601(KR250/KR350)  kawasaki

 2ストローク・タンデム2気筒エンジンのカワサキKR250/KR350(機種記号601)は1978〜1982年に8回の個人タイトル、8回のメーカータイトルを手にした。KR250/KR350はファクトリーマシンであり一般市販されなかったが、KR250開発開始当初は市販レーサーとなるはずだった。

1 1975年 

 (1) 実戦登場まで

 カワサキが250tレースへの復帰の検討を開始したのは1973年で、1973年11月頃にはタンデム2気筒とすることが決まっていた。おそらくKR750(750t水冷並列3気筒)の設計を優先したためだろう、KR250の設計開始は1974年2月頃にずれ込んだ。

 カワサキの吉田和人は次のように語っていた(別冊モーターサイクリスト1984-6)。

「会社から本格的なレーサーを造らないかという話があったのは’73年〜実際設計に入ったのは’74年でそろそろ梅もほころぶ、というころでした」

「初めはパラレル2の3孔式(リードバルブ)で行こうとしたんですが、これは会社からダメを出されまして、せっかく培ったロータリーで行こうとなり、レイアウトはいろいろ考えました。クランク1本のV2、2本で前方向きで2段に重ねたものなのですが、ウォーターポンプ、あるいはジェネレーターなど補器のレイアウトを考えるといずれも決め手に欠けたんです。本当のことをいうと、タンデムツインのレイアウトは、寝ていてふとんの中で考えついたんです〜」

 また、KMC(川崎重工業のアメリカ現地法人)のランディ・ホール(KMCレーシングチーム監督・チーフエンジニア)は、サンタアナ(カリフォルニア)での打合せ(※1973年11〜12月)で、アメリカでは変速機が6段に制限されていないことから250tレーサーには7段変速も用意してほしいことを要望したとしており(LEAN, MEAN AND LIME GREEN PART ONE by Randy Hall, BRG MULTIMEDIA 2020、以下「Hallbook」)、カワサキが1973年に250tレース復帰の検討開始したことを裏付けている。

※原文では「towards the end of 1973」、「late 1973」。Hallは10月上旬前後に日本訪問していたので、11〜12月頃と推定。

 また、1975年に登場したKR250について、ホールは「The finished engine was very close to that which had been outlined to me in late 1973」(Hallbook)と語っており、1973年11-12月頃にはタンデム2気筒レイアウトとすることが決定していたことが分る。

 これは1980-81年型KR250(エンジン番号TE601-106)のロアークランクケースとクランクシャフト。前後気筒が左右にずれている(16mm)がこれはエンジン左側(写真では下側)のロータリーディスクバルブの重なりを避けるため。クランクシャフトのメインベアリングは各クランクに3つ装着され、右側2つのベアリングの間に各クランク連結ギアがある。前クランクシャフトは後方回転、後クランクシャフトは前方回転。
 

 さて、アメリカでのレースに出場するためには、完成車が200台以上生産されたことが公認されなければならない。カワサキはKR750の開発も進めており、1975年の開幕戦、デイトナまでにKR750、KR250を200台以上生産し、アメリカに送る必要があった。これは当時のカワサキとって大事業だった。
 ところが、1975年10月、この「200台」が「25台」に切り下げられることが決定され、これによりKR250、KR750の1975年シーズン投入が確実になった。

  1975年型KR250の機種記号は601A及び601Bで、当時、カワサキの技術者だった平松絹男は次のように書いていた(KR250のタンク形状、余分な事しやがって - cowboy−平松の部屋 (goo.ne.jp)(リンク切れ))。

 「KR250の開発No、は601です。私がカワサキに移籍(1974年9月)した時はUSA仕様の601Aが存在したようで、一寸奇妙なBIKEでした。AMAはミッション段数の制限がないので7速、スイングアームはH1Rと共通(可笑しいでしょう)でフロントフォークはダウンストール製(注:ダンストール(Dunstall))でキャリパーと一体でピストンシールはOーリングの加圧式(理解できない)だそうでした。」
「1975年のデイトナデビューのKR750のフレーム出図に専念した 為、601Aには手を付けられませんでした、でもデイトナに出張前にコンパクトに再設計にした601Bのフレーム、スイングアームを出図し後のマトメはお願いし、デイトナに阿部のメカ役で出張しました。本デイトナのレース場に届いた601Bはフレーム、スイングアームの単品のみでした。現地で仕立てられないので、断念しました。」

