二輪グランプリ60年史 (スタジオタッククリエイティブ2010)

 読んでいて気がついたことのみを列挙したので、他に間違いがある可能性がある。また、外国固有名詞の日本語表記、おかしな表現、誤植については触れていない。


25頁
○「ドイツは1951年にFIM(当時はFICM)に再加盟して〜」とあるが、FIMの公式サイトによると、FICMからFIMになったのは1949年。

38頁
○「モンツァの125のスタート」とあるが、この風景はアッセンのように見える。

43頁
○1957年250ccのGBR/マン島TTの箇所で「セシル・サンドフォード(モンディアル)が〜初出場の250ccGPで優勝。」とあるが、サンドフォードは1955年250ccランキング2位になっている(36頁)。他の頁でもこのような「初出場」記述がある。

46
○レギュレーションの変更について「前後のホイールと、〜が、横から見えなければならなくなった」とあるが、「前ホイールと、後ホイールの後半分と、〜が、横から見えなければならなくなった」の誤り。

51
○500ccのITA-NAZ/モンツァの箇所で、「ジェフ・デューク(ノートン)が彼の最後のグランプリで優勝」とあるが、数行上に「サーティーズが7戦中の7戦に優勝」とあるように誤り。

53頁
○「創始期のアメリカ・ホンダの社員で、ライダーと同時に交渉係も務めたアメリカ人のビル・ハント」とあるが、アメリカ・ホンダが設立されたのは1959年6月11日、つまり1959年マン島TT125cc(6月3日)の後。こちらの1950'sを参照。

○「左から田中禎助、鈴木義一、〜河島喜好、谷口尚巳、鈴木淳三〜」は「鈴木淳三、鈴木義一、河島喜好、谷口尚、田中禎助〜」。谷口尚己のサインはこちらで、「己」としている。

58
○「Privato(プライベート)」の文字がMVのエンブレムの横に目立つように書かれて」とあるが、「Privat」の誤り。こちらを参照。

○ホンダ250ccに乗ったのが6人で、その1人がジョン・ハートルのように書いてあるが、ハートルがホンダで250ccGPに出場したのはダッチTT(60年型マシン)、ベルギー、イタリアと思われる。他に谷口尚己、田中禎助、島崎貞夫、ルイジ・タベリ等も1961年型ホンダ250ccで何戦か出場している。

○125ccクラスのホンダライダーにヘイルウッド、高橋、谷口、田中、島崎等が抜けている。

○ヤマハについて「シーズン前半のマン島TT、アッセン〜」とあるが、マン島の前のフランスGPに出場している。

59頁
○500ccのULS/ダンドロッドの箇所で「8戦で7回優勝」とあるが、7戦で6回優勝の誤り。

○125ccのFRA/クレルモン・フェランの箇所でヤマハのライダーとして伊藤史朗のみが掲げられ、他のライダーは無視されている。

61頁
○デグナーとスズキの関係についてはこちらを参照。

65
○「森下勲、ヒュー・アンダーソン、市野三千男、エルンスト・デグナー」とあるが、左から「市野三千、ヒュー・アンダーソン、エルンスト・デグナー、森下勲」。しかもこの写真は1962年ではなく1963年。

67頁
○125ccの箇所で「エルンスト・デグナーが現在デグナーカーブと呼ばれているコーナーでクラッシュして重い火傷を負った」とあるが、1962年全日本選手権レース(鈴鹿)50ccでデグナーが転倒した立体交差前右80Rコーナーがデグナーカーブ。デグナーが火傷を負ったのは1963年日本GP250ccの鈴鹿第2コーナー出口。写真はこちら

71
○250ccのGER/ゾリチュードの箇所で、「ジャコモ・アゴスチーニが、モリーニに乗ってグランプリデビューをした。」とあるが、67頁の250ccのITA/モンツァにも似た文章がある。67頁が正しい。

74頁
○「ヤマハはRA97の125ccエンジンを2機70度Vに組み合わせて、クランクの回転方向を互いに逆向きにした〜」とあるが、RD05の2本のクランクは何れも後方回転。互いに逆向きではない。

○「スズキの水冷125cc、RK66〜」とあるが、「スズキの水冷125cc、RT66」の誤り。そもそも1966年マン島TT125ccの写真を1965年の頁に載せること自体が誤り。

75頁
○250ccのJPN/鈴鹿の箇所で「ヘイルウッドが「プライベート」のホンダに乗って250ccレースに勝った」とある。250cc6気筒がプライベートのマシンらしい。

77頁
○50ccのアンシャイトのマシンがクライドラーになっているが、最終戦日本GPでスズキに乗り4位入賞している。クライドラーはスペインGPを最後に撤退。

○アゴスチーニの記事の最後で「最初はヘイルウッドとホンダ6気筒との壮絶な争い」とある。1966年、1967年の350ccクラスはホンダの圧勝であり、「壮絶な争い」は500ccクラスを指すのではないか。ホンダ500ccは4気筒である。

