デグナーがスズキにもたらしたもの

 エルンスト・デグナー(東ドイツ)は東ドイツのMZチームのエースとして活躍していたが、1961年スエーデンGP直後に西ドイツに亡命(9月17日)、スズキチームに加わった(11月1日来日)。1961年、スズキのレーサーはトラブル続きだったが、スズキは1962年50ccクラスのタイトルを手にした。

  このようなことから、イギリスの本に書かれるデグナーとスズキの関係は、「デグナーがMZの秘密をスズキに持ち込み、その結果スズキが勝てるようなった」というようなものである。サイクルサウンズ誌2003-2の記事にも、「デグナーがスズキの50cc、125cc、250ccマシンを設計した」ように書かれている。また、最近では、THE BIGGEST SPY SCANDAL IN MOTORSPORT HISTORY (by Mat Oxley, Haynes2009)が、「デグナーがMZの秘密をスズキに持ち込み、その結果、スズキが勝てるようなった」説を唱えている。

 ところが、Oxleyの書にはスズキの元技術者・中野氏のhttp://www.iom1960.com/が参考文献に挙げられているも関わらず、デグナーが1962年11月1日に来日する前、既に(本ではデグナーの発案とされる)125cc単気筒RT62、50cc単気筒RMが存在しており、デグナーがこれらのエンジンのレイアウト検討、設計に関与することが困難だったことを無視されている。
 右は1961年東京モーターショー(10月25日〜11月7日)で展示されたRT62。

 そして

○当時の誰も、MZの排気管を見て何とも思わなかったのだろうか? 

○なぜ1962年型50ccのRM62はシーズン当初は遅く、マン島で改良型エンジンが送られてから速くなったのだろうか?  改良型エンジン、排気管は誰が設計、製作したのだろうか? デグナーがヨーロッパにいて改良型排気管の設計・製作を行ったとでもいうのだろうか?  

○ヤマハはなぜ早くなったのだろうか? スズキが「デグナーが持ち込んだ秘密」をヤマハに伝えたとでもいうのだろうか?

 このように見ていくと、彼ら「ジャーナリスト」が

●日本語に疎い

●論理的思考に弱い

という致命的な弱点を有していることが、冒頭のようなデグナー論に繋がっているように思える。

 一方の当事者であるスズキの技術者だった中野広之氏の「日本モーターサイクルレースの夜明け」によると、デグナーがスズキに影響を与えた事柄は次のとおりである。

(1)後方排気 RT62は前方排気で設計されたがデグナー用に後方排気に
62シーズン終盤には全て後方排気になり、63年型50cc、125cc2気筒も後方排気で設計
(2)INAベアリング RT62クランク大端部ベアリングに西ドイツのINA製を使用(トラブルが多発により、1962年終盤に日本製に変更)
(3)鍛造ピストン 西ドイツのマーレ製を採用(後に住友金属製に変更)
(4)鋳鉄スリーブシリンダー アルミ+クロムメッキシリンダーから鋳物スリ−ブをアルミに圧入したシリンダ−に変更

 (1)は外観から誰でも分ることであり、(2)以下はMZエンジンの概要に過ぎない。ホンダのメカニックがヤマハのレーサーのエンジンを分解してその内容をホンダのエンジニアに伝えたようなものである。

 ところで、富士重工業の航空機技術者だった鳥養鶴雄氏が、著書「大空への挑戦・プロペラ機編」(2002グランプリ出版)で、ライト兄弟のパテント論争について次のように書いている。

 「ライト兄弟によって、人類の長い夢だった、大空を自由に飛ぶということが、20世紀の工業技術を駆使すれば可能だ、ということが証明された。〜不可能かもしれないことに挑戦し、答えをさぐることは非常な努力・エネルギーがいる。可能を証明するためには果てしない努力がくり返されなければならないからだ。答えが無ければ、すべてが徒労に帰する。だが、いったん可能だということが判れば、工業技術は堰を切ったように急速に展開する、という典型的な例ともいえる。