  これは1975年2〜3月上旬に雑誌等に提供された601Aの写真。
 

 そして、川崎重工業明石工場内直線テストコースの北側で撮影された601B。一連の写真が1975年4月1日発売の雑誌に掲載されたので、この写真は1975年2月前後に撮影されたものと思われ、上の平松の記事と符合する。
 https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/06/th_K_07-KR250.jpg

 フレームの各ハイプの位置関係、ダウンチューブ上部(シリンダーヘッドの前)の補強プレートの有無等が異なるので、全く別のフレームと分る。スイングアームも異なる(角パイプか丸パイプか。 前ブレーキキャリパーが前フォークボトムケースと一体だが、ダンストール製かどうかは不明。601Aでは右フォーク、601Bでは左フォークにブレーキキャリパーがある。
 エンジン後部にフレーム装着部が左右それぞれ2つあり、601Aでは上側の装着部はブラケットを介してフレームに装着されるが、601Bでは上側装着部は使用されていない。他に排気管の取り回し、前フェンダーも異なる。前ディスクローターはアルミ製でパッド接触面にコーティングしたものようだ。
 601Aでは後排気管が車体左に出ているが、601Bでは車体右側に出ている。また、排気管の膨張部は601Bが明らかに太い。

 下左・下右は601Bで  シリンダーヘッド左側・中央にサーモスタットハウジングがあり、前側に細いバイパスホースがラジエーター下部に伸びている。サーモスタットハウジング後部にはブルドン式水温計の検温部が装着されている。 キャブレターはミクニVM32と公表された。
  
 水ポンプ、回転計ケーブルはエンジン右側で後クランクシャフトにより駆動される。

 CDIローターは前クランクシャフトにより作動されるが、下左(上右を拡大)で180度間隔点火であることが分る。

  当初、クランクケースはマグネシウム合金製だったが、アルミ合金製に変更された。
 変速機は6段又は7段があり、7段変速は前述のように1973年11〜12月頃、KMCのランディ・ホールからアメリカでのレース用として提案があったもの。

(2) AMAでのレース

 601Aが25台がアメリカに送られ公認を受けた。さらに601Bのフレーム、スイングアームも送られたが、使用されなかった。

 第1戦デイトナ、プラクティスでエンジンの激しい前後振動によるフレーム折損、出力不足の問題を生じた。出力不足、振動によるキャブレターセッティングの狂い、水温上昇、変速機の出力損失(結果的に油温上昇)が主な要因と思われる。水温については、急遽、明石から送られた対策型水ポンプインペラーにより若干は低下したが、十分ではなかった。また、変速機損失・油温対策として、変速機のオイル量を減らされた(Hallbook)。

 これはデイトナでのKR250(601A)で、エンジン後部上側のフレーム装着部は使用されていないが、振動対策だろうか? 前ブレーキキャリパーは左フォークと一体、後クッションユニットはマルホランド。前ディスクローターは上の601のものと同型のようだ(写真省略)。
http://www.appeldephare.com/more/motos/fmotos/kawa010.gif

 KR250を与えられたのは、イボン・デュハメル(フランス系カナダ人、デュアメル)、パット・エバンスだが、エバンスがプラクティスで転倒(KR750、KR250のどちらに乗車していたかは不明)、ロン・ピアスがエバンスの代わりにレースに出場することになった。

 レース(3月8日)では、デュハメル(リンク)が序盤でリタイア、ピアスは1周遅れながら完走して13位。優勝はケニー・ロバーツ(ヤマハ)、2位はゲーリー・スコット(ハーレーダビッドソン)、3位はスチーブ・ベーカー(ヤマハ)。

 次戦のラグナセカに向け、排気管の改良を行われたが、最高回転数の上昇に伴って振動が激しくなったことによる前排気管の割れの対策等が必要になった。
 また、高水温対策としてKR750ラジエーターをテストしたが大きな効果はなかった。水ポンプ駆動ギア変更によりポンプ送水量を増加させたことで大きな効果が得られた(Hallbook)。
 「従来型ラジエーター+ポンプ水量増加」で効果があったのか、「KR750ラジエーター+ポンプ水量増加」で効果があったのかは不明。

 ラグナセカ(8月2日)ではデュアメル、ピアスがロバーツ、ベーカーと首位争いを繰り広げたが、前ブレーキのフェードにより遅れ、1位ロバーツ、2位ベーカー、3位デュハメル、4位ピアス。

