ホンダオートバイレース史(三樹書房2016)
42頁「(ホンダ・ベンリイJ型のシーソー式サスペンションについて)NSUのメカニズムは、ほぼ完全近くベンリイに採り入れられた」
NSUフォックスの後サスペンションはシーソー式ではないと思うが、シーソー式ものもあったのか?
49頁「これ(招待状)を受け取った日本政府はともかくこれを通産省に伝え、通産省はこれを小型自動車振興会に伝えた」
政府と通産省が別のような書き方だが、通産省は政府機関。招待状が届いたのは外務省で、外務省から通産省に招待状が渡された。
小型自動車振興会の当時の名称は「日本小型自動車競争会連合会 」。
50頁「〜すでに参加申し込みが締め切られた後になっていた〜日本を招待する予算は残っていない、というのだった。そしてこう付け加えた。「自弁で来てくれるなら〜」」
「ホンダとメグロだけは自弁で行くことを決定した」
100%自弁ではなく、レース主催者が10万クルゼイロを負担した。1人分程度の航空運賃だったとのこと。
ohmura-mikio-023.pdf (iom1960.com)
51頁「1周6キロ」
「1周8キロ」の誤り。
「25台の125tが走り」
エントリーリストには22台しかない。ohmura-mikio-s-044.pdf
(iom1960.com) TTレース出場宣言(社外向け)でも「二十二名」とある。
62-63頁(マン島TTレース出場宣言(社内向け))
原文(こちら)と比べる幾つか違いがある。矢印の先が校正後。
「わが」→「吾が」、「こと」→「事」、「世界の覇者となる前に」→「全世界の覇者となる前には」、「この」→「此の」、
「しかし逆に、私の年来着想をもってすれば、必ず勝てるという自信が昂然と湧きおこり、持ち前の闘志がこのままで許さなくなった」
↓
「然し逆に、私の年来の着想をもつてすれば必ず勝てるという自信が昂然と湧き起り、持前の斗志がこのままでは許さなくなつた」
「”絶対の自信」→「絶対の自信」、「生産体制」→「生産態勢」、「TTレース」→「T・Tレース」、「是非とも完遂し日本の機械工業の真価を問い」→「是非完遂しなければならない。日本の機械工業の眞價を問い〜」、「優勝するためには精魂〜」→「優勝するために、精魂〜」
87頁「〜衝程機関に在りては一五〇t以下、二衝程機関に在りては九〇cc以下〜」
88頁「平たく訳せば〜4ストロークは150t以下、2ストロークは90t以下〜」
「衝程機関に在りては一五〇t以下」は「四衝程機関〜」の誤り。原文が誤っていたのか、「日本のレーシングモーターサイクルの歴史」(八重洲出版1973)の誤りを写したのか。
65頁「(写真説明)マン島は〜」
この写真はマン島ではなく、シンガポールGPかジョホールGP。
68頁(クロスネジについて)
本田宗一郎がクロスねじ(プラスねじ)を日本に持ち帰ったのは1954年ではなく1952年。藤沢武夫氏の著作の誤りがそのまま引用されている。
クロスねじの特許権者(1953年特許満了)は、アメリカのフィリップス・スクリュー社で、日本への導入は、1938年に大沢商会が特許契約し、大阪の日本金属精工で国産化し、戦後、東洋プラススクリュー(現「トープラ」)、山科精工(現「ヤマシナ」)、尾張時計(現「尾張精機」)、昭和螺旋鋲などが特許権を受けて生産を始めたもの。ホンダ製品にクロスねじが使用されるようになったのは1953年である(「本田宗一郎とプラス(クロス)ねじ
−ホンダの現場にプラス(クロス)ねじの導入時期を巡って−」(出水明、大阪産業大学経営論集 第14巻第1号)。
なお、社名にプラススクリュー(クロスねじ)を冠した東洋プラススクリューの設立は1950年3月である。
したがって、68頁末尾の「いやになっちゃうよな、ネジ一本でも日本は遅れているもんな」は(ホンダのクロスねじ導入前なので)「〜ネジ一本でもホンダを含む多くの日本企業は遅れているもんな」が適切ではないか?
