RC146-4RC146                HONDA                                                                                                                                                                                                           HONDA

 1963年世界GP最終戦日本GPで登場したホンダ125t4気筒について「世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史」八木静夫、 本田技術研究所 論文サイト (hondarandd.jp)、以下「文献1」)では機種とレース出場時期を次のとおりとしており、日本語の大抵の記事がこれに従っている。

RC146   1963年日本GPに登場した2バルブ型
2RC146  1964年第2戦〜1965年第4戦を走った4バルブ型
4RC146  1965年第5戦マン島で登場した新4バルブ型

 しかし、1964年日本GPで撮影されたマシンのエンジンは1964年東ドイツで撮影されたマシンのエンジンとは明らかに異なる。つまり1964年シーズン中、少なくとも2種類のエンジンが使用されたのである。そして、1964年後期のエンジンは現存4RC146Eに酷似している。そこで、次の区分を想像して記事にする。想像なので信用しないでいただきたい。

RC146   1963年日本GPに登場した2バルブ型
2RC146  1964年第2戦〜1964年シーズン後半を走った4バルブ型
3RC146  1964年シーズンに登場した新4バルブ型
4RC146  1964年終盤に登場した新新4バルブ型

1 1963年

 2気筒RC145に替わる125t4気筒RC146の開発は1963年1月に始まった(文献1)。既に1962年50tクラスでスズキがタイトル(個人、メーカー)を手にしていたし、世界GP後の第1回全日本選手権(11月、鈴鹿)でスズキ125t2気筒・RT63X(空冷・前方排気)が登場しており、1963年125tクラスでスズキがホンダにとって脅威になることは容易に予想できたが、他機種の開発、F-1カーの開発等により多忙であり、開発は中々進まなかった。

 1963年世界GP第1戦スペインGP、スズキRT63(空冷2気筒・後方排気)にマシントラブルが多発し、ホンダのルイジ・タベリ(RC145)、ジム・レッドマン(CR93、2気筒市販レーサー)、高橋国光(RC145)が表彰台を占めたが、3週間後(5月26日)の第2戦ドイツGPではスズキのエルンスト・デグナーが圧倒的な速さで優勝、ホンダ勢ではタベリが4位で、3位のスザーボ(MZ)にも及ばなかった。第3戦フランスGP以降もスズキのヒュー・アンダーソンが連勝、ホンダに猶予はなくなった。

 以下、エンジンのみを指す時は「RC146E」、フレームのみを指す時は「RC146F」、エンジン+車体を指す時は「RC146」というように記載する。
 
 当初、2バルブのRC146Eの開発が進められたが十分な出力が得られず、遅れて4バルブの2RC146Eの開発も並行して進められた。そして、最終戦日本GPでの2RC146の出場も検討されたが、2RC146Eの開発は十分に進まず、2バルブのRC146がタベリ、レッドマン、高橋、トミー・ロブ、田中髀浮ノ与えられた。レースでは優勝したフランク・ぺリス(スズキ)と接戦を演じたレッドマンが2位で、ロブが4位、タベリ、高橋、田中はリタイア。

 下左のゼッケン8はレッドマン、ゼッケン11はタベリのRC146。下右はタベリ、レッドマン又はロブのRC146で、エンジン右端気筒のプラグキャップがシリンダーヘッドに斜めに取り付けられているので2バルブエンジンと分る。
 

 当時の雑誌はこれらのマシンを2RC146と報じていたが、ホンダ提供の広報資料が2RC146となっていたのだろう。あるいはマシンはRC146であってもエンジン/フレーム打刻は2RC146となっていたのだろうか? 2RC146が何台かはパドックに持ち込まれていたのだろうか?

 文献1では最高出力をRC145:22.5PS/14000rpm、RC146:22PS/15000rpmとしている。一方、「ホンダの二輪レース用機関の出力特性 -機関諸元の選定- 」八木静夫等、本田技術研究所 論文サイト (hondarandd.jp)、 以下「文献2」)中Fig.6-2(出力曲線図)からすると、RC145:20.6PS/13000rpm、RC146:22.5PS/15000rpm。なお、RC145の数値は他機種の数値の取り違えの可能性もある。他機種を含め出力については本頁末尾の諸元表を参照。

 なお、ユニット構造エンジン(エンジン・変速機一体構造)の場合、出力測定されるのは後車軸駆動用チェーンの前スプロケット取付軸(多くの場合、変速機出力軸)か後車軸であり、クランクシャフト出力は換算式によって求められる。ホンダが1960年代のレーサーについて公表した数値は後車軸出力と思われる。
 クランクシャフト出力を100とすると、前スプロケット取付軸では95、後者軸では90程度になる。