 オンタリオ(10月4日)では、前ブレーキのフェード対策として、フォークボトムケース一体型キャリパーを止め、通常型の前フォークとKR750のブレーキキャリパー、大径ディスクが装着された。また、後シリンダーの排気管の熱さ対策だろうか、後排気管を180度曲げ、シリンダー右横、シリンダー前を通し、左フェアリングのゼッケン部に排気管の後端を出すようにしたものも持ち込まれ(下写真、以下「アルファ型」)、デュハメルがレースで用いた(下右)。ピアス、和田のマシンの排気管については不明。

 デュハメル、ミック・グラント、和田正宏が出場、本レース前のヒートレース1では、和田、ヒートレース2ではデュハメルが1位となり、本レースに期待を抱かせた。
 本レースで和田は点火コイル断線、デュハメルは機械的な故障でリタイアしたが、グラントがベーカー、片山敬済に続いて3位となった

 このようにアメリカでは、KR250は勝利まで後一歩という状況までになった。

 ホールによると、KR250は当初、約44HPだったが、この頃には約52HPになっていた(Hallbook)。一方、カワサキの吉田和人はデイトナ当時は後輪で51PSと語っていた(別冊モーターサイクリスト1984-6)。ホールも吉田も正しいとするなら、ホールの44HPは完成車をタイヤローラー動力計で測定したもの、吉田の51PSは後車軸(チェーンを動力計に掛けて測定)だろう。なお、後車軸51PSは変速機出力シャフトで55〜56PS)になる。

(3) 世界GP

 イギリスの現地法人KMUKのボイヤー・チーム・カワサキにKR250が託されたが、世界GP参戦は遅れ、第6戦マン島TT(250t第5戦、6月6日)が初戦となった。ミック・グラント(おそらく601B)が出場し、1周目にオーバーヒートでリタイア。

 250t第6戦オランダGP(アッセン、6月28日)には、デュハメル、グラントが出場し、デュハメル(リンク)が5位、グラントはブレーキトラブルでリタイア。

 250t第7戦ベルギー(スパフランコルシャン、7月6日)、デュハメルはマシントラブルでプラクティスを通過できず、グラントはレースでエンジン故障でリタイア。

  スパフランコルシャンは1975年250tレースの最速ラップが203.1km/h(ジョニー・セコット、ヤマハYZR250(0W17))という高速コースであり、高回転を長時間維持したことがKR250の振動問題をさらに大きくしたのだろう。
 
 250t第8戦以降は欠場。

2  1976年 

 KMCはアメリカでのモトクロス人気の高まり、一般市販車への排ガス規制強化により2ストローク一般市販車の未来が暗くなったこと、そしてモトクロス人気の高まりにより、1976年はモトクロスの予算を増やし、ロードレース活動は縮小、KMCのチームライダーはデュハメルのみとなった。
 そしてKMCサポートライダーとしてゲーリー・ニクソン、ロン・ピアスがカワサキに乗ることになった。なお、ニクソンは1973年まではKMCでカワサキに乗っていたが、1974年シーズンはスズキに移籍、1975シーズン前のテストで重傷を負い、その復帰場所がカワサキになったもの。
 また、カワサキ・オーストラリアからグレッグ・ハンスフォードがKMCのサポートも受けアメリカのレースに参戦した。
  他にもKR250に乗ったライダーがいたが、KMCが貸与したのか、KMCが販売したのかは不明。

 ヨーロッパでの活動拠点ボイヤー・チーム・カワサキでは世界GPへの参戦を基本的に取りやめた。監督の鈴木健夫によるとイギリス国内のレースでは走らせたが成績を残すことはできなった(ライダースクラブ1983-11)。イギリス国内の主要な250tレースのリザルト(MOTORCOURSE1976-77)でもKAWASAKIは見当たらない。

 デイトナ
、デュハメルは冬のスノーモービルレースでの事故で追った骨折からの回復が十分ではないので、KR750での200マイル(3月7日)出場を優先して250tレースは欠場。これは(リンク)デイトナで撮影されたとされる写真で、No9のニクソンのKR250(601A)のアルファ型排気管後端(左ゼッケン部)に、(AMAロードレースで騒音規制が始まったため)サイレンサーが装着されている。また、新型ラジエーターにより水温の問題は解決された(Hallbook)。
 また、1975年シーズン後、KMCでは後サスペンションのクッションユニットを1本にしたものを製作、フレーム左後部を少し補強し、モンローのクッションユニットを左スイングアームに装着したもの(Hallbook)だが、このNo9は左クッションユニットだけでなく、右クッションユニットの赤いスプリングが見えるので、モノショックではない。
現存するモノショックの1976年型KR250(61E030/61F0108)(リンク)は601Aをベースにしたもので、クッションユニットはHallbookとは異なりスイングアーム右側に装着されており、スイングアームに補強が入れられている。車体左側に出る後排気管は曲げられたリアアッパーパイプ(スイングアームピボット部とシートレールを結ぶパイプ)の内側を通り真っすぐ後に伸びており、モノショック化は後排気管をなるべく車体中央に寄せてライディングの邪魔にならないようにすることが目的だったと思われる。