78頁「NSUのマックスを〜この車のカム駆動の方式は熱い注目の的だった。傘歯車(ベベルギア)使うこの方式は〜」
NSUマックスのOHCのカム駆動に用いられるギアはヘリカルギアで、これでクランクシャフトの回転数を1/2に減速し、上下各2組のエキセントリックシャフトとコントロールコンロッド×2、スペーサーコンロッドでカムシャフトを駆動する。Technische
website NSU motor - Hans Homburg - NSU Ultramax camshaft drive system (nsu4.nl)
1953-54年に250t世界GPでタイトルを手にしたレンマックス(Rennmax)はベベルギア・シャフト駆動だったが。
109頁「(写真説明)みづほ自動車製作所のキャブトンは500tクラスで3位だったが、1位、2位のDSKとメグロが〜失格となり、キャブトンが繰り上げ優勝となった」
107頁の結果と全く異なる記述だが、これはチーム賞のこと。115頁ではチーム賞は「1 大東チーム 2 みづほチーム」となっており、大東(DSK)の失格によりみずほのチーム優勝となったもの。したがって、メグロの失格はチーム賞には無関係。
142頁「荒川土手のテストコース」
「荒川河川敷のテストコース」の誤り。49頁写真参照。
「テストコースといえば聞こえはいいが、1500メートルの直線を行ったり来たりする試運転で〜」
本文のあちらこちらで荒川テストコースが1500mの直線と書かれているが、「語り継ぎたいこと-チャレンジの50年」(本田技研工業1999)67頁によれば、1958年5月に荒川テストコースが設置された時は長さ1450m・幅3mだったが、1959年2月に長さ2200m・幅5m拡張された。
従って、RC141/142のテストは2200m長の荒川テストコースでも行われたと思われる。
143頁「(1959年)ホンダはノートン・マンクスで1951年と1952年のマン島TTを連続制覇した名手、ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」
151頁「(1959年)〜日本で初めてのGPマシンを「まあいいだろう、グッドだ」と言ったデュークの言葉を単なる社交辞令として受け取るべきではなかった。それがたとえ1500メートルのストレートを走っただけで「マン島TTへ出るのだ」という日本人を「何を言っているんだ!」とデュークがなかば呆れて言ったとしてもだった」
デュークがモーターサイクル出版社(現・八重洲出版)の求めに応じて来日し、各社を訪問したのは1960年4月頃。次の写真はホンダの荒川テストコースでのデュークで1960年型250t(RC161)が写っている。
th_fH_09-HSC.jpg (1200×799) (mc-web.jp)
これはスズキの米津浜テストコースでスズキRT60に跨るデュークで、この後にテストも行われた。1960-TTレ−ス初出場
本文 (iom1960.com)
したがって、1959年のデュークに関する記述はライター氏の空想と思われる。
なお、デュークのマン島での優勝は、350t:1951・1952(ノートン)、500cc:1950・1951(ノートン)、1955(ジレラ)で、記事の「ノートン・マンクスで1951年と1952年のマン島TTを連続制覇」は350tクラスのことだけを取りあげたもの。
この記事の大元はグランプリ・イラストレイテッド1987-10の同一ライター氏の記事だと思われる。これはホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫氏(故人)へのインタビューを元にしたもので、次のように書かれている(A〜Cは私が分割したもの)。 A マン島用の125tが完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら(Cに続く) C デュークは『1冊の教科書』を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの) A、Bは1959年TTレース出場の前のようにも読めるが、Cは1960年TTレース出場前である。1959年のマン島TT125tはマウンテンコースでなくクリプスコースだし、島崎氏は1960年が初参戦だから、1960年出場前でないとマウンテンコースのガイドブックを読む意味がない。Cがなぜかライター氏には1959年出場前のことになってしまい、A、Bを作文したのではないか?。 |
144頁
1957年浅間火山レース記事ー1
(iom1960.com)
のタイムと異なるものがある。特に144頁のライト級(250t)1位のタイム・1時間22分26秒は明らかに誤りであり、1時間23分26秒が正しい。
147頁「荷物にもブレザーにも日の丸はつけて行かなかったという」
「オリンピックでもそうだが、何が何でも日の丸、日の丸で行くのは考えものだという思いが宗一郎氏にはあった」
「〜日の丸を仰々しくかかげて行くことはない。ホンダの名前とマークだけで行け。ということだったのである」
日本人ライダーのヘルメット、マシンのシートストッパーに日の丸のステッカーが貼られていた。
〇ヘルメット 155頁、こちらの頁)、
〇シートストッパー
https://msmproduction.s3.eu-west-1.amazonaws.com/s3fs-public/uploads/2015/08/Honda-1959-BobMcIntyre-RC142.jpg
Isle
of Man: N Taniguchi, one of the members of the Japanese motorbike team here for
the TT races has a technical discussion with the chief mechanic. They are riding
Honda machines in the races. 27th May 1959 Stock Photo - Alamy
147頁の記述の根拠はわからない。ライター氏の「こうあって欲しい」願望なのだろうか?
