RG500の記事

 スズキRG500の歴史についてはグランプリイラストレイテッド誌1987-3号でまとめられているが、その内容たるや機種記号を間違えるは、各シーズンでどのライダーがどの機種のマシンに乗ったかを間違えるは、いわゆる「トンデモ」記事だった。どうしたらこんな間違いができるのか不思議なくらいだったが、その後の多くの雑誌記事がこのトンデモ記事を丸写ししていたように思う。

 それから20年が経ったが、新たなトンデモ記事が登場した。それがスズキ RGΓ アーカイヴ1974-1986(2007大日本絵画)である。機種記号とシーズンの関係こそ修正されているが、相変わらず下らない誤りが多い。本書の記述を全て資料と照らし合わせるほど価値がある本ではないので、さっと見て気がついたところを列挙してみた。

例1
 5頁、BoreがBoaに、AluminiumがAlumniumに、PiecesがPicesになっている。歴史に関する誤りではないが、この程度の間違いをすることがライター氏、スタッフのレベルを表している。

例2
 6、16、17頁のスタジオ写真について、ライター氏は次の理由から74シーズン後に撮影されたものと推定している。
(1) キャブレターがマグネシウム合金製ではなく亜鉛合金製なので、シーズン後に市販RG用のキャブレターに交換したようだ。
(2) 74年型RG500は当初ダイヤモンド型フレーム(ダウンチューブ(の一部)がない)であり、後にダブルクレードル型になったとされているが、写真のマシンはダブルクレードル型。

 実はこれらの写真は74年シーズン前に公表され雑誌掲載されたものであり、シーズン後に撮影されたマシンではない。そもそも「1974年に2回しか3位以内に入賞しなかったスズキが、シーズン終了後にわざわざスタジオで広報写真を撮影した」という考えがおかしいことに気が付かないのだからどうしようもない。 

  また、市販RG500が市販されたのが75年シーズン後なのに、74年シーズンを戦ったファクトリーRG500のキャブレターを市販RG500のものに交換するはずはない。加えて、市販RG500のキャブレターはマグネシウム合金製ではなかったのか? 亜鉛合金製のものがあったのだろうか?

 なお、掲載写真のマシンのフレームはダブルクレードルフレームに見えるが、当初のダイヤモンド型フレームでは剛性が不十分だったため、シーズン前の時点でダウンチューブがボルト留めされた(脱着可能)ものであり、第2戦ドイツGP(プラクティスのみ走りレースはボイコット)でも確認できる。そして、これらとは別の新型ダブルクレードル型フレームが遅くとも第5戦マン島TTで登場している。

 注:1974年型RG500についてはこちらの記事を参照されたい。

例3
 6頁、スズキが60年代にV型2気筒マシンを製作したように書かれているが、そのようなことを私は寡聞にして知らない。また、67年に撤退とあるが、スズキが撤退を決定したのは68年2月である。正しくは「67年を最後に撤退」である。また、67年の撤退までにスズキは8回のライダータイトルと7回のコンストラクタータイトルを得たとしているが、68年までに獲得したタイトルは右表のとおりであり、本書でのタイトル獲得数は1968年を含んでいる。
    62 63 64 65 66 67 68 タイトル獲得数
50 ライダー   6
メーカー     5
125 ライダー           2
メーカー           2

例4
 7頁左、1974年は全12戦とあるが、500ccクラスだけなら全10戦である。500ccクラスの記述なのに、このことを書いていないのは誤りと同じ。

例5
 8頁の写真説明で、ハルトッフがスズキRGBに78、80年に乗ったとあるが、79年にも乗っている(この写真は79年ドイツGP)。12頁でも1979年にRGBを与えられられたライダーにハルトッフが抜けている。なお、78年はシーズン途中からRGA500に乗った。RGB500が登場したのは79年であり、78年もRGB500に乗ったように書くのは誤り。

例5
 9頁左、76年型の開発について「担当の河崎裕之〜」とある。河崎がスズキに乗ったのは77年からで、76年まではヤマハに乗っていた。

例6
 10頁左、ランシボリに75年型が与えられ、J.ウィリアムスが市販RGに乗ったように書かれているが、逆でランシボリが市販RGに乗り、ウィリアムスはニューボルドと同様に75年型が与えられた。また、ランシボリがシーズン前半を欠場したと書かれているが誤り。42頁の結果表を見ればランシボリが前半でも入賞していることが分る。

例7
 11頁左、78年最終戦でフェラーリが市販RGで優勝したとあるが、フェラーリはこのレースでは1978年型のRGA500(XR22)に乗った。チームガリーナはベーカー、フェラーリの2人体制で78年シーズンを戦ったが、当初はベーカー:XR14、フェラーリ:市販RGだった。イタリアGPでベーカーにXR22が与えられるとフェラーリにXR14が回り、最終戦でフェラーリにもXR22が与えられたのである。

例8
 11頁、28頁、RGA500を小型化したのがRGB500エンジンとあるが、RGB500エンジンは基本的なディメンションはRGA500エンジンと変わらない。RGA500のエンジン部品の一部はRGB500にも用いられている。