 「第一は、この項のはじめに述べたように(上の文)、工業技術の成果は、先駆者が考えるより、はるかに容易に後続者に追いつかれる、ということに気付くのが遅れたことだ。「真似をした」と非難するのは容易だが、真似だと証明することは非常に難しい。先駆者はパテントに拘らず、将来を見据えて、次々と技術開発を展開し、後続者に対し、常に優位を保っていかなければならない。その努力を怠れば、たちまちのうちに、追いつかれ、追い抜かれる。

 1957年まで、4ストロークの方が2ストロークより早いのが常識で、戦後のGPで2ストロークレーサーが勝ったのは1952年250ccドイツGPにおける1回のみ(DKW)に過ぎなかった。しかし、1958年250ccクラスでMZが初勝利を挙げ、1959年にさらに勝ち星を追加するようになり、他の2ストロークの開発者に対してその優位性を示す結果となった。そして、その方向性を追求するスズキ、ヤマハが現れると、MZは「たちまちのうちに、追いつかれ、追い抜かれる」ことになったのである。

 2ストロークの可能性を証明したMZの功績が大きいのはいうまでもない。そして、ライバルはMZの真似をするだけではMZを超えることはできないのである。後に続いたスズキ、ヤマハの功績について「MZの秘密を盗んだ」とすることは工業技術の進歩がどのようなものかを理解していない者、そして前述のように論理的思考ができない者の戯言でしかない。

 私が考えるデグナーのスズキにおける最大の功績は、彼が2ストロークレーシングエンジンの部品仕上げ、組立、整備のノウハウ、2ストロークレーサーのライディングのノウハウを持っていたことである。後者についていうなら、それまではスズキのエンジンにトラブルがあっても、ライダーが一級の2ストロークレーサーに乗った経験がないためなのか、マシンが悪いのか判別できない事もあっただろうが、デグナーが乗ってトラブルを起こせばマシンが悪いという判断がしやすくなっただろう。そして1962年時点では2ストロークエンジンの扱いではデグナーがスズキライダーの中でトップだった。しかし、チームメイト達も彼の後ろについて走ることで2ストロークレーサーの扱いを学ぶと、彼の絶対的な優位も消えていったのである。

参考1

 当時の2ストロークレーシングエンジンの排気管形状を見てみる。膨張室中央部より前は見えないことが多いので、特に膨張室中央から後方部分に注目して欲しい。

MZ
 
1959年型250cc2気筒(イタリアGP) 1961年型250cc(東ドイツGP)   1964年型250cc(USGP)
EMC スズキ
1961年型125cc単気筒(スペインGP)
(排気管が割れている)
1962年型50cc単気筒(RM62) 1963年型250cc4気筒(RZ63-U)

 1959年のMZの排気管は、膨張室の太い部分が長く、後方で急角度に窄まっている。1961年型では窄まる角度は弱まっているが、テールパイプ直前で窄まりが大きくなるのは同じ。1961年、2ストロークではMZに次ぐ早さを見せていたEMCも似た形状である。

 一方、1962年型スズキ50cc単気筒RM62では、膨張室の太い部分は短く、中央部より後方の窄まりはなだらかで、テールパイプは長い。MZとスズキの排気管のどちらが、その後の2ストロークレーサーの排気管の形状に近いだろうか。

参考2

 以下は「世界二輪グランプリレースに出場したホンダレース用エンジンの開発史」(八木静夫、HONDA R&D Technical Review 1994)の記述である。ホンダが当時、モンディアル125ccレーサーを入手しテストしたことはよく知られているが、ホンダが「モンディアルのまねをした」と言われないのは、モンディアルが単気筒2バルブなのに対してホンダが2気筒4バルブになったからだろう。ジャーナリストにもこの程度の違いは分るようだ。