148頁「彼らはRC141を穴があくほど見まわした。彼らにとってホンダ伝統のボトムリンクは、いかにも時代遅れに見えたらしかった」
229頁「ホンダが初めてマン島に行った時、”青い目の連中”がいちばん奇異に感じたのは、例のボトムリンクだったが〜」
前年(1958年)250tランキング3位のマイク・ヘイルウッドが乗ったNSU単気筒はボトムリンクだったし、MZは1961年第3戦まではアールズフォークだった。1959年のホンダのボトムリンクを奇異に感じた人がどれほどいたか疑問。
なお、記事にRC141とRC142が記事に登場するが、RC141が2バルブ、RC142が4バルブで、RC141には田中髀普Aビル・ハント、RC142には谷口尚己、鈴木義一、鈴木淳三が乗った。
151頁「〜ギアトレーン〜」
RC142、RC141はギアトレーンではなくベベルギア・シャフトによるカムシャフト駆動。
「16000回転で18馬力」
148頁写真説明と異なる数値。148頁は参考文献(270頁)にあるHONDA R&D Technical Review 1994
vol.6に記載の数値で、以下、本文の出力数値は参考文献の数値と全く異なる。
152頁「マン島では土・日曜日は銀行が休み〜バンクスホリデーと呼ばれるその日は〜「日本からホンダという軍隊がやってきた。彼らにはバンクス・ホリデーなどというものは全く関係ない〜」と、新聞に書かれた
監督だった河島氏も土日のバンクスホリデーについてインタビュー記事で語っていた。しかし、バンクホリデー以外にバンクスホリデーもあったのか? 1959年5月のバンクホリデーは4、25日(何れも月曜日)。
一方、1959年のマン島TTの公式練習※は5月25、27、28、29、30、31日(月、水、木、金、土、日)、6月1日(月)で、土日・バンクホリデーでも公式練習は行われた。
メカニックの廣田氏は「僕らとすれば、見物人のいない夜の方が、のびのび仕事ができる。そしたら、日本人は天井のネズミ、なんて新聞に書かれました」(「語り継ぎたいこと-チャレンジの50年」(本田技研工業1999)54頁)と語っていたが、これは公式練習ではなく、その前の市販車による(閉鎖されていない)公道での練習のことである。公式練習は早朝(4:45〜7:15)、夜(17:40〜21:30、日没は遅い)行われるので、マシンの整備が深夜になるのは珍しくない。
※この全ての日でクリプスコースが使用されたかどうかはわからない。
「(写真説明)MVアグスタのレーシングモデル」
このマシンはドゥカティ。タンクが赤くないし、燃料タンクのエンブレムはドゥカティのもの。
153頁「4台のRCとハントのCB95がグリッドについた」
写真からハントのマシンはRC141またはRC142と分る。そしてRC142が与えられたのは谷口、鈴木義一、鈴木淳三の3人とされるので、ハントのマシンはRC141。
Bill Hunt (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT (ttracepics.com)(レース中)
D5o5XyKWAAERsV8.png
(496×316) (twimg.com)(プラクティス中)
「日本のレーシングモーターサイクルの歴史」(八重洲出版1973)掲載の河島喜好社長(1959年当時は監督)のコメントでは「ビル・ハントが〜練習用のCB125でレースに出場した。多分、アメリカ人気質だと思うが、本場のレースに出られたコトだけに喜びを感じているようだったが〜」とあり、多くのライター氏がこれを信用したように思う。なお、CB95は154tなので125tレースに出場することはありえない。
158頁「チームの4台のうちの3台が規定時間内に完走したことによって、メーカーチーム賞がホンダに贈られた」
