか不明瞭。
参考 1967年マン島500のスタート
https://youtu.be/foZdFup7nz4
ヘイルウッド(4)もアゴスチーニ(9)も同じスタート方法。
「(写真3)’67年の東ドイツGPで優勝した〜ヘイルウッド〜」
「西ドイツGP」の誤り。こちらに同じ写真がある。https://pbs.twimg.com/media/C7mrU6AXQAEeuV4?format=jpg&name=medium
ヘイルウッドのグラブ、RC174の前フェンダーが東ドイツGP時(下左)と異なり、コースの風景もザクセンリング(東ドイツ)と異なる。下右が西ドイツGP。
「(結果表)J・アーン」
Jack Ahearn
J・アハーン(オーストラリア)。様々な媒体で聴くと「アハーン」と聞こえる。
92頁「レッドマンに代わってRC181を駆るヘイルウッド。このことによって、彼は250/350/500の3クラスを掛け持ちで戦うことになった。この後同じ大会で3勝を挙げるという偉業を達成した」
レッドマンの代わりではない。ヘイルウッドは250t、350t、500tで走る契約だった。だからこそ1965年末に500tマシンをテストしたし、1966年シーズン前にも500tマシンをテストしている。そしてヘイルウッドは1966年500t第1戦こそ欠場(1日走行距離規制のため)したが、第2戦オランダ、第3戦ベルギーはレッドマンと共に出場しリタイアしたものの両レースで最速ラップを記録したし、既にオランダでは250/350/500の3クラスに出場していた。
正しくは「500t第1戦を1日走行距離規制のために欠場、第2、3戦リタイアで無得点だったヘイルウッドが個人タイトル争いの主役にならざるを得なかった」
「同じ大会」が何を指すのか? この写真は1966年500tマン島TTレース中のものだが、1967年マン島TTの3クラス優勝のことを「この後〜」と書いて読者に何が伝わるのだろう?
93頁「そして’66シーズン〜この年から350tをベースとするMVの新型3気筒とアゴスチーニを打ち負かし、’66年の西ドイツ、オランダと開幕2連勝〜」
アゴスチーニは500t第1戦西ドイツ、同第3戦ベルギーでは旧型の4気筒に乗った。
「(500tクラス)第3戦ベルギーGPでレッドマンは不幸にも大転倒してしまい〜エースを失ったチームの苦境を救ったのは、250/350ccのエースを務めたヘイルウッドだった」
ヘイルウッドが500t第2戦、第3戦を走っていたのを知っていたら書けない文だと思う。
「(本文最後)ポイントでは僅差でアゴスチーニに及ばす〜」
「2位入賞回数でアゴスチーニに及ばず」の誤り。有効得点は同点。得点単純合計はアゴスチーニが上だが、これは順位決定には全く考慮されない。考慮されたのは優勝回数(同じ)→2位の回数(3対2でアゴスチーニ)。
参考
19、35頁で、Ralph BRYANS、Tommy
ROBBのNat.(Nationality・国籍)がIRL(アイルランド)になっているが、二人はアイルランド共和国民ではなく、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国民で、北アイルランド出身。競技ライセンス発行団体がACU(グレートブリテン島等での発行団体)と異なるだけである。従って、国籍はGBR、UK、あるいはN.Irlとすべきだろう。
次のサイトでBryansの名前の横にアイルランド国旗が示されているのは、競技ライセンスの発行団体の意味なら「誤り」かどうか微妙だが、国籍の意味なら誤りである。MotoGP™
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