Honda World Grand Prix 700勝の軌跡
1 勝利数
https://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2015/700win/data/year/
ホンダのGP優勝一覧表。左端が勝利数(累積)が記載されており、例えば100勝目は1966年のオランダGP(ダッチTT)250ccクラスである。しかし、この「勝利数」は優勝した日付順→排気量順になっている。
かつての世界GP、サイドカーを入れると最大6クラスあり、どのクラスからどういう順序でレースを行うかはグランプリごとにバラバラだった。サイドカーが1日に最後のことが通例ではあったが。
また、決勝レースが2日間、3日間(マン島)に亘ることもある。最近の資料ではこのようなことが忘れられてしまい、マン島TTですら全クラスが1日で行われたことにされている「公式」資料すらある。
上のデータも、時系列で見れば誤りが多いので、1960年代に限って校正してみた。
下の表で、赤字は上のデータとNoの食い違いがあるもので、黒字は食い違いがないものの、赤字と同じGPのレース。太枠は日付を修正したもの。
No | 年月日 | ライダー | cc | 開催地 | コース | |
7 | 1961年6月24日 | マイク・ヘイルウッド | 250 | オランダ | アッセン | |
8 | 1961年6月24日 | トム・フィリス | 125 | オランダ | アッセン | |
25 | 1962年6月30日 | ジム・レッドマン | 350 | オランダ | アッセン | |
26 | 1962年6月30日 | ジム・レッドマン | 250 | オランダ | アッセン | |
27 | 1962年6月30日 | ルイジ・タベリ | 125 | オランダ | アッセン | |
32 | 1962年8月11日 | ルイジ・タベリ | 125 | アルスター | ダンドロッド | |
33 | 1962年8月11日 | ジム・レッドマン | 350 | アルスター | ダンドロッド | |
34 | 1962年8月11日 | トミー・ロブ | 250 | アルスター | ダンドロッド | |
35 | 1962年8月19日 | ルイジ・タベリ | 125 | 東ドイツ | ザクセンリンク | |
36 | 1962年8月19日 | ジム・レッドマン | 350 | 東ドイツ | ザクセンリンク | |
37 | 1962年8月19日 | ジム・レッドマン | 250 | 東ドイツ | ザクセンリンク | |
38 | 1962年9月9日 | ジム・レッドマン | 350 | イタリア | モンツァ | |
39 | 1962年9月9日 | 田中髀 | 125 | イタリア | モンツァ | |
40 | 1962年9月9日 | ジム・レッドマン | 250 | イタリア | モンツァ | |
41 | 1962年9月23日 | ルイジ・タベリ | 50 | フィンランド | タンペレ | |
42 | 1962年9月23日 | トミー・ロブ | 350 | フィンランド | タンペレ | |
43 | 1962年9月23日 | ジム・レッドマン | 125 | フィンランド | タンペレ | |
48 | 1963年6月29日 | ジム・レッドマン | 350 | オランダ | アッセン | |
49 | 1963年6月29日 | ジム・レッドマン | 250 | オランダ | アッセン | |
50 | 1963年8月10日 | ジム・レッドマン | 350 | アルスター | ダンドロッド | |
51 | 1963年8月10日 | ジム・レッドマン | 250 | アルスター | ダンドロッド | |
52 | 1963年9月15日 | ジム・レッドマン | 350 | イタリア | モンツァ | |
53 | 1963年9月15日 | ルイジ・タベリ | 125 | イタリア | モンツァ | |
59 | 1964年6月8日 | ジム・レッドマン | 250 | イギリス | スネーフェル・マウンテン | |
60 | 1964年6月10日 | ルイジ・タベリ | 125 | イギリス | スネーフェル・マウンテン | |
61 | 1964年6月10日 | ジム・レッドマン | 350 | イギリス | スネーフェル・マウンテン | |
62 | 1964年6月27日 | ジム・レッドマン | 350 | オランダ | アッセン | |
63 | 1964年6月27日 | ラルフ・ブライアンズ | 50 | オランダ | アッセン | |
64 | 1964年6月27日 | ジム・レッドマン | 250 | オランダ | アッセン | |
65 | 1964年6月27日 | ジム・レッドマン | 125 | オランダ | アッセン | |
67 | 1964年7月18日 | ジム・レッドマン | 350 | 西ドイツ | ソリチュード | |
68 | 1964年7月19日 | ジム・レッドマン | 125 | 西ドイツ | ソリチュード | |
69 | 1964年7月19日 | ラルフ・ブライアンズ | 50 | 西ドイツ | ソリチュード | |
72 | 1964年8月30日 | ジム・レッドマン | 350 | フィンランド | イマトラ | |
73 | 1964年8月30日 | ルイジ・タベリ | 125 | フィンランド | イマトラ | |
74 | 1964年9月13日 | ジム・レッドマン | 350 | イタリア | モンツァ | |
75 | 1964年9月13日 | ルイジ・タベリ | 125 | イタリア | モンツァ | |
83 | 1965年6月26日 | ジム・レッドマン | 350 | オランダ | アッセン | |
84 | 1965年6月26日 | ラルフ・ブライアンズ | 50 | オランダ | アッセン | |
86 | 1965年7月17日 | ジム・レッドマン | 350 | 東ドイツ | ザクセンリンク | |