メーカーチーム賞は3台を登録したメーカーチームによって争われるもので、ホンダでは谷口(6位)、鈴木義一(7位)、鈴木淳三(11位)が登録され、島崎(8位)はメーカーチーム賞対象外だった。鈴木淳三が後ブレーキ故障でピットインしたがリタイアせずに完走したことがメーカーチーム賞に繋がった。
「優勝はMVアグスタのプロビーニ〜タイムは1時間27分25秒〜」
「1時間27分25秒2」の誤り。168頁のホンダ社報の誤りと同じ誤り。 参考:TT 1959 Ultra Lightweight TT Race Results - iomtt.com: The World's #1 TT Website
「2位はMZのタベリでプロビーニにわずか0.5秒6の遅れ」
「プロビーニに7.4秒の遅れ」の誤り。
161頁「(写真説明)日本に帰国したホンダチーム」
これは日本出発時のもの。帰国時、右端の関口氏、左から4人目の廣田氏は別行動だった。
168頁
社報の写しをそのまま掲載する意味は認めるが、内容はチェックするべきだし、まして誤った内容を元に記事を書くべきではない。
9位がF.パースローで10位が空欄だが、「9位 T.ロブ、10位F.パースロー」の誤り。また、F.パースローの国籍は「伊」ではなく「英」の誤り。
タイムが誤っているライダーの正しいタイムは次のとおり。プロビーニ:1時間27分25秒2、ウビアリ:1時間30分55秒8、鈴木義一:1時間37分3秒4、田中髀普F1時間28分58秒6(1周遅れ)、鈴木淳三:1時間31分18秒6(1周遅れ)
177-178頁 「その北野選手の前では、15歳のデピューレースで2位を飾った経歴を持つ、オーツキ・ダンディ号の生沢徹の名前を薄れてしまった。
前年の1958年の第1回全日本モーターサイクル・クラブマンレース(8月24日)に生沢徹が125tクラスに50tのオーツキ・ダンディで出場したが入賞はしなかった。そして、1959年、生沢は第2回全日本モーターサイクル・クラブマンレース50tクラスでスーパーカブに乗り2位入賞した。記事は1958年と1959年をごちゃ混ぜにしたもの。
また、「15歳」は1958年のレースのエントリー時で、レースの3日前に16歳になっていた。
178頁「田中健二郎選手は2位ながら107.8km/hの最高ラップ」
「106.8km/h」の誤り。1周9.351km、5分15秒だった。
186頁「(125tRC143)キャブレターは〜フラットバルブからピストンバルブに変更さ
188頁(250tRC161)〜キャブレターはピストンバルブで、フロート室は別体。
245頁(250tRC162)フラットバルブタイプからピストンバルブタイプに変更された。
246頁(250tRC162写真説明)〜キャブレターはフラットバルブからピストンバルブに〜」
188頁と245・246頁の記述が異なる。1960年のRC143、RC161のキャブレターはフラットバルブ。
187頁「河島喜好氏の談によると「4気筒250はマン島から帰ってきてからわずか2ヶ月で設計試作を完了した」とあるが〜これは驚くべき速さと、感心してしまう」
188頁「2ヵ月という短い期間で4気筒を浅間に送ることができたのは〜」
270頁の参考文献にあるHONDA R&D Technical Review 1994
vol.6に掲載されたホンダOBの八木静夫氏のペーパーによると「1959年TTレース出場を目指して250t直列4気筒RC160〜の開発が始まった〜TTレースには出場しなかったものの1959年の第3回オートバイロードレースには出場し優勝をした」とあり、諸元表-3では開発時期を「59/3〜」としている。
また、178頁で浅間登場のかなり前からテストコース等での走行が目撃されていたことが書かれており、これが事実なら「2ヵ月」が有り得ないことは明らか。
187頁「(写真説明)スクリーンにぶつかった虫の死骸や汚れなどを拭き取るために濡れたスポンジ〜」
大きさからしてゴーグルのレンズ拭き取り用ではないか?