 さて、日本GPに出場したスズキ2気筒はRT63が5台、RT63Aが1台だが、デグナーが乗ったRT63Aは初登場の水冷2気筒で、1964年にはスズキ水冷2気筒が大きな脅威になることも予想された。

2 1964年

 元々、ホンダはスズキRT63の出力を24PSと見込んでおり、1964年型のRT64ではさらに出力向上すること、1963年日本GPで姿を見せた水冷型が本格出場することも予想されていた。しかし、1964年に向けて開発が進められた2RC146Eの最高出力は25.5PS(200PS/L)/16500rpmに留まり、シーズン前の早い段階で苦戦が予想されたため、3RC146Eの開発が始まった。3RC146Eではクランクシャフト平均軸径を縮小し、吸気管長短縮(高回転対応)のためフラットバルブキャブレターを採用していた。そして、さらに4RC146Eの開発が進められた。

 以下、「第〇戦」は125tクラスが開催されなかったGPを除いたものとする。例えば1964年フィンランドGPは全クラスを通じた開催地としては第10戦だが、125tクラスに限れば第9戦である。

 第1戦US(2月)をホンダは欠場、スズキはRT63を走らせヒュー・アンダーソンが優勝、第2戦スペイン(5月)でスズキRT64、ホンダ2RC146の対決が始まった。RT64は空冷のまま高出力化が図られたマシンたが、シーズン前半、エンジン不調に悩まされ、タベリが3連勝、続いてレッドマンが2連勝した。その後、アンダーソンが2連勝した後にタベリが第9戦フィンランドで優勝してチャンピオンになりホンダもメーカ選手権を獲得した。さらに次戦でも勝ち、ホンダは7勝を挙げた。
           マン島TT タベリ       アルスターGP ブライアンズ
 
 上左は第4戦マン島TTで優勝したタベリ(レース中)、上右は第8戦アルスターで3位入賞したラルフ・ブライアンズで、上左では排気管ステーがシートレール後端に取り付けられ、上右ではシートレール後端の少し前・シートストッパーに取り付けられている。
 上左をA型、上右をB型とする。マン島レース(決勝)でタベリ、レッドマン、ブライアンズ、いずれもA型に乗った。
 第5戦オランダのプラクティスでタベリに与えられた2台のマシンはA型とB型で、レッドマン、ブライアンズのマシン(レース中かどうか不明)はA型。アルスターGPでタベリが乗ったマシン(レース中かどうか不明)はB型。また第3戦フランスでもB型(ライダー不明)が確認できる。

 なお、上左、上右の後クッションユニットはガーリング製で上部外筒があるが、上部外筒がないタイプもある。他にショーワ製と思われるものも使用された。なお、前フェンダーは2種類あった。

マン島 
タベリ  https://www.ttracepics.com/honda/luigi-taveri-honda-1964-ultra-lightweight-tt-20165692.html

 さて、シーズン序盤を優位に進めたとはいえ、空冷RT64の改善、水冷RT64の登場も予想された。また、第5戦オランダではヤマハRA97(空冷2気筒)が登場、フィル・リードがレッドマンと接戦を演じ終盤にリードがコースアウトしたが2位入賞、ホンダにとって新たな脅威となった(1964年にRA97が走ったのはオランダ、第6戦ドイツと最終戦日本GPのみに留まった)。

 2RC146にそのまま頼ることはできなかった。当時の雑誌記事では第8戦アルスターで「先週日本から送られてきたばかりの真新しい”フォア”に乗るタベリ」とあり、本レースで4RC146が投入されたのではないか? そうだとするなら、タベリのマシンは4RC146E/2RC146Fではないか? 3RC146Eはシーズン序盤から現場に持ち込まれていたが、実戦ではあまり用いられなかったのではないか? 
 アルスターではアンダーソンが優勝、タベリは2位。第6戦ドイツ、第7戦東ドイツとCR93に乗ったブライアンズが再び4気筒に乗り3位。

 さらに、ストローク/ボア比を変更するとともに、カムシャフト駆動ギアトレーンをエンジン端に移動しクランクシャフトを6点支持から5点支持に変更、クランクシャフト平均軸径を14mmとしたRC147E(リンク)の開発も開始した。

