RP66/RP68                                                                   SUZUKI

 1960年代のGPレースをエンジンで見れば「2ストロークと4ストロークの対決」と「多気筒化、多段変速化」である。そして、スズキ50cc3気筒はその2ストロークの究極の姿となるはずであった。しかし、このマシンは1967年日本GPのプラクティスで走ったものの、その事実すら知られないまま姿を消し、「幻のレーサー」となってしまった。 

  以下は中野広之さんの「日本モーターサイクルレースの夜明け」、「TEAM SUZUKI」(by Ray Battersby, Osprey1982)等を参考にするとともに、中野さんにご教示いただいた内容を盛り込みまとめたものである。 

1 RP66
 
 1965年に登場したスズキ50cc2気筒RK65は惜しくも1965年50cc世界選手権を獲得することはできなかった。そして1966年型RK66はRK65と基本的に同じマシンであったが、1966年第1戦スペインGP(5月8日)ではホンダの後塵を拝した。ホンダが4ストローク50cc2気筒を初めて登場させてから3年余り経過しており、ホンダがさらに50cc3気筒を開発していることも想定された。ここに至ってスズキは50cc3気筒・RP66計画をスタートさせることになった。

 エンジン形式は"スクエア"3気筒(スクエア4気筒の右後気筒を除去した形)で、この形は1965年11月に計画がスタートした125cc3気筒・RJ66ですでに採用されていた。ボア・ストロークは28×27o。「RP66」と名付けられたことからすると、1966年のGP出場を目標としていたものと思われる。おそらく右のようなスケジュールが予定されたのだろう。
計画着手 5月
設計図作成、エンジン試作開始 6月
エンジン完成・ベンチテスト開始 7〜8月
実走テスト開始 9月
レース出場(日本GP) 10月

 開発は順調に進まず、なかなか50cc2気筒の出力を上回らなかった。特に摩擦損失の増加がネックになり、摩擦損失低減のため125cc4気筒RS65でテストされた変速機強制潤滑の採用や果ては各部オイルシールの見直しなどの手が加えられた。もちろん、1966年日本GPには間に合わず、初走行テストが行われたのは1967年2月17日になった。

 1966年50cc世界選手権は個人選手権はスズキのハンス・ゲオルク・アンシャイト、メーカー選手権はホンダが手にしていたが、ホンダは1967年の50cc、125ccを欠場し250cc、350cc、500ccクラスのみ参戦することになった。この時点ではホンダの50cc、125ccクラスの欠場は一時的なものと捉える向きもあり、ホンダが50cc3気筒を開発しているという噂もあった。このため、1967年最終戦日本GP出場を目標にRP66の開発は継続され、日本GP直前には18〜19PS/19000rpmを記録するまでになった(67年型50cc2気筒・RK67の公表出力は17.5PS/17250rpm)。

 左は現存する可能性があるRP66エンジン( TEAM SUZUKI by Ray Battersby, Osprey1982/Parker House 2008から転載。同書ではRJ65とされていた)で、最終型と思われる。左前・左後気筒のシリンダー、シリンダーヘッドはいずれも2気筒一体。クラッチ後方に水ポンプがあり変速機カウンターシャフト右端からスキューギアで駆動されている。1966年夏に完成したであろう1号機エンジンにはおそらく水ポンプは装着されていなかったと思われる。右前気筒(シリンダー、シリンダーヘッドは失われている)スタッド右後(写真では向かって左)に見える口金は回転計ケーブル取出口。エンジン前にT字型の水パイプが見えるが、冷却水の流れは水ポンプ→T字型水パイプ→左後・右前気筒→(左後気筒→左前気筒)→ラジエーター左右上側→ラジエーター下右→水ポンプだろう。エンジン用オイルポンプは装着されないようだ。

 1967年50ccクラスにスズキはアンシャイト、片山義美に加え、スチュアート・グレアムの3人で臨むことになった。そして全7戦中、第1戦スペインから第6戦ベルギーまでスズキRK67が当然のように優勝、第4戦マン島TTでグレアムが優勝した時点でメーカー選手権はスズキが獲得し、第6戦でアンシャイトが優勝した時点で個人選手権はアンシャイトのものになっていた。

 一方、125ccクラスでは1966年にスズキ2気筒は1勝もできず、1967年も第11戦イタリアGPまでに2勝していたが、個人選手権はヤマハRA31に乗るビル・アイビー、メーカー選手権はヤマハのものになっていた。そしてスズキは
最終戦日本GPでの雪辱を期して、第11戦カナダGPも欠場し4気筒RS67Uの開発を進め、チーム体制も125ccクラス優先になった。

 
10月に入り、竜洋テストコースでアンシャイト、グレアムにより他のマシンと共にRP66のテストが行われた。そして10月15日に開催の第7戦(最終戦)日本GP(富士スピ−ドウェイ4.359kmショートコース)に向け、スズキチームは10月10日にスズキ本社を出発したが、RS67U優先のためRP66の準備は整わず、準備完了後に第2陣が富士に持ち込むこととなった。

 そして11日に自由練習が始まったが、片山義美が転倒、鎖骨を骨折してしまった。125cc優先のためRP66投入中止が現地で決定され、同日、スズキ本社の第2陣に伝えられた。しかし12日午前に富士に到着した第2陣はRP66を運んで来ており、(おそらく)13日に伊藤光夫の手によりプラクティスで2〜3周走行した。
 レースで、
スズキチームからはアンシャイト、グレアムに加えて伊藤光夫、河崎裕之、谷野明年が出場したが、結局、RK67、RK67Uのみが走り、RP66は走らなかった(優勝は伊藤)。