190頁「60年のシーズンに向けてこのカウリングは東大・航空研究所の風洞でライダーを乗せて空力を追及することになる。
1960年シーズン前に初の風洞テストが行われたかのような文だが、1959年TTレース前にも行われた(191頁の写真)。
194頁「第1回の浅間火山レースに、スズキは発売間もないが好評のSTをベースにしたSTレーサーを送り込んだ。ノーマルのボア・ストローク52×58(mm)を52×50(mm)にしたスペシャルマシン〜」
52×50mmの排気量は106.2ccにしかならない。鈴木自動車工業(株)50年史には次のように書かれている。
「〜コレダST型(2サイクル125cc)の生産車を仕上げた直後であったが、これらとは全く別の角度から新しいレーサーを造ることになった。丸山設計課長以下のスタッフが設計を担当することになり〜わずか40日で設計試作を終わった。出来上がったレーサーSV型は、市販車と異なって1本パイプのフレームで、後輪はスイングアーム式を採用したが、当時としては議論の的となった。エンジンはボアー52mm、ストローク58mmで、ST型と同じであったが、シリンダーのポートタイミング、空気通路には新しいアイデアを取り入れ、ミッションは市販車より1段増やして4段とした」。
199頁「セルツインSBをベースとし、RTと呼ばれるエンジンを完成させ〜」
「(写真説明)セルツインSBをベースにチューニングし〜」
このライター氏の「ベース」は「2ストローク並列2気筒ピストンバルブ吸気という形式が同じ」ぐらいの意味ではないか。SBとRTはボア×ストロークも異なる。
エンジン設計担当だった中野広之氏によると 1960-TTレ−ス初出場
本文 (iom1960.com)
〇(1959浅間の後)10月に125cc2気筒RFXの開発に着手
〇1959年12月末 RFXをベースにしたRTの設計に着手
〇1959年1月下旬 RFX完成、公道テスト(浜松の西方の国道一号線で、新居町〜汐見坂)
〇1959年2月 RFXをホンダの荒川テストコースでテスト
〇1959年3月20日頃 RT60完成
〇1959年3月23日 スズキの米津浜テストコース完成、同コースでRT60のテスト開始。
「完成しても走る場所がなかった。RBなら近くの公道を走っても大目に見てもらえたが〜」
前述のように公道でのテストが行われた。
「(写真説明)「ホンダの荒川テストコースでテストを実施し、完成したのがRT60だったという」
前述のように荒川テストコースでテストされたのはRFXで、RT60は米津浜テストコースでテストが重ねられた。3月下旬からスズキ米津浜テストコースでテストが行われたことが書かれていないので、スズキのテストがホンダの荒川テストコースのみで行われたかの印象を読者が持つのではないか?
200頁「(荒川テストコースで)2台のRTが走り始めたのであった」
前述のように荒川テストコースで走ったのはRTではなくRFX。
「(写真説明)一度は浅間レース撤退宣言を発したスズキだったが〜」
1955年の浅間の後は撤退宣言があったが、1959年の浅間の後は撤退宣言はなかったはず。だからこそ浅間の後、スズキでは翌年の浅間(この段階では中止は決定していなかった)に向けて125t、250tレーサーの開発がスタートしていたのである。
なお、写真手前に写る少年は若きバリー・シーンではないか?
202頁「グランプリコース17.36km」
クリプスコースをグランプリコースと呼ぶことがあったのか?