78頁
○「ヘイルウッドとレッドマンは250ccクラスと350ccクラスにも参戦して6気筒に乗り〜」とあるが、350ccクラスのマシンは4気筒。

○「125ccクラスではシーズンの後半に水冷のV4でホンダの5気筒に対抗した」とあるが、ヤマハ水冷V4のRA31はアルスターとマン島のプラクティスを走ったのみ。レースが単なる品評会なら、プラクティスを走るだけでも「対抗」したことになるのだろう。

○「スズキは新しい水冷2気筒のRK66を用意し、次の3年間はこれに乗ったアンシャイトがほぼ無敵の強さを誇った」とあるが、1967年型はRK67で、アンシャイトが1968年に個人出場した時のマシンはRK67U。また、「ほぼ無敵」は1966年のスズキとホンダの接戦を無視している。

79頁
○この写真は1966年ではない。おそらく1967年マン島TT350cc。

82頁
○「ハンス-ゲオルク・アンシャイトは50ccクラスだけに参加し〜」とあるが、アンシャイトは貸与されたスズキRT66で西ドイツ、イタリアの125ccクラスに出場し、何れも2位入賞している。

86頁
○「〜ヤマハの4気筒に乗るアイヴィ」とあるが、87頁写真のマシンは2気筒のヤマハRA97。

87頁
○250ccのITA-NAZ/モンツァの箇所で「タイトルはそれぞれが完走したレースの回数で決められ〜」とあるのは、「タイトルは2人が同時に完走したレースのタイム合計で決められ〜」の誤り。「times」を回数と訳したようだ。

97
「1970年シーズンからテクニカルレギュレーションの大幅な変更を行うことを決めた。〜50ccが単気筒、125ccと250ccは2気筒、350ccと500ccは4気筒〜」とあるが、50ccは1969年から、125cc、250ccは1970年から、350cc、500ccは1974年からレギュレーションが変更された。

98頁
○「ザクセンリンクのガードレール〜」とあるが、これは東ドイツGPではなくオーストリアGP。

102頁
○1972年の頁にサーリネンの写真があるが、この写真は1971年スペインGP250ccのもの。

○「デルビはレースをやめ、次に戻ってきたのは1984年に〜」とあるが、1974年にニエトが125ccデルビ2気筒を走らせランキング3位になっている。

109頁
○サーリネンについて「1965年からGPに参戦する前はフィンランドのアイスレースのチャンピオンだった」とあるが、1965年はサーリネンがフィンランドのアイスレースのチャンピオンになった年。サーリネンの世界GP初参戦は1968年フィンランドGP125cc。

114頁
この写真は1975年スパ(ベルギーGP)ではなく、1974年スパ(ベルギーGP)。

○ヤマハ500ccが「OW26」になっているが、OW26(0W26)は400ccモトクロッサー(ヤマハのサイト参照)。'75YZR500=0W26説はYamaha−All Factory and Production Racing Two Strokes by Colin Mackellar, The Crowood Press 1995が広めた誤りのように思う。

129頁
○ロバーツについて「1973年のオンタリオでヤーノ・サーリネンを観察」とあるが、1972年の誤り。

130頁
写真説明が134頁のものになってしまっている。

○0W45に乗ったライダーにサロン、高井がいたことが忘れられている。

137頁
○最後の2行は13頁の最後の2行と同じ文。

138頁
○「プライベーターにはTZ500のモデルJもあり」とあるが、TZ500Jは1982年型で、1981年型はTZ500H。

○「3位を2回獲得したオランダのファン・デルメンだった」とあるが、「2位を2回」の誤り。

○スズキについて「〜オランダのチームもウィル・ハルトフを乗せ続けた。マシンはすべて〜XR35だった」とあるが、ハルトフのマシンは1980年型のXR34M。ハルトフがシーズン序盤で引退するとこのマシンがフランコ・ウンチーニに与えられた。

142頁
上の写真説明が10頁のものになっている。

146頁
○上の写真説明が「スウェーデンでの土壇場〜」になっているが、写真はスペインGP。

151頁
○写真は1984年のものではなく、1986年西ドイツGP。

162頁
1987年のスズキ500ccがXR75になっているが、XR72の誤り。 

163頁
250ccのJPN/鈴鹿で「〜カルロス・ラヴァドはシーズン前のクラッシュによるけがでスタートできなかった」とあるが「〜プラクティスでのクラッシュによるけが〜」の誤り。  

167頁
○250ccのUSA/ラグナセカで「清水雅博」とあるが、「清水雅」の誤り。   

173頁
○「〜1991年、ローソンはイタリアのメーカーに初優勝をもたらしたのである」とあるが、1992年の誤り。

185頁
1992年のNSR500について「65〜70度前後」とあるが、2005年にホンダが68度と明らかにしている

○「トルクのふらつき」の「ふらつき」はfluctuationを訳したようだが、 周期的な変化なので「変動」と訳すべき。「トルク変動」、「fluctuation」で検索することをお勧めする。

186頁
この写真は1993年のものではなく、1992年(おそらくイギリスGP)。

222頁
ヤマハのMOTO-GPマシンの名称がYZF-Mになっている。

 
 これだけの頁数がありながら、私が間違い等にこれだけしか気が付かないというのは、近年では稀に見る出来栄えの本といっていいだろう。また、この本は世界GPの歴史を概略把握するのに非常に適しており、レースファンにとって必読書となるだろう。

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