2 RP68

 日本GPの後、アンシャイト、グレアムとスズキとの話合いが持たれ、1968年に向けて50cc3気筒、125cc4気筒の開発を進めることになった。
 125ccクラスではスクエア4気筒の開発が1964年11月に開始され、1966年には3気筒RJ66と並行開発、そして1967年に向けスクエア4気筒RS67の開発が進められたが、最終的にはV型4気筒のRS67Uに設計変更された。すでに1967年10月24日にはレース活動縮小の方針が内部に示されてはいたが、50cc3気筒も"スクエア"3気筒からV型3気筒に変更することになり、RP68と名づけられ11月頃に開発が開始された。

 そして1968年2月にほとんどのエンジン部品が完成したが、2月21日、スズキはGP活動の休止を表明、RP68はベンチテストが行われることもなく、そして姿を見せることなく消え去ることになった。そして、その存在が確認されたのは5年後の1973年のことである。そしてRP66が存在していたことが確認されるには1982年まで待たなければならなかった。

 なぜ、RP66が1967年日本GPプラクティスを走ったか?
(1)後年、伊藤氏は「すでに翌年のGP出場休止は決まっており、1968年に3気筒が走るチャンスはなかった。最後だから走らせよう、ということだった。」と語っている。ただし、このマシンが"スクエア"3気筒とは言っていない。
(2)グレアムは日本GP後の1968年に向けての打ち合わせについて「Everything was agreed; new 125-4s and 50-3s for Georg  and myself, and then we came home.」と語っている。
(3)スズキの中野広之氏は「10月15日の日本GPも終わり、Anscheidt・Grahamは来年度マシンの要望などを打合せて、18日に帰国した。我々レ−ス担当者は、RP(水冷50cc3気筒)・RS(水冷125cc4気筒)の熟成を目指し業務を開始した。それから、数日がたった24日、岡野武治研究部長(レ−ス総監督:故人)に呼ばれ、思いがけないことを聞くことになった。「レ−ス部門を縮小することになった。中野は数名を連れて、四輪設計部門へ転出し、軽自動車用360ccの4ストロ−クエンジンの開発をやれ!」という命令だった。そして、11月1日には正式の辞令が出た。」と書いている。

(1)について
 GP休止発表の2月21日の直前、2月19日にRS67-2-2エンジンを使用してベンチテストが行われ3種類の排気管が比較されている。単なるベンチテストだけであれば、レース撤退、3月のシンガポールGP(世界選手権ではない)に出場するためのテストとも考えられるが、3種類の排気管の比較テストを行っていることからそうではないだろう。レース部門としては1968年2月21日直前までレース活動継続を前提に動いていたのである。

(2)について
 この内容は(3)に裏付けられている。

(3)について
・中野氏は当時、レース部門を担当する研究二課の課長をされており、日本GPの9日後にその中野氏の異動内示が出されている。であれば、日本GPの前にはレース部門の縮小は内定していたとも想像できる。しかし、どんな情報であれ漏れることはある。とすれば第2陣、そして伊藤氏がそのことを知って、(1)のように走らせたのだろうか?しかし、単に「レース部門縮小」ということで、RP66出場の機会がなくなると考えたりするだろうか?

 私は、以下のような事情だったのではないかと想像している。

○第1陣が富士に向け出発した後に、「1968年はレース出場休止」の情報を第2陣が知った。
○第2陣は休止の前にRP66をテストコース以外で走らせたいと考え、RP66を富士に持ち込んだ。また、ライダーの伊藤氏にそのことを伝えた。
○しかし、第2陣は125ccに集中しているメンバーの士気に影響することを恐れ、そのことを他のメンバーには伝えなかった。
○日本GPの後、人事異動が行われたが、(「休止」ではなく)「縮小」が決まった。このため、中野氏を始めとするメンバーの異動後に、残ったメンバーで1968年シーズンに向けてV型3気筒の開発が始まった。
○メンバーの数が減っていたため製作に手間取り、1968年2月に部品がほぼ完成し組み上げられたが、まもなく、レース休止が発表され、RP68の開発は停止した。

モーターサイクリスト誌67年12月号の記事
 
 この雑誌に1967年日本GP特集が掲載されているが、50cc3気筒についての記述がある。
(1)50ccレース直後の伊藤光夫氏のインタビュー記事で、3気筒につい
て「プラクティスでちょっと乗ってみたが・・・」とある。
(2)マシンについての記述で、
3気筒について「ボア・ストローク28×27mm」、「V型変形気筒配置」とあり、スズキの関係者から情報が漏れていたと思われるが、この「変形V」の解釈として次のことが考えられる。
・「RP68のようなV型」が存在した。
・「RP66のような"スクエア"」が存在した。
・この時点ではV型は存在しなかったが、スズキ関係者が、すでに構想していたV型のことを漏らした.。   

 スズキ50cc3気筒RP66はレースに出場することはなかった。また、完成した姿も現段階で明らかになっていない。しかし、写真が現存するのではないかという希望を私は捨ててはいない。2〜3周とはいえRP66が富士を走ったことは間違いがないからだ。RP66フレームも現存するのではないだろうか。

 50cc3気筒を開発したことが正しかったか間違っていたかという議論は別として、このマシンはスズキマンがレースにかけた情熱を如実に表している。現存するエンジン部品、スズキに残っているであろう設計図などをベースに復元することができたとしたら、スズキ2ストロークの大きな記念碑になるだろう。そして、それが1967年日本GPのプラクティスで走ったRP66ならばその意義は特に大きいと思う。RP66が再び伊藤光夫氏の手により富士の直線を駆け抜ける姿を想像するだけで涙が出そうになる・・・

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