HONDA MOTORCYCLE RACING LEGEND vol.3
10頁
○「佐藤淳三」
「鈴木淳三」の誤り
13頁
○(1967年の枠に)世界GPから撤退を発表。
1967年シーズン後、1968年になって世界GP撤退を発表。
27頁
〇(125tについて)世界的にも例がなかった。海外で唯一、ドゥカティが125t2気筒を開発したが」
1956年ドイツGPで優勝したジレラ125t2気筒が忘れられている。軽々しく「初」、「唯一」などという言葉を使うものではない。
38頁
○(2RC146の排気量)「124.68cc」
40頁では「124.98」になっている。RC145の排気量数値をそのままコピーしたようだ。
40-41頁
○(4RC146の変速機段数)「7」
80頁の現存する4RC146エンジンの分解写真では8段と分る。
〇(250t 1963 164)「45.6/13,500 2.3//12,500」
45.6PS/13,500rpmであれば、トルクは2.42kgf-mになり、2.3より大きい。
他のマシンの出力等についても疑問はあるが・・・
44頁
〇(左上)「1962年〜50は9戦中1勝と低迷するも」
50は全10戦中9戦に出場、1勝と低迷するも」
〇(左上)「1963年:〜50は2気筒を投入したが、最終戦で僅かに1勝。」
2気筒を投入したのが最終戦なのだが・・・
〇(1962年)「125でもRC145が開催レース10戦全勝・表彰台独占6回という〜」
開催全11戦の内、欠場した最終戦アルゼンチンGP以外の10戦に優勝。
表彰台独占6回の内、1回はマン島TTで3位入賞はCR93に乗るトム・フィリス。
〇(1963年)「50/9戦1勝、125/12戦3勝、250/9戦4勝と」
50ccは全9戦中1戦に出場し1勝、125tは12戦3勝、250tは10戦4勝。
45頁
○(右下写真7)「63年、350ではMVに乗った♯14ヘイルウッドを追うチャンピオンのレッドマン」
この写真は1965年日本GPのもの。
46頁
○(左上)「1965年〜250は勝率2.5割と低迷、」
全13戦中4勝(レッドマン3勝、ヘイルウッド1勝)で、4/13=0.308
〇(左上)「1966年〜250では参戦10レース全勝」
ヘイルウッドに限ればそのとおりだが、ヘイルウッドが欠場したアルスターGPにグレアムがホンダ6気筒で出場している。
○(本文)「1965〜125t4気筒は〜そして多気筒化と、この時期に劇的に進化していた2ストローク」
1965年型のスズキ、ヤマハは2気筒で、スズキは1960年から(1962年を除き)、ヤマハは1964年から2気筒。1965年に多気筒化した訳ではない。
〇(本文)「1965〜250でも苦戦は続いた〜理由はマシン性能ではなく、シーズン後半にレッドマンが欠場したことだった。」
第1戦USをホンダは欠場、第2戦ドイツは(350tレースでのレッドマンの転倒負傷により)欠場、第3戦スペインGPはプラクティスを走るもののマシンに問題を抱えたのか(公式には第2戦の負傷のため)レースを欠場、この間にフィル・リード(ヤマハ)が3連勝、というように序盤戦を欠場したことが大きな敗因。
〇(本文左下)「また、125に5気筒をデビューさせ、優勝を逃したものの、翌年への手応えを掴んだ。その同じ日、F1のメキシコGPではホンダF1が初優勝している」
1965年日本GP決勝は土日に分けて行われ、125t、350tは土曜日に行われた。つまり「その同じ日」ではない。
〇(本文)「1966〜500でレッドマンが重傷を負ったこともあり、中盤からはヘイルウッドが3クラスを走る」
レッドマンが負傷するベルギーGPの前、オランダGPでヘイルウッドが500tクラスを含む3クラス出場している。
47頁
○(写真3)「'66年東ドイツGP125の表彰台」
この写真はアルスターGP125t。東ドイツGP125tの順位は、タベリ、片山、アイビー。
59頁
○(写真説明)「その後追い上げてきたH.G.アンシャイト(スズキ)は首位に立つが最終周転倒リタイア」
H.アンダーソンの誤り。なお、アンシャイトは4位入賞している。
75頁
〇「〜1963年度〜RC145の勝利はタベリの2勝に留まったが、2勝目のイタリアGPは〜」
レッドマンがアルゼンチンGPで優勝しているので44頁の「3勝」が正解。
76頁
○「なお、後に明かされたスズキRT63の最高出力は、25.5ps/11000rpmであった」
「25.5ps/12000rpm」の誤り。元スズキの技術者・中野広之氏のサイト参照。
〇(RC146について)「22ps/16,000rpmにとどまり、これは2気筒のRC145にも及ばない数値」
RC145の数値(40、74頁)は22ps/14,000rpmなので、RC146と同じ出力。
78頁
○「結局1965年シーズン途中から2RC146を改良した4RC146が制作された」