203頁「マウンテンコースは11戦開催されたGPの中で〜60.37kmのコース〜」
216頁「デュークは1周60.37kmの〜」
1960年の記事の途中に203頁の図・説明があるが、1960年は全7戦。
コース長は60.725kmなので四捨五入するなら60.73km。
219頁「高低差600メートル〜」
203頁では「410m」になっている。600mは山頂の標高。
222頁「スズキは16位に市野三千雄が入り〜」
スズキの最上位が市野のような書き方だが、スズキ最上位は15位の松本聡男。
「(写真説明)ゲイリー・ホッキング〜1959年にMVアグスタと契約し〜」
ホッキングは1959年の350、500はノートン、250tはMZ(2勝)に乗り、125tでもMZに乗り、最終戦でMVアグスタに乗ったので、「1959年シーズン終わり頃からMVアグスタに乗り始め」の方がよい。
223頁「ウビアリは24分17秒6、平均138.58km/hのベストラップ〜」
「26分17秒6」の誤り。226頁の結果表と同じ誤り。24分17秒6なら平均149.98km/hになる。
226頁「(125t5位)H.アンダーソン 1時間22分0秒6」
「B.アンダーソン 1時間22分0秒8」の誤り。BobはRobertの愛称なので「R.アンダーソン」の方がよいだろう。
「(125tベストラップ)C.ウビアリ 24分17秒6」
「26分17秒6」の誤り。
「(250tベストラップ)C.ウビアリ〜153.71km/h」
「153.6km/hの誤り」
231頁「駐留軍の軍人として青森県の三沢に来ていて〜あちこちのクラブマンレースを荒らしまわっていたビル・ハントをアメリカからマン島に呼び寄せた」
ハントは軍属(軍に雇われた民間人)として知られている。ハントは1958年のクラブマンレース(MCFAJ)で優勝したが、それ以外にクラブマンレースがあったのか?この「クラブマンレース」はアメリカのことなのか? また「三沢に来ていたハントをアメリカからマン島に呼び寄せた」とは?1月にハントとホンダの新妻一郎氏がマン島の事前調査をしたことをライター氏は知らないのでは?
234頁「ソリチュードは11.36キロ」
当時の記録では11.417km辺り。
「(田中健二郎)ディルとデットヒートの末、1.1秒の差で2位に入ったのだ」
「ディルとデットヒートの末、1.1秒差で退け3位に入ったのだ」の誤り。
237頁「250t優勝のホッキングとブラウンの差は5秒8、125t優勝のウビアリと谷口の差は5秒27」
レース名が書かれていないが、マン島のことなら「250t優勝のホッキングとブラウンの差は5分0秒8、125t優勝のウビアリと谷口の差は5分27秒8」の誤り。
242頁「FIM(モーターサイクリズム連盟)」
「FIM(国際モーターサイクリスト連盟)」とすべき。1998年に「Fédération
Internationale Motocycliste」から「Fédération Internationale de
Motocyclisme」に名称変更。
244頁「RC144〜〜〜(頁終わりから2行目)シーズン後半からは再び44×41のショートストロークの2RC143を投入、結局はこのマシンが大活躍して〜」
第1戦ではRC143(エンジンは2RC143Eの可能性あり)のみが走り、第2戦でRC144で登場、第3戦以降2RC143エンジンをRC144フレームに搭載した2RC143E/RC144Fが第一線マシンとなっっていた。
245頁「(写真説明)RC143〜」
写真のマシンは2RC143E/RC144F。アルスターGPでのトム・フィリス(3位)。
247頁「250tのチェッカーを高橋選手が受けた瞬間、河島監督以下全員は総立ちになり、そして飛び出していった」
チェッカーを受けるまで河島監督以下全員は大人しく座っていたのか? 1位がチェッカーを受けた直後、他のマシンが続々とゴールしているのにどこに飛び出したのか?
251頁「(高橋)〜イタリアGPの125tでは6位、250t4気筒の成績は、やはり高橋国光が〜」
「〜イタリアGPの125tでは6位、250t4位の成績は、やはり高橋国光が〜」の誤り。
256頁「ベストラップ〜最高速度」
「ベストラップ〜平均速度」または「ベストラップ〜最高平均速度」の誤り。
「〜125tの方も西ドイツGPを落とした他は絶好調で次のフランスGPでは〜フィリスがベストラップを出して優勝〜」
第2戦西ドイツでRC144が登場するがMZに上位独占を許し、RC143に乗るタベリの5位がホンダ最上位。急遽、RC144Fに2RC143Eと搭載したマシンが製作され、第フランスGPでフィリスはデグナー(MZ)と接戦の末、0.2秒差で退けて優勝したのだが、これが「絶好調」か。
258頁「〜英国で最も人気のある”火の玉”ボブ・マッキンタイア〜」
The Flying Scotという異名は知られているが、これが「火の玉」なのか?