 本レース前のヒートレース1ではベーカー(ヤマハ)が1位だったが、ヒートレース2ではピアスが1位で、2ヒート通じての最速ラップも記録した。
 本レース(3月6日)ではニクソンが3周でリタイア、ハンスフォードも10周でリタイア、ピアスはトップグループの中で4位を走っていたが、20周目※に転倒しリタイア。

 アラン・エンジェル、スチーブ・シェーファーもKR250に乗ったがリタイア。

※Hallbookでは「on lap 19」だが、レース記録では19ラップしたことになっているので、「20周目に転倒」とした。

 鈴鹿2&4(3月7日)、和田、清原、阿部孝夫がKR750でエントリーしたが、清原のみがKR250(601B)で出場。予選は2分31.9秒で7位、ポールは浅見貞夫(1976年型TZ350)。
 レースで清原はKR250に跨ったまま押し掛けしスタートよく飛び出すが、すぐピットイン、リタイア(電気系の故障?)。
 下左、下中は清原の601Bで、後排気管が601Aと同様に車体の左側に出ており、その膨張部は1975年に見られた何れのタイプよりも太く見える。下右は富士スピードウェイで撮影された広報写真で、2&4出場車に酷似している。ただ、スイングアームの太さが若干異なるようにも見える。
 

 マン島TTではグラントがエントリー(ゼッケン9)したが、レース(6月11日)は出場せず。601Aの後排気管はシリンダーから真っすぐ車体右側に伸びており、排気管を通すためフレームパイプは曲がっているが、後クッションユニットは2つ装着されている。8月14-15日のジョン・プレイヤー・ブリティッシュGPの写真に写る601A(リンク)は、下左と同一個体と思わる。
 

 ブライアー(アメリカ、6月18日)ではデュハメルが2位、マルコム・マクファーソンが18位。

 ラグナセカ(アメリカ、7月31日)、ピアスはヒートレース前にフレームのクラックが発見され出場を断念。デュハメルはヒートレースでベーカー(ヤマハ)に次ぐ2位だったが、本レース1周目に転倒・リタイア。ニクソンはタイヤのパンクでリタイア。

 リバーサイド(アメリカ、10月2日)、カワサキから360度点火の新型エンジンが送られ、デュハメルが使用、ニクソンは従来型(180度間隔点火)を使用した(Hallbook)。本レースではデュハメル3位、ニクソンは序盤でリタイア。1位ロバーツ、2位デビッド・エムデ。下はニクソン。

 日本GP(鈴鹿)、E750・E350レースの前日(10月9日・土曜日)のE250・J350・J250混合レース(E:エキスパート(1979年から国際A)、J:ジュニア)に、和田、阿部孝夫、杉本五十洋が新型KR250で出場した。清原は鈴鹿での練習で転倒・負傷したため欠場。
 新型KR250は後サスペンションがロッキングアーム(ユニトラック)の新型フレームに2気筒同時点火エンジンを搭載した601Cである。
 180度間隔点火から360度間隔点火への変更の理由はもちろん振動対策だが、その慣性力の釣合についてはこちらの推測を読まれたい(リンク)。

 この後サスペンションについて元カワサキの平松絹男は次のように回想していた(ロードライダー2010-4)。

「富士のF1でブラバムのフロントリンケージを見たんですね。BT44だったかなあ」、「KE007とゆーF1マシンで富士に参加してたんでボクとアベを手伝いに来いと呼んでくれたんですよ〜〜〜すぐに試作に入りました」

  この「富士のF1」を1976年の富士のF1レース(10月24日)とするなら、日本GPでKR250が走った2週間後であり、平松の回想は明らかに誤り。また、ブラバムBT44 (〜75年型)、BT45(76年型)の前サスペンションはロッキングアームではない。
 おそらく、平松は8月6-8日に富士で行われたコジマKE007(長谷見昌弘)、ティレル007(星野一義)の合同テストに行き、ティレル007の前サスペンションのロッキングアーム(リンク)を見たものと思われる(ティレル007が走ったのは6日と8日)。この合同テストは10月24日のF1レース参加予定の日本チームによるテストであり、ブラバムF1の走行予定はなかった。


