601(KR250/KR350)  kawasaki

 2ストローク・タンデム2気筒エンジンのカワサキKR250/KR350(機種記号601)は1978〜1982年に8回の個人タイトル、8回のメーカータイトルを手にした。KR250/KR350はファクトリーマシンであり一般市販されなかったが、KR250開発開始当初は市販レーサーとなるはずだった。

1 1975年 

 (1) 実戦登場まで

 カワサキが250tレースへの復帰の検討を開始したのは1973年で、1973年11月頃にはタンデム2気筒とすることが決まっていた。おそらくKR750(750t水冷並列3気筒)の設計を優先したためだろう、KR250の設計開始は1974年2月頃にずれ込んだ。

 カワサキの吉田和人は次のように語っていた(別冊モーターサイクリスト1984-6)。

「会社から本格的なレーサーを造らないかという話があったのは’73年〜実際設計に入ったのは’74年でそろそろ梅もほころぶ、というころでした」

「初めはパラレル2の3孔式(リードバルブ)で行こうとしたんですが、これは会社からダメを出されまして、せっかく培ったロータリーで行こうとなり、レイアウトはいろいろ考えました。クランク1本のV2、2本で前方向きで2段に重ねたものなのですが、ウォーターポンプ、あるいはジェネレーターなど補器のレイアウトを考えるといずれも決め手に欠けたんです。本当のことをいうと、タンデムツインのレイアウトは、寝ていてふとんの中で考えついたんです〜」

 また、KMC(川崎重工業のアメリカ現地法人)のランディ・ホール(KMCレーシングチーム監督・チーフエンジニア)は、サンタアナ(カリフォルニア)での打合せ(※1973年11〜12月)で、アメリカでは変速機が6段に制限されていないことから250tレーサーには7段変速も用意してほしいことを要望したとしており(LEAN, MEAN AND LIME GREEN PART ONE by Randy Hall,, BRG MULTIMEDIA、以下「Hallbook」)、カワサキが1973年に250tレース復帰の検討開始したことを裏付けている。

※原文では「towards the end of 1973」、「late 1973」。Hallは10月上旬前後に日本訪問していたので、11〜12月頃と推定。

 また、1975年に登場したKR250について、ホールは「The finished engine was very close to that which had been outlined to me in late 1973」(Hallbook)と語っており、1973年11-12月頃にはタンデム2気筒レイアウトとすることが決定していたことが分る。

 これは1980-81年型KR250(エンジン番号TE601-106)のロアークランクケースとクランクシャフト。前後気筒が左右にずれている(16mm)がこれはエンジン左側(写真では下側)のロータリーディスクバルブの重なりを避けるため。クランクシャフトのメインベアリングは各クランクに3つ装着され、右側2つのベアリングの間に各クランク連結ギアがある。前クランクシャフトは後方回転、後クランクシャフトは前方回転。
 

 さて、アメリカでのレースに出場するためには、完成車が200台以上生産されたことが公認されなければならない。カワサキはKR750の開発も進めており、1975年の開幕戦、デイトナまでにKR750、KR250を200台以上生産し、アメリカに送る必要があった。これは当時のカワサキとって大事業だった。
 ところが、1975年10月、この「200台」が「25台」に切り下げられることが決定され、これによりKR250、KR750の1975年シーズン投入が確実になった。

  1975年型KR250の機種記号は601A及び601Bで、当時、カワサキの技術者だった平松絹男は次のように書いていた(KR250のタンク形状、余分な事しやがって - cowboy−平松の部屋 (goo.ne.jp)(リンク切れ))。

 「KR250の開発No、は601です。私がカワサキに移籍(1974年9月)した時はUSA仕様の601Aが存在したようで、一寸奇妙なBIKEでした。AMAはミッション段数の制限がないので7速、スイングアームはH1Rと共通(可笑しいでしょう)でフロントフォークはダウンストール製(注:ダンストール(Dunstall))でキャリパーと一体でピストンシールはOーリングの加圧式(理解できない)だそうでした。」
「1975年のデイトナデビューのKR750のフレーム出図に専念した 為、601Aには手を付けられませんでした、でもデイトナに出張前にコンパクトに再設計にした601Bのフレーム、スイングアームを出図し後のマトメはお願いし、デイトナに阿部のメカ役で出張しました。本デイトナのレース場に届いた601Bはフレーム、スイングアームの単品のみでした。現地で仕立てられないので、断念しました。」

  これは1975年2〜3月上旬に雑誌等に提供された601Aの写真。
 

 そして、川崎重工業明石工場内直線テストコースの北側で撮影された601B。一連の写真が1975年4月1日発売の雑誌に掲載されたので、この写真は1975年2月前後に撮影されたものと思われ、上の平松の記事と符合する。
 https://mc-web.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/06/th_K_07-KR250.jpg

 フレームの各ハイプの位置関係、ダウンチューブ上部(シリンダーヘッドの前)の補強プレートの有無等が異なるので、全く別のフレームと分る。スイングアームも異なる(角パイプか丸パイプか。 前ブレーキキャリパーが前フォークボトムケースと一体だが、ダンストール製かどうかは不明。601Aでは右フォーク、601Bでは左フォークにブレーキキャリパーがある。
 エンジン後部にフレーム装着部が左右それぞれ2つあり、601Aでは上側の装着部はブラケットを介してフレームに装着されるが、601Bでは上側装着部は使用されていない。他に排気管の取り回し、前フェンダーも異なる。前ディスクローターはアルミ製でパッド接触面にコーティングしたものようだ。