「1965年シーズン途中に製作された」ではなく「1965年シーズン途中から製作された」では、1965年シーズン途中に製作開始と読めてしまう。4RC146は1965年6月に開催されたマン島TTに出場している。
88頁
○(谷口尚己について)「1967年 シンガポールGP350cc優勝(カワサキ)を機に引退。
1967年シンガポールGPは3月に開催されたが、谷口は10月の日本GP125ccにカワサキKR2(2気筒)で出場。レースではエンジンがかからずリタイア。
98頁
○「10勝したレースの内、9つのレースでRC162を駆ったライダーが表彰台を独占したが」
8つのレースの誤り。フランスGPでは1-3位だったが、2位のヘイルウッドのマシンはRC161。ヘイルウッドにRC162が与えられたのは次戦のマン島TT。
109頁
○(写真3)「第8戦チェコスロバキアGP」
写真1、2に1966年、写真4、5の1967年という説明があり、写真3には〇年と書かれていないが、これは1967年。
114頁
○「1960年アルスターGP250t6位 ランキング125t11位」
5位、10位の誤り。ランキング10位には4人いる。
〇「1961年〜西ドイツGP125t6位〜」
こちらを参照。
115頁
○「1961年7月24日 西ドイツGP 250tクラス決勝」
5月14日の誤り。7月24日は前年の西ドイツGP開催日。
〇(写真説明)「〜♯111プロビーニ、♯143デグナーを従えてトップを走る」
♯111はホッキング(MV)、♯143はプロビーニ(モリーニ)の誤り。ライター氏がマシン、ライダーのそれぞれの区別がついていないことがよく分る。
127頁
○「初陣の西ドイツGPからアルスターGPまでの8戦中で6勝を挙げ〜ホンダに4度目のメーカータイトルをプレゼント」」
「7戦中」、「5度目」の誤り。
〇「そして残るマン島TT、イタリアGPの2戦は〜出場を取り止めることとなった」
「残るマン島、イタリアGP、日本GPのうち、マン島には出場しリタイア、イタリアGPは欠場、日本GPはホンダチームとしてボイコット。」が正解。
129頁
○「左チェンジにコンバージョンすることは不可能だった。右チェンジのみという設計だった後期RCレーサーからは、今後日本人ライダーを起用する意思が、ホンダになかったことがうかがわれる」
そもそも、このマシンのエンジンは本来、左チェンジの「日本人仕様」。つまり、日本人仕様で作られたマシンとは別に、そのエンジンを外国人仕様の車体(フレームのリアアームピボット部付近をチェンジシャフトが貫通し右シフトに変更)に搭載したマシンを製作し、現地に送っただけのこと。レッドマン、ヘイルウッドのマシン が日本人・外国人両用仕様だったとしても、現地に飛んだ日本人がそのマシンに乗れるとは思えない。別に日本人用のマシンを現地に送るはずである。
131頁
○(写真中左)「1967年東ドイツGPで優勝したM.ヘイルウッドと〜」
1967年西ドイツGPの誤り。
137頁
○(写真中)「MV3気筒のG.アゴスチーニはT.T.コース初の21分台(平均173.4km/h)をマークし」
「初の20分台(174.4km/h)」の誤り。ライター氏は、ヘイルウッドが297tホンダ6気筒に乗り記録した21分0秒8(173.4km/h)を、アゴスチーニが500tで記録したタイムと勘違いしたのだろうか。 ヘイルウッドは250tクラスでも21分台を記録しているのだが・・・
あるいは、
・ライター氏はアゴスチーニが1周目に記録した「20分53秒2」を「21分台」と表記すべきと考えた
・平均時速の出典のマイル表示をkmに換算するとき、1マイル=1.609344qではなく、1マイル=1.600kmとした
のだろうか。
163頁
○「(写真30)’62年ホンダスピードクラブの〜」
写っているマシンは1961年型RC144。
166頁
当時のGPの決勝は何日かに分けて行われることがあった。マン島はその典型だが、例えば1965年であればマン島以外でも、US、ドイツ、東ドイツ、日本が2日に分けて行われた。しかし、166頁以下の記録では、このことが全く無視されており、マン島ですら、全クラス同一日に行われたことになっている。
また、レースの名称がSpanish、French、Dutchと形容詞+GPとなっているものと、WEST GERMANY、FINLANDと名詞+GPになっているものがある。このような特徴からすると、MOTO-GP公式サイト中の http://www.motogp.com/en/Results+Statistics のデータをそのまま流用したようだ。
また、鈴鹿サーキットの全長が6.004qではなく、6.04q、1967年に用いられた富士ショートコースの全長が4.359qではなく6qになっている。
そんな訳で、この記録表は使えない。