87 | 1965年7月18日 | ジム・レッドマン | 250 | 東ドイツ | ザクセンリンク | |
|
1966年6月25日 | マイク・ヘイルウッド | 350 | オランダ | アッセン | |
100 | 1966年6月25日 | ルイジ・タベリ | 50 | オランダ | アッセン | |
101 | 1966年6月25日 | マイク・ヘイルウッド | 250 | オランダ | アッセン | |
102 | 1966年6月25日 | ジム・レッドマン | 500 | オランダ | アッセン | |
106 | 1966年7月24日 | ルイジ・タベリ | 125 | チェコ | ブルノ | |
107 | 1966年7月24日 | マイク・ヘイルウッド | 350 | チェコ | ブルノ | |
108 | 1966年7月24日 | マイク・ヘイルウッド | 250 | チェコ | ブルノ | |
109 | 1966年7月24日 | マイク・ヘイルウッド | 500 | チェコ | ブルノ | |
110 | 1966年8月7日 | マイク・ヘイルウッド | 350 | フィンランド | イマトラ | |
111 | 1966年8月7日 | マイク・ヘイルウッド | 250 | フィンランド | イマトラ | |
112 | 1966年8月20日 | マイク・ヘイルウッド | 350 | アルスター | ダンドロッド | |
113 | 1966年8月20日 | ルイジ・タベリ | 125 | アルスター | ダンドロッド | |
114 | 1966年8月20日 | マイク・ヘイルウッド | 500 | アルスター | ダンドロッド | |
125 | 1967年6月24日 | マイク・ヘイルウッド | 350 | オランダ | アッセン | |
126 | 1967年6月24日 | マイク・ヘイルウッド | 250 | オランダ | アッセン | |
127 | 1967年6月24日 | マイク・ヘイルウッド | 500 | オランダ | アッセン | |
132 | 1967年8月19日 | マイク・ヘイルウッド | 500 | アルスター | ダンドロッド | |
133 | 1967年8月19日 | マイク・ヘイルウッド | 250 | アルスター | ダンドロッド |
2 物語編
https://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2015/700win/history/p03/
(1963年)「350tクラスは、RC172が8戦6勝を挙げて、両タイトルを獲得しましたが〜」
7戦5勝の誤り。日本のライター氏がよく間違える箇所。日本GPは出走者が少なく世界選手権とならず、タイトルとは無関係。こちらの頁では1963年350tは「5勝」になっており、こちらが正解。
https://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2015/700win/data/class/
(1966年)「ライダーは50tクラスと125tクラスにルイジ・タベリ選手、250tクラスと350tクラスにマイク・ヘイルウッド選手、500tクラスにジム・レッドマン選手を起用」
50t、125tのラルフ・ブライアンズが忘れられている。
「〜途中、負傷したレッドマン選手に代わり、ヘイルウッド選手が500tクラスにも参戦するなどのトラブルに〜」
マイク・ヘイルウッドは250t、350t、500tで走る契約だった。だからこそ1965年末に500tマシンをテストしたし、1966年シーズン前にも500tマシンをテストしている。第2戦(500t第1戦)ドイツGPのみ1日走行距離等規制のため欠場したのだ。第4戦(500t第2戦)オランダ、第5戦(500t第3戦)ベルギーで、ヘイルウッドはレッドマンと500tクラスに同時に出場しているし、オランダでは250cc、350cc、500ccの3クラスに出場している。したがって、上の記述の「レッドマンの代わり」は誤り。
正しくは「レッドマンの欠場により、500t第1戦欠場、第2、3戦リタイアで無得点だったヘイルウッドが個人タイトル争いの主役にならざるを得なかった」。
「全クラス合計37戦中29勝を挙げる圧倒的な戦績〜」
全クラス開催レース数47、ホンダ参加42戦、29勝だが、37という数字はどこから来たのか?
「ジム・レッドマン選手(♯103)、マイク・ヘイルウッド選手(♯104)/RC181(1966年東ドイツGP)」(写真説明)
RC181ということは、ライター氏はこの写真を500tクラスと考えているようだが、これは西ドイツGP250t。
500t4気筒と250t6気筒の外観の区別がつかず、ゼッケンが500tではないと気が付かず(500tクラスは黄色地に黒数字)、この風景が共産圏の東ドイツに見える人が記事を書いているのである。
https://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2015/700win/history/p01/
の1960年の記述で「〜その転機となったのは第4戦東ドイツGPでした」と西ドイツを東ドイツと誤っている。ライター氏には「西」が「東」に見えるのかもしれない。
「誰かが間違えると皆、間違える」誤りが多いように思う。
参考 上の「37戦」の誤り
1966年の開催レース数、ホンダ参戦レース数、ホンダ入賞数、ホンダ優勝は次のとおり。
クラス | 開催レース数 | ホンダ参戦数 | 入賞数 | 優勝数 |
50 | 6 | 5 | 5 | 3 |
125 | 10 | 9 | 9 | 5 |
250 | 12 | 11 | 10 | 10 |
350 | 10 | 8 | 6 | 6 |
500 | 9 | 9 | 6 | 5 |
合計 | 47 | 42 | 36 | 29 |
あるいは、
●もっと単純に「3位以内入賞数は35。500tベルギーがレッドマンが転倒リタイア、最終戦イタリアでヘイルウッドがリタイアしたので2を足して37」
●開催レース数47を37と誤記。