本田技術研究所記念誌の記事

 

以下は、「Dream 2 創造・先進へのたゆまぬ挑戦」(1999 株式会社 本田技術研究所)の一部の記述についての校正である。
 

125t5気筒についての記述(RC149についてはこちら

281頁
 
「鈴鹿で発生したトラブルを解決するために、荒川テストコースで耐久テストが実施された。’66年2月には、テストのために来日したルイジ・タベリが、荒川でRC149に試乗した。〜熱血漢タベリのライディングのおかげで、それまで露呈していなかった冷却の問題が指摘されたのだった。前年の日本GPで発生したナット落ちトラブルは、オーバーヒートによりシリンダーヘッドが熱膨張したため発生したことが、この時点で明らかになったわけである。」
 「〜設計陣は大急ぎで対策を練りはじめ、試行錯誤のすえ、小型のオイルクーラーをカウリングに取り付けるという対策がとられた。その結果、著しい冷却効果が現れ、油温は一気に30℃以上も下がったのだった」
 「RC149にオイルクーラーを取り付けると決まったその日から、エンジン設計者と車体設計者が協力して作業にとりかかり、わずか2ヵ月足らずで冷却の問題を解決してしまったのである」

 これらをまとめると次のようになる。
(1) 1965年10月23日に開催された1965年125t日本GPに出場したRC148には、オイルクーラーは装着されていなかった。
(2) それから4箇月、真冬の2月になってもトラブルの原因が分らず、同月のタベリのテストによりやっとオーバーヒートと判明した。
(3) 対策としてオイルクーラーを装着するのに「2か月足らず」を要した。

 実はホンダ125t5気筒が初登場した1965年日本GPの時点で、125t5気筒にオイルクーラーが装着されていた。
 
 左の写真で、オイルクーラーへの配管、フェアリング(カウル)右前(写真では左端)のオイルクーラー導風口が見える。右写真(ライダーはルイジ・タベリ)で、フェアリング左のオイルクーラー導風口、排風口が見える。

 従って、上の記念誌の文は、基本的に誤りである。そもそも、(2)、(3)からするとホンダの技術レベルは相当低いことになる。

250t6気筒についての記述(RC165-2RC166についてはこちら

285頁
 
「(1964年)日本GPではRC165に乗るジム・レッドマンが優勝し、2位にもRC165の乗る粕谷勇が入り、モンツァでの雪辱を晴らしたのである」
 「その後、’65年用のRC165にはオーバーヒート対策として、カウリング両サイドにオイルクーラーが設けられた。しかし、’65年にレッドマンは250tクラスで3勝しかあげられず〜」

 1964年日本GPで2位入賞の粕谷のマシンは6気筒ではなく、4気筒2RC164。RC165に乗ったのはレッドマンとタベリ。

 また、1965年、ホンダ250t6気筒のフェアリング両サイドにオイルクーラーが装着されたのは1965年最終戦日本GP。1965年、250t6気筒は第4戦フランスGPで初めてGPを走るが、下の5枚は第4戦から第8戦東ドイツGPまでのもので、フェアリング両サイドにオイルクーラーはない。 

フランス マン島 オランダ ベルギー 東ドイツ

 これ以外の記事も推して知るべしである。これらの記事を書いたのは本田技術研究所の方なのだろうか。記事のレベルが余りに低いので、外部のライターが書いたものと信じたい。しかし、たとえそうであったとしても、その記事が何のチェックも受けずに本田技術研究所の記念誌に掲載されたのである。

      公開公正