 下左・下右は601Bで  シリンダーヘッド左側・中央にサーモスタットハウジングがあり、前側に細いバイパスホースがラジエーター下部に伸びている。サーモスタットハウジング後部にはブルドン式水温計の検温部が装着されている。 キャブレターはミクニVM32と公表された。
  
 水ポンプ、回転計ケーブルはエンジン右側で後クランクシャフトにより駆動される。

 CDIローターは前クランクシャフトにより作動されるが、下左(上右を拡大)で180度間隔点火であることが分る。

  当初、クランクケースはマグネシウム合金製だったが、アルミ合金製に変更された。
 変速機は6段又は7段があり、7段変速は前述のように1973年11〜12月頃、KMCのランディ・ホールからアメリカでのレース用として提案があったもの。

(2) AMAでのレース

 601Aが25台がアメリカに送られ公認を受けた。さらに601Bのフレーム、スイングアームも送られたが、使用されなかった。

 第1戦のデイトナ、プラクティスでエンジンの激しい前後振動によるフレーム折損、出力不足の問題を生じた。出力不足、振動によるキャブレターセッティングの狂い、水温上昇、変速機の出力損失(結果的に油温上昇)が主な要因と思われる。水温については、急遽、明石から送られた対策型水ポンプインペラーにより若干は低下したが、十分ではなかった。また、変速機損失・油温対策として、変速機のオイル量を減らした(Hallbook)。

 これはデイトナでのKR250(601A)で、エンジン後部上側のフレーム装着部は使用されていないが、振動対策だろうか? 前ブレーキキャリパーは左フォークと一体、後クッションユニットはマルホランド。前ディスクローターは上の601のものと同型のようだ(写真省略)。
http://www.appeldephare.com/more/motos/fmotos/kawa010.gif

 KR250を与えられたのは、イボン・デュハメル(フランス系カナダ人、デュアメル)、パット・エバンスだが、エバンスがプラクティスで転倒(KR750、KR250のどちらに乗車していたかは不明)、ロン・ピアスがエバンスの代わりにレースに出場することになった。

 レース(3月8日)では、デュハメルが序盤でリタイア、ピアスは1周遅れながら完走して13位。優勝はケニー・ロバーツ(ヤマハ)、2位はゲーリー・スコット(ハーレーダビッドソン)、3位はスチーブ・ベーカー(ヤマハ)。

 次戦のラグナセカに向け、排気管の改良を行われたが、最高回転数の上昇に伴って振動が激しくなったことによる前排気管の割れの対策等が必要になった。
 また、高水温対策としてKR750ラジエーターをテストしたが大きな効果はなかった。水ポンプ駆動ギア変更によりポンプ送水量を増加させたことで大きな効果が得られた(Hallbook)。
 「従来型ラジエーター+ポンプ水量増加」で効果があったのか、「KR750ラジエーター+ポンプ水量増加」で効果があったのかは不明。

 ラグナセカ(8月2日)ではデュアメル、ピアスがロバーツ、ベーカーと首位争いを繰り広げたが、前ブレーキのフェードにより遅れ、1位ロバーツ、2位ベーカー、3位デュハメル、4位ピアス。

 オンタリオ(10月4日)では、前ブレーキのフェード対策として、フォークボトムケース一体型キャリパーを止め、通常型の前フォークとKR750のブレーキキャリパー、大径ディスクが装着された。また、後シリンダーの排気管の熱さ対策だろうか、排気管を180度曲げ、シリンダー右横、シリンダー前を通し、左フェアリングのゼッケン部に排気管の後端を出すようにしたものも持ち込まれた(下写真)。

 デュハメル、ミック・グラント、和田正宏が出場、本レース前のヒートレース1では、和田、ヒートレース2ではデュハメルが1位となり、本レースに期待を抱かせた。
 本レースで和田は点火コイル断線、デュハメルは機械的な故障でリタイアしたが、グラントがベーカー、片山敬済に続いて3位となった

 このようにアメリカでは、KR250は勝利まで後一歩という状況までになった。

 ホールによると、KR250は当初、約44HPだったが、この頃には約52HPになっていた(Hallbook)。一方、カワサキの吉田和人はデイトナ当時は後輪で51PSと語っていた(別冊モーターサイクリスト1984-6)。ホールも吉田も正しいとするなら、ホールの44HPは完成車をタイヤローラー動力計で測定したもの、吉田の51PSは後車軸(チェーンを動力計に掛けて測定)だろう。なお、後車軸51PSは変速機出力シャフトで55〜56PS)になる。

(3) 世界GP

 イギリスのチーム・ボイヤー・カワサキにKR250が託されたが、世界GP参戦は遅れ、第6戦マン島TT(250t第5戦、6月6日)が初戦となった。ミック・グラント(おそらく601B)が出場し、1周目にオーバーヒートでリタイア。

 250t第6戦オランダGP(アッセン、6月28日)には、グラント、デュハメルが出場し、デュハメル(601B)(リンク)が5位、グラントはブレーキトラブルでリタイア。

 250t第7戦ベルギー(スパフランコルシャン、7月6日)、デュハメルはマシントラブルでプラクティスを通過できず、グラントはレースでエンジン故障でリタイア。

  KR250エンジンには、大きな振動に加え、位相が異なる2本のクランクの連結ギアが破損しやすい弱点があったが、スパフランコルシャンは1975年250tレースの最速ラップが203.1km/h(ジョニー・セコット、ヤマハYZR250(0W17))という高速コースであり、高回転を長時間維持したことがKR250のこれらの弱点をさらに大きくしたものである。
 
 250t第8戦以降は欠場。

続く

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