 予選は和田、阿部で1、2位だったが、レースはウェットコンディションで、タイヤ選択ミス※でヤマハTZ250の毛利良一が優勝、阿部が2位、和田は12周目に他車の唐突な動きに惑わされ転倒・リタイア、杉本の順位は不明。
 下左は杉本の601Cで、後タイヤはグッドイヤーのレイン。下右はレース中の阿部。
 両車とも排気サイレンサーが装着されており、和田のKR250も排気サイレンサー付だったと思われる。国内のMFJのレースで騒音規制が始まったのは1977年だが、世界GPでの騒音規制は1976年第7戦ベルギーGPから、(前述のように)AMAでは1976年シーズンから始まっており、国内レース参加は開発テストの意味もあるので、この時点で排気サイレンサーが装着されたとしても不思議なことではない。

※1976年当時、ダンロップのレーシングタイヤは日本で一般販売されていたが、ミシュラン、グッドイヤーのレーシングタイヤは各メーカーレース部門、一部チーム/販売店が輸入していただけで、その供給数は限られており誰でも使用できるタイヤではなかった。日本GPで毛利はミシュラン、カワサキはグッドイヤーを使用し、その差がウェットレースで表われたが、カワサキはタイヤ選択ミスをしたのではなく、ダンロップ以外に選択できたレイン又はインターミディエイトがグッドイヤーだけだった可能性が高い。

 なお、KR250はオーストラリアでもマレー・セール、グレッグ・ハンスフォードらによりレースに出場しており、10月2-4のオーストラリアでの三連休にヒューム・ウィアで行われたハーヴィー・ウィルトシャー・トロフィーの250tレースでマレー・セールが優勝した。これが全世界で初めてKR250が優勝したレースと思われる。リンク1リンク2

3  1977年 

 1976年オンタリオで登場した2気筒同時点火の新型エンジン、1976年日本GPで登場したユニトラックサスのKR250により、1977年シーズンはカワサキにとって勝負の年となった。カワサキUKからはバリー・ディッチバーンが250cc第2戦ドイツ以降(第1戦ベネズエラは欠場)、ミック・グラントが同第5戦フランス以降出場、日本から清原が同第2〜第5戦、和田が同第6戦ユーゴスラビア〜第8戦ベルギーに出場した。他にジャン・フランソワ・バルデが3戦に、ハンス・シュヴァイガーが1戦のみ出場した。
 ミック・グラントがマン島に出場した際のエントラントは、1975・1976:チーム・ボイヤー・カワサキ、1977:チーム・カワサキ、1978:カワサキ・モータースとなっていたが、ここでは単にカワサキUKとする。

 世界GP参戦前、テストを兼ねて和田、清原がKR250で鈴鹿2&4・E250/350/750・J350/250(3月6日) に出場(和田、清原はE250、ただし得点対象外)。
 3月4日夜に雪(鈴鹿に近い津市で2cm)が降り、5日朝のコースは真白だった。何とか午後の予選(30分)は走行可能になったが、気温は低く(津市の最高気温3.7℃)タイムは低調で、和田が2分28.6秒でポール、2位は毛利(TZ350、2分30.1秒)、3位は清原(2分30.2秒)。

 レースではTZ350に乗る糟野雅治が好スタートを切るが、4周目に和田(下左)が首位に立ち、さらに清原(下右)も2位に上がる。しかし、直線ではTZ350が速く3人による争いが繰り広げられる。遅れていた毛利も7周目には首位争いに加わり、清原はKR250の後排気管の遮熱板が外れ熱さに苦しみ、少し遅れ出す。そして3人による首位争いは終盤まで続くが、18周のレースの優勝は毛利、.0.5秒差で和田が2位、その1秒後に糟野、その3秒後に清原が4位。最速ラップは清原の2分25.5秒(14周目)。

 市販レーサーではあるが排気量が100t大きいTZ350を相手に互角の速さをKR250が示したことにより、世界GPでの活躍が期待されることとなった。なお、当日の津市の最高気温は5.3℃という悪条件でのレースだった。
 