   2RC146Eのクランクシャフト平均軸径はRC146Eより僅かに縮小された16.8mmだった。これを2乗3乗則により他機種相当に換算すると次のようになる。括弧内は各排気量の1964年型ホンダレーサーのクランクシャフト平均軸径(出典は文献1、2等)。
50t2気筒換算: 15.6mm(RC114E:12.9mm)
250t4気筒換算:21.2mm(2RC164E:20.8mm)
250t6気筒換算:18.5mm(RC165E:17.2mm又は16.2mm(資料によって異なる)、シーズン終盤に登場)
350t4気筒換算:23.7mm(RC172E:22.4mm)

 250t4気筒、350t4気筒に較べ基本設計が新しい割に2RC146Eのクランクシャフト平均軸径が大きいことが分る。

 最終戦日本GPで、ホンダ4気筒に乗ったのはタベリ、レッドマン、ブライアンズ、田中で、タベリがデグナー(初登場のスズキRT63改A、水冷)に僅差の2位で、3位片山義美(RT63改、空冷)、4位田中で、レッドマンはエンジン故障、ブライアンズは転倒で、何れもレース序盤でリタイア。

 下左は第7戦東ドイツGPで撮影されたとされる2RC146、下中は日本GPでの4RC146。両エンジンともプラグキャップがシリンダーヘッドに真っすぐ装着されているので4バルブと分るが、これらのエンジンは次の差異がある。

〇前後カムシャフトケース上面形状(丸いか平面か)
〇前後カムシャフトケース部端カバー形状(円か四角か)
〇前カムシャフトケース部端カバーのボルト数(4か3か)
〇後カムシャフトケース部端の4つのボルトの位置
〇下右では前後カムシャフトケース右端からシリンダーヘッド冷却フィン中央に伸びるオイルパイプ(写真をクリック)があるが、下左ではその部分がシリンダーヘッドの一部になっている。
〇下左のシリンダー右端の冷却フィン数は8だが、下右はおそらく7
〇クランクケースのクランクシャフト部端カバー形状
〇下右ではクランクシャフト部端カバー上部に繋がるパイプがある
〇下左では排気管がロアクランクケースにボルト留、下右ではクランクケースに取付部なし
〇下左はピストンバルブキャブレターで下右はフラットバルブ
東ドイツGP 日本GP 田中(日本GP)

 また、フレームも2RC146Fとは異なる。仮に日本GPに出場した4人のホンダライダー全員が4RC146Eを使用したとすると、タベリ、レッドマンは4RC146E/4RC146F、田中と(おそらく)ブライアンズが4RC146E/2RC146Fだろうか?田中のマシンの排気管ステー取付位置はB型(上右)。
 当時の雑誌で記事では田中のマシンの回転計のみ他のマシンと異なっていたとのことであり、このマシンのみ電気式回転計だったのだろうか?

 2rc146-1.jpg (646×751) (vf750fd.com) は明らかに日本以外で撮影されたもの。シリンダーヘッドは4RC146E、フレームは2RC146Fのようだ。

1964年の戦績(獲得ポイント)

  US E F TT N A AE U Fin I J 有効得点 順位
Taveri   8 8 8 R 6 6 6 8 8 6 46 1
Redman 6 R 6 8 8 4 R 4 1 R 36 2
Bryans       4 4 4 6 3 R 21 5
高橋   R 3                 3 14
田中                     3 3 14
Robb※   R                      
粕谷勇         0(7位)                

※ロブはフランスGPプラクティス期間中にチーム解雇
※ブライアンズはドイツ、東ドイツにCR93で出場し無得点

3 1965年

 1965年シーズン用として4RC146では不十分なことが明らかになりRC147Eに開発が傾注され28.5PS/18000rpmを達成したが、故障が多発しレース投入を断念せざるを得ず4RC146の小改良型を使用することになった。

 第1戦USGP(3月)は前年に引き続き欠場、スズキRT63改Aに乗るアンダーソンが優勝、第2戦ドイツ(4月)からホンダ4RC146も出場したが、タベリ、ブライアンズはエンジン故障でリタイア、続くスペイン、フランスでもエンジン故障でリタイアと散々な戦績だった。故障の原因は点火系ともキャブレーションともいわれているが詳細は不明。この間にアンダーソンが4連勝した。

 なお、回転計が機械式(排気カムシャフト駆動ケーブルにより作動、スミス製)から電気式に変更されていた。

 第5戦マン島では仕様を若干変更した4RC146Eが登場しタベリが用い、スズキ勢の不運※に恵まれ、優勝したリード(初登場のRA97水冷版)に次いで2位、ブライアンズはリタイア。
 タベリの4RC146の排気管はブライアンズのもの(長型)より10p程度短く(短型)、排気管からシートレールに伸びるステーもない。ただ、ブライアンズのマシンの排気管も第2戦時より少し短いようだ。