例9
 12頁右、35頁左、1980年にワークスマシンを与えられたライダーに、グレーム・クロスビーが抜けている。

例10
 14頁、SheeneがSheenになっている(42頁も)。他にも誤りがある。

例11
 19頁、縦5本の溝について、オーガナイザーによる出走停止命令やライバルチーム(主にMV)による非難を回避するためとしている。8頁にも75年オーストリアGPでの逸話が書かれているが、この年の各チームの使用タイヤは次のとおりで、ダンロップは各チームが使用しており、「ライバルチーム(主にMV)の抗議を避けるため」というのはおかしい。ダンロップがこのような事態を想定して5本溝にした訳ではない。
ヤマハ:ダンロップ
スズキ:ミシュラン又はダンロップ
MV:ダンロップ又はミシュラン

1975年オーストリアGPスタート時のタイヤについて

 レース前日午後から当日朝まで降雨があり、さらにレース前、今にも振り出しそうな雲行きだったため、主催者からスリックタイヤ禁止指示が出たもの。8頁左では、アゴスチーニ、金谷がスリックでスタートしようとした、となっているが、当時のモーターサイクリスト誌に掲載された金谷のレポートによると、アゴスチーニはスリックを使用し、金谷はレイン、ランシボリ(スズキ)はミシュランのレインを使用したとのこと。ここでの「レイン」は今のレインとは異なり、ドライ用溝付のタイヤかもしれない。

 8頁右上の「〜今にも振り出しそうなザルツブルクの空の下、リードはその危険性を理由にスリックタイヤでの走行をやめさせようとした。ヤマハ側は、「このタイヤは縦に3本の溝があるから、スリックではない」という理由にならない理由でオフィシャルを説得。」とある。ではライターはスリックタイヤの定義をどのように考えているのだろうか。

 20頁下の写真のマシンも前後共、溝付タイヤとされているが、後輪はスリックのようだ。ミシュランが前輪用スリックを登場させたのは78年からと記憶しているが、後輪用スリックはそれ以前から用いられていた。

例12
 26頁、ライダーの名前にスチーブ・パリッシュ、ハルトッフが抜けている。また、79年型RGB500の特徴として、前ゼッケン部ラジエーターが挙げられているが、このタイプは特定のレースで試みられたもの(例:第2戦オーストリアでシーンが用いた)であり、79年型の一般的な特徴とすることは誤り。

例13
 
28頁、RGB500はRGA500を軽量小型化を計ったモデルと書かれているが、「軽量化」の誤り。また、RGA500でクラッチレリーズがラック&ピニオンのプル式に変更されたとあるが、RGB500の誤り。78年型RGA500はプッシュ式であり、右写真の右下端にクラッチ作動機構が写っている。

例14
 41頁、クロスビーが前年モデルのRGB500で参戦とあるが誤り。クロスビーにも81年型RGΓ500が与えられた。同頁下の写真(オーストリアGP時)がクロスビーのRGΓ500である。

例15
 
54頁では、1982年にXR40を与えられたのはウンチーニとマモラのみとなっているが、フェラーリ、レッジアーニが抜けている。後者の2人には型遅れマシンが与えられたとする人もいるが、フェラーリのマシン(右:後ブレーキペダルが車体左にあるのでフェラーリのマシンと分る)のエンジンも明らかにXR40である。XR35とXR40の区別がつかなければ、この写真も猫に小判ではあるが。

例16
 42頁下のポイント計算方法に「76年までは、1シーズン8戦以上開催された場合に適用される「有効ポイント制〜」の記述があるが、ライター氏はその上にある1976年の結果が記述どおりのポイント計算方法になっていないことに気が付いていない。記述によれば1976年500ccクラスは全10戦なので、ベスト6戦の結果を合計することになる。ランキング5位のNewboldは5回、14位のMortimerは4回しか入賞していないので、総得点=有効得点になるはずだが、表では有効得点の方が小さくなっている。実は76年の有効得点算定方法は75年以前とは異なる
 また、66年の50ccクラスは全6戦、67年の50ccクラスは全7戦だったが、有効得点制で争われている。本書のように「8戦以上の開催された場合に適用」とは初耳だが・・・ライターはどのような資料を見たのだろうか。

例17
 46頁、81年型RGΓ500・XR35のボア×ストロークが56×50.5になっているが、54×54の誤り。5頁が正解。ショートストローク化されたのは1982年型のXR40。また、その値も5頁では56×50.7である。

例18
 58頁、RGB500で小型化されたエンジンとあるのは、RGΓ500の誤り。「小型化」とは重量ではなく寸法が縮小されることを指す。

例19
 69頁、77頁、水温計とタコメーターの間にある電池を排気ディバイス用としているが、この電池は電気式回転計用である。こんな小さな電池で排気ディバイスが1時間近いレースで持つはずがない。

例20
 84頁、83年のベルギーGPの勝者がロバーツではなくスペンサーになっている。本書の同シリーズの前作でも同じ誤りをしている。本書中の全ての年のレース結果をチェックしたわけではないが、本書からレース結果を引用する際は確認が必要である。

 よくもこれだけ間違えるものだ。上に挙げた例以外の記述についても推して知るべしである。誤りの内容からすると、ライター氏はグランプリイラストレイテッド誌の記事を下敷きにし、機種記号を修正した上で精一杯記事を膨らませたのだろう。本の帯部分には「マシンの開発過程がわかるのは、この一冊だけだ。」とあるが、「これだけ間違えているのは、この一冊だけだ。」ではない。日本の雑誌屋は昔も今も誰かが間違えれば皆間違えるし、さらに間違いを増幅していく。「雑誌屋が書いたものはこの程度」とあきらめるしかないが、本書の写真解説にはご丁寧に英語の解説が併記されており、間違いが海外に輸出されないことを祈るばかりである。

公開校正