 下左は清原のKR250で、ユニトラックサスペンションがよく見える。1977年からMFJのレースでも騒音規制が始まったので排気サイレンサーが装着されている。ダンロップのステッカーが見えるが、実際に装着されているタイヤはミシュラン。
 下右は和田のKR250。シフトペダルのリンケージの取り回しが清原のマシンと異なる。おそらく清原のマシンは1ダウン-5アップで、和田のマシンは1アップ-5ダウンだろう。前タイヤはミシュランS41・PZ2。

 下左は公式予選前の車両検査時の和田のKR250で、燃料タンク後部にカバーのようなものが装着されているが、ライダーの体型に合わせるためのものか? タイヤはミシュラン。下右も和田のKR250で後タイヤはミシュランS41・PZ2。

 1977年にKR250が国内レースを走ったのはこの2&4のみだった。

 世界GPへの参戦は第3戦(250t第2戦)ドイツGPで始まったが、戦績(順位)は以下のとおり。
  D I E F Y N B S Fin CZ GB 得点(順位)  
グラント       R   1 14 1 2 R R 42(8)  
ディッチバーン 10 3 8 R R 3 11 R 8 R 27(11)
清原 2 R 9 R               14(17)  
和田         R 15 4         8(23)  
バルデ   7 R R※               4(29)  
シュヴァイガー R                     -  

※1975-76年型で出場

 シーズン序盤はマシントラブル等が多く期待された成果が得られなかったが、オランダGPでグラントがKR250に初優勝をもたらした。グラントにとってGP250初優勝である(リンク)。ダンロップのステッカーが貼られていること、前タイヤの形状からタイヤはダンロップと分る。前フォークをステアリングステムを中心にして左右で180度入れ替えたため、ブレーキキャリパーが左フォーク・前側に装着されている。ベルギー、スエーデン、フィンランド、チェコスロバキアでも同様。

 グラントはスエーデンGPで2勝目を挙げたが、終盤2戦はリタイアし、ランキングは8位に留まった。

 清原は初戦となったドイツGP(ホッケンハイム)予選で2分26.9秒でポールポジション、雨上がりのレースでは優勝したクリスチャン・サロン(TZ250)に0.1秒差で2位。
 和田は初戦のユーゴスラビアGPで3位を走っていた最終ラップに転倒・リタイアしたが、負傷にも関わらずオランダGPに出場、ベルギーGPではカワサキ最上位の4位。

 世界GPで走ったKR250は基本的に2&4の時と同じだが、2&4で後排気管遮熱板が外れた対策だろうか、遮熱板が大きくなりテールカウルと同じライムグリーンに塗装された。これはドイツGPでの清原(リンク)で、テールカウルに「T」マークがある。その2(リンク)。

 これはドイツGPでのシュヴァイガーのKR250(リンク)で、遮熱板は旧型。タイヤはミシュランで前・S41、後・スリック。テールカウルに「T」マークがあるKR250があるので、各ライダーに2台のKR250が与えられたようだ。
 タイヤはレース、ライダーによって、ミシュランとダンロップが使い分けられた。

その他の写真
 
ドイツGP 清原(リンク) 前タイヤはミシュランS41    フランスGP 清原(リンク)   ユーゴスラビアGP 和田(リンク)   ベルギーGP グラント(リンク)    

フィンランドGP グラント(リンク) テールカウル裏側に「4」が見えるが、フレーム番号7704の末尾を表すと思われる   

チェコスロバキアGP グラント(リンク) 

フランスGP バルデ(601A) 前ブレーキはダブルディスク、タイヤはミシュラン。

 世界GPには出場したかどうか不明だが、1974年50t世界チャンピオンのヘンク・ファン・ケッセルに601Aが与えられた(リンク)。おそらく1977年シーズンに撮影されたもの。後クッションユニットの取付位置が上部・下部の何れも前に移動している。もちろん、クッションユニット自体も交換されている。後排気管はアルファ型。前タイヤはミシュランS41・PZ4と思われる。

   KMCはアメリカでのロードレース活動を休止したが、カワサキオーストラリアからハンスフォードが1977年型KR250でデイトナに出場、日本からもエンジニアが帯同した。レースではエンジントラブルでリタイア。しかし、ラグナセカ(9月)ではハンスフォードが優勝、これがアメリカでのKR250の初優勝だった

参考 
 下左はイギリスGPで撮影されたグラントのKR250エンジンで、シリンダーにC(○の中に4)と書かれている。これは次の何れかを示す数字と思われる。
○4番目の型のシリンダー
○エンジン番号7704のクランクケースとの組合せを示すもの

 下右はグラント又はディッチバーンのKR250の「新型」シリンダー(レース名不明)。
 

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