タベリ https://www.ttracepics.com/honda/luigi-taveri-honda-1965-ultra-lightweight-tt-11442901.html
     https://www.ttracepics.com/honda/luigi-taveri-honda-1965-junior-tt-14618717.html
ブライアンズ https://www.ttracepics.com/honda/ralph-bryans-honda-1965-ultra-lightweight-tt-20668176.html 

※アンダーソンが1周目途中まで1位だったが、山岳地帯のガスリーメモリアルでプラグ交換、追い上げ2周目のベストタイム、最終ラップには最高ラップタイムを出したが5位。片山は1周目に1位のリードに5.4秒差の3位だったが、2周目に変速機カウンタ−シャフト曲がりのため遅れ、最終ラップにタイヤパンクでリタイア。公式練習トップだったデグナーは、3周目エンジン不調(ドライブスプロケット歯欠け)で8位。ぺリスは、1周目コンロッド大端焼付でリタイア。

  1964年と基本的に同じものが主に用いられたが、下左(レース名不明、世界選手権以外のレース?のタベリのマシン)、下右(第4戦フランスでのブライアンズのマシン)のようなフェアリングも用いられた。


 マン島では幸運にも2位入賞したタベリだが、第6戦オランダではマイク・ダフ(水冷RA97)が優勝、タベリは4位のビル・アイビー(空冷RA97)に1分以上遅れる5位に留まった。この結果、ホンダは第7戦東ドイツ以降を欠場し5気筒RC148の開発に専念することとなった。
 ヤマハも第7戦以降欠場し、最終戦日本GPで再びRA97を走らせた。スズキ勢では第7戦、第8戦チェコスロバキアとぺリスが2連勝、スズキがメーカー選手権を獲得した。第9戦アルスターはデグナー、第10戦フィンランド、第11戦イタリアはアンダーソンが優勝し、アンダーソンがチャンピオンとなった。

 RC148は最終戦日本GPで登場、タベリ、レッドマン、ブライアンズに与えられたが、アンダーソン(RT65、本レースで初登場)が優勝、タベリ2位、ブライアンズ3位だった。4RC146は田中(下左)、湯沢康治(下右)に与えられ、湯沢が5位入賞した。田中の4RC146の排気管は第2〜第4戦時と同じように見え、フェアリングは上写真に似ており、回転計は世界GP出走マシンと異なり機械式。湯沢のマシンは短型排気管のようだ。
日本GP 田中 日本GP 湯沢

4 現存するマシン 

(1)4RC146

 
1973年9月、ホンダ技研工業創立25周年記念行事のひとつとして荒川テストコースで1960年代のホンダレーサー等が走行した。こちらに元ホンダ社員による写真がある。 出典:『素顔の本田宗一郎と社員たち/3代社長の3ショット (永久保存版)Soichiro Honda and Three Tops of Honda/The memorial run of glorious racers』白金(東京)の旅行記・ブログ by yamada423さん【フォートラベル】)

写真1  写真2  写真3
  
 そして同じマシンが1980年にスズカサーキットで行われたホンダモータースポーツ展で展示された(下左、1980年7月25日撮影)。エンジン番号は4RC146E-405だった(室内が暗くフレーム番号は判読不能)。回転計は機械式。下中は同マシンの1989年頃の状態で、回転計は装着されていないようだ。
ホンダモータースポーツ展(1980年) 1989年頃 64日本GP ブライアンズ

 世界GPを走ったマシンと異なりフェアリング右側のクラッチ冷却孔はない。また、フェアリング下部、アンダートレイ形状が世界GPを走った125t4気筒では見ない形状だが、1964年日本GPでブライアンズが乗ったマシンのフェアリング(上右)と同型かもしれない。

 下左は1998スズカヒストリックミーティングで走った4RC146(前日11月7日撮影)で、エンジン番号4RC146E-405。フレームが再塗装されていたようでフレーム番号は読み取りにくかったが4RC146F-408か。排気管が従前より短くなり、排気管ステーもなくなっている。
  下中、下右はエンジン部分を拡大したもの。1965年第2戦スペインで撮影されたとされるマシンとクラッチカバーの孔を除き同型であり、フレームも同様。シリンダーの冷却フィン数は7。回転計は機械式で、吸気カムシャフトから回転計ケーブルが作動される(下右)。1965年型フレームの特徴的な形が分る。

 さて、下3枚は1966年4月上旬に行われたスズカスプリングフェスティバルで撮影されたもの。エンジン、フレームの特徴は上の4RC146と同じ。なお、シリンダーヘッドのオイルパイプがシリンダーヘッドの一部になっているように見えるが、下右(下中を拡大)で、パイプを補修したものであることがわかる。この特徴は上の4RC146E-405でも見られる。