258頁「(マイク・ヘイルウッドの父親)契約したフランスGPでは、いちばん調子の良いRC162にマイクを乗せろと言い張り」
258-259頁「(ヘイルウッドは)初めて乗るRC162を乗りこなし、フィリス、ヘイルウッド、高橋国光のワンツースリー・フィニッシュ〜」
ヘイルウッドが世界GPで初めてホンダ250ccに乗ったのは第3戦フランスではなく第2戦西ドイツで、第2戦、第3戦とヘイルウッドはRC162ではなくRC161に乗り、第4戦マン島で初めてRC162に乗った。フランスGPでのヘイルウッドとRC161。Mike
Hailwood , Honda 4 cylinder 250cc. French GP 1961. (pinterest.jp)
ヘイルウッドがホンダ125tに初めて乗ったのは第4戦マン島。ヘイルウッドはプラクティスで当初は60年型に乗ったが、ヘイルウッドの父親が61年型125tを要求し、タベリのスペアマシンがヘイルウッドに回ってきたことが知られている。ライター氏はこのことと勘違いしたのか?
「絶好調のRC144」
244頁に記載のRC144がそのまま走ったかのような印象。第1戦ではRC143のみが走り、第2戦でRC144で登場、第3戦以降2RC143エンジンをRC144フレームに搭載した2RC143E/RC144Fが第一線マシンとなっっていた。
「ヘイルウッド、タベリ、フィリスは1周目で早くもウビアリの137.76km/hのラップレコードを5km/h近く上回る142.35km/hを出し〜」
3人が同じラップスピードを出したかのような記事なので誤りとすぐ分る。正しくは
「ヘイルウッド、タベリ、フィリスは1周目で早くもウビアリの138.58km/hのラップレコードを破り」または
「ヘイルウッドは1周目で早くもウビアリの138.58km/hのラップレコードを3km/h破る141.7km/hを出し〜」
ウビアリのラップレコードは223頁に正しい数字がある。また、142.35km/hは3周目にタベリが記録した最速ラップ速度。
「(ホンダ勢の)そのあまりの速さについつられたMZの至宝、デグナーが2周で戦意をなくして脱落〜」
「2周目にエンジン故障で脱落」の誤り。
「ヘイルウッドもすぐにタベリを追い〜」
マン島TTレースは2台ずつ10秒間隔でスタートするタイムレースで、タベリはヘイルウッドの10秒先にスタートし、道路上ではヘイルウッドがタベリの前後を走ったが、タイム上で常にヘイルウッドがタベリをリードしていた。
261頁「ジョン・サーティーズの再来と言われたマッキンタイア〜」
マッキンタイア(1928年生まれ)がサーティーズ(1934年生まれ)の再来か?レース歴がかなり重なっているが?
マッキンタイア〜彼は1周目でウビアリの出した152.75km/hを破る160.22km/hを出し、2周目にはジョン・サーティースがMVアグスタの4気筒で出した158.75km/hを破る160.221km/h〜観衆は彼がオーバー・ザ・トン(平均時速160km以上で走ること)を達成することを信じた」
「マッキンタイア〜彼は1周目でウビアリの出した153.6km/h(1960)を破る159.05km/hを出し、2周目にはジョン・サーティースがMVアグスタの350t4気筒で出した159.6km/h(1960年)をも破る160.27km/h〜観衆は彼がオーバー・ザ・トン(平均時速100マイル(160.9344km/h)超)を達成することを信じた」の誤り。
「(マッキンタイア)4周目の終りに惜しくも脱落する」
「5周目半ばのクオーリーベンズで脱落」の誤り。
「(6位、ヤマハの)伊藤史朗。さらにはスズキ勢が目立つのみ」
263頁の結果表でスズキ勢が目立っているか?
263頁
1961年のレース距離が1960年(226頁)と異なっているが、1960年のものが正しい。このため1961年の平均速度も全て誤り。
266ぺージ「(本田宗一郎)私が1959年にマン島TTレースを見に行ったとき〜」
「1954年」の誤り。