RC140 1958年、本格的なTTレース出場を目指した125ccエンジンの開発に当り、過去のレース記録の調査から120km/h以上のスピードを要求され、そのためには少なくとも17PS(136PS/L)以上は必要と判断し、目標出力を20PS(160PS/L)と定め4月にRC140(φ45.0×39.0×2)の設計に入った。〜その当時、我々は幸運にもイタリアの市販レーサであるモンディアル125ccを入手することが出来、急遽その性能解析を行った。最高出力は16.5PS(132PS/L)/11500rpmで、排気系のディフューザ効果など学ぶべきことが多くあった

RC141 RC141の試作およびモンディアルの解析により本田社長および担当者から次々と新しいアイデアが出され、10月には改良モデルRC141(φ44.0×41.0×2)のレイアウトに入った〜

参考3

 デグナーは1961年スエーデンGP直後に西ドイツに亡命の後、1962年シーズンまでに2回来日している。1回目は1961年11月1日来日〜11月15日離日。2回目は12月下旬来日(われらがスズキモーターサイクル(講談社1971)) 〜1962年3月15日離日。

 われらがスズキモーターサイクルに次の記述がある。

スズキとの契約交渉も順調に進み、11月中旬、ひそかに来日したデグナーは来シーズンのスズキとの契約をすませ、12月下旬、再来日。弁天島浜名湖畔にあるコレダ荘に身をおいて、翌62年シーズン用マシンの製作に協力を惜しまなかった。

 ただし、1回目の来日時期「11月中旬」は誤り。

 当時、エンジン設計グループだった櫛谷清氏の談話がオールド・タイマー2022-2に掲載された。

「私たちは、デグナーさんの滞在先に通っていました。」
「’62年のころは、研究第三課でエンジンの設計に携わっていたのは少人数でした。先輩方を見よう見まねで、RM62、RT62、RV62の3種類の図面を同時進行で担当しています。デグナーさんはライダーとしてだけでなく、技術的なことも大変詳しいアドバイザーでもあったんです。私たちは、デグナーさんの滞在先に通っていました。」
「RT62は、それまでのスズキの設計の流れとは異なり、デグナーのアドバイスに基づいて単気筒で設計しました。それまで外国の雑誌なども読んでいましたが、肝心なことはわからなかったので勉強になりましたね」


  櫛谷氏が入社したのは1960年で、既にエンジン設計グループには中野氏、鈴木清一氏がいた。また、デグナーが宿泊したのはコレダ荘だが、平日の日中にデグナーがコレダ荘にいたとは考えにくい。
  なお、「デグナーのアドバイスに基づいて」は櫛谷氏の記憶違いだろう。中野氏によると1961年4中旬に概略設計に着手し、RT62プロトタイプであるRT62Xエンジンが出図されたのは1961年5月20日。そして、本文で書いたようにデグナー来日の前にRT62が1962年東京モーターショーに展示された。MZチームのデグナーがスズキに「単気筒化」をアドバイスしたのなら第1戦スペインGPの頃になってしまう。スペインGPに行ったのは松宮氏だけである。1961-世界選手権レ−ス 本文 (iom1960.com)

  また、1962年型50t単気筒RM62に関して、清水正尚氏の次の談話も掲載されている。
「当初、マン島に持っていったエンジンは7.8馬力、1万500回転〜」、「新たに9.3馬力、1万1500回転〜にアップした。」

 これに続いて、ライター氏の次の記述がある。 
「ファンレイホテルの裏庭で〜メカニックたちが、徹夜でデグナー選手のRM62へシリンダー関連まで新設計したエンジンに交換した。伊藤・市野選手車は新設計のマフラーだけが交換され、8.6馬力、1万1500回転」

 デグナー2回目の来日から離日まで2.5箇月前後であるが、この間にデグナーが開発に関与し成果を挙げたのは、エンジン本体に限れば部品仕上げ、組立のノウハウに限られると思われる。シリンダーポート形状等、ロータリーバルブタイミングや排気管諸元等、エンジン出力に直接影響する事項についてアドバイスしたことがあったかもしれないが、それらは直接、成果に結びつかなかった。
 RM62の新設計のシリンダー、排気管が製作されマン島に到着したのは5月28日であり、これらの改良部品の製作にデグナーは関与できなかったのである。
 
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