 これらのことからすると、1973年以降公開されていた4RC146は1966年スズカスプリングフェスティバルで公開されたマシンそのものと思われる。また、1965年日本GPで田中が乗ったマシンではないだろうか? ただし、1966年スズカスプリングフェスティバルで公開された4RC146に機械式回転計は装着されていない(電気式回転計が装着されているかどうかも不明)。

 最近、公開されている4RC146はこちら(リンク)をご覧いただきたい。このマシンのエンジン番号は4RC146E-405と思われるが(末尾の「405」が写真に写っている)、シリンダーヘッド等が新造されているのではないか。回転計は機械式。

(2)2RC146

 2007年撮影。マシンの略歴は分らない。ピストンバルブキャブレター、回転計は電気式、排気管ステー取付位置はA型。フェアリングは(1)の4RC146と同型のようだ。
 なお、Honda Collection Hall | コレクションサーチ (mobilityland.co.jp)では「オランダ TT優勝車 No.4 J.レッドマン)」としているが、「オランダ TT優勝車と同じゼッケン4を付けた車」程度の意味の可能性もある。少なくともフェアリングは優勝時と異なる。

(3)3RC146?

 略歴は不明。新造品でないことを祈る。次のように2RC146と4RC146の中間的な仕様であり、エンジンは3RC146Eではないだろうか?

〇前後カムシャフトケース端カバーの形状が四角形(4RC146Eと同じ)
〇後カムシャフトケース部端カバーのボルト数3(2RC146E、4RC146Eは4)
〇前カムシャフトケース部端カバーのボルト数3(4RC146Eと同じ)
〇シリンダーヘッドオイルパイプがシリンダーヘッドと別部品(4RC146Eと同じ)
〇シリンダー冷却フィン数7(4RC146Eと同じ)
〇クランクケース前端に排気管取付部あり(2RC146Eと同じ)
〇フラットバルブキャブレター(4RC146Eと同じ)
〇フレーム形状は2RC146Fに酷似、排気管ステー取付位置はB型
1964 Honda RC146: resisting the two-stroke revolution | TABAC - Classic GP Assen (classicgp-assen.com)

5 エンジン諸元 

  RC146E 2RC146E 3RC146E 4RC146E
ボア×ストローク mm 35.2×32(3RC146を除き注1、4)  35.26×32(3RC146を除き注3)
排気量 cc 124.9
バルブ数 2 4
バルブ径(吸気/排気) mm 19/17.2(注5) 14.5/13(3RC146を除き注1、3)
圧縮比(注2) 10.2 10.0 - 9.6
圧縮比(注3) 10.2 10.4 - 9.7
圧縮比(注4) 10.3 10.0 - 9.6
ピストンリング数 3(注1、3、4) 2(推測) 2(注1、3、4)
クランクシャフト平均軸径
mm
17.2(注2、3) 16.8(注2、3) 14.2(推測) 14.2(注2、3)
キャブレター ピストンバルブ フラットバルブ
点火方式 マグネト トランジスタ
変速機段数 7(注9) 8(注1) 8(推測) 8(注6)
最高出力 
PS/rpm×100
22/145(注3、4)
22/150(注1)
22.5/145-150(注7)
25.5/165(注1)
25.8/165(注3、4)
27.1/177.5(注3、4)
27.5/150(注8)
27.6/180(注7)
その他 軽量化(注3、4) 1kg軽量化(注1、3、4)

注1:文献1による。
注2:文献2による。
注3:「ホンダエンジン開発史(四ストロークサイクルエンジンの基礎確立まで)」(八木静夫、文献3)による。
注4:「世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史」(八木静夫、エンジンテクノロジーVol08・No2(山海堂2006/4)) による。
注5:文献1による。文献3では19.0/17.0。
注6:文献1及びエンジン分解写真による。ブライアンズのインタビュー記事(1964日本GP時、モーターサイクリスト1964-12)では125tマシンを8速としていた。ブライアンズがどの機種を使用したのかは不明。2012年に鈴鹿で展示された4RC146は7段変速仕様だった(燃料タンク上に「1DOWN 6UP」と書かれたシールが貼られていた)。
注7:文献2中のエンジン出力曲線による。
注8:文献1による。「150」は私の誤記ではない。
注9:1973年公表資料、 Honda Collection Hall | コレクションサーチ (mobilityland.co.jp)では7段変速。7段変速仕様もあったようだ。

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