走る実験室

 以下はライディングスポーツ誌2009-3号の記事である。

 さて、バイクメーカーにとってのMotoGPとは、いったいどういう意味があるのだろうか。以前、まだ2輪車製造の技術が完全ではなかったころは、レースは『走る実験室』と呼ばれ、次の量産車へつながる新しい技術やノウハウを、短期間にメーカーが得ることができた。莫大な予算をかけて世界最高峰のレースに出ることは、その先の量産車販売につながる重要な手段だったのだ。しかし、ガソリンエンジンを使ったバイクの形がある程度円熟期を迎えた今、必ずしも最高峰クラスのレースが新技術の取得につながる訳ではなくなっている。例えばニュウマチックバルブ。ほどんど量産車へのフィードバックはないと言われている。量産車で1万8000回転以上を常用するエンジンが必要だろうか。その証拠にホンダ以外の国内3メーカーは自社開発せずに汎用の物を使っている。3メーカーとも同じ会社から買っているとも言われているが、これなどはもはや、MotoGPが走る実験室ではなくなっている顕著な例だろう。そのほかにも数多く、量産車にフィードバックし難い技術がMotoGPには使われ、ファクトリーマシンの自社パーツ率は大幅に下がっている。
 「2輪車製造の技術が完全ではなかったころ」ということは「今は完全で技術開発の必要はない」と考えているのだろう。そうであればメーカーの技術部門の大半の社員を解雇しなくてはならない。

 そもそも「走る実験室」とは「走る実験室と呼ばれ」というような一般的な言葉でも認識でもない。これはホンダの宣伝文句である(右は1967年東京モーターショーでのホンダブース)。この言葉の発案者とされる中村良夫氏(故人)はF-1チームの監督だったが、

○なかなか思うような成績が挙げられない言い訳として使った言葉が独り歩きしてしまった。
○F-1はレースそのものであり、実戦的でなくてはならず「実験室」であってはならない。

というようなこと中村氏が自著で書いていた記憶がある。ホンダの宣伝文句をレース界の常識であるかのように書いていることが、この文を書き出しから陳腐なものにしてしまっている。

 また、「量産車で1万8000回転以上を常用するエンジンが必要だろうか」といわれるが、レーシングエンジンと一般市販車の常用回転数が異なるのは100年前から同じであり、この理屈でいえばレース活動は100年前から無意味である。

 また、国内4メーカーの一般市販車のピストン、ピストンリング、パルブ、バルブスプリング、クランクシャフトはおろかシリンダーブロック、そしてこれらの熱処理、表面処理はどこまで自社で行っていると認識しているのだろうか(こちらのメーカーをご存知ですか?)。ニューマチックバルブスプリング機構を他社開発 品に委ねているからといって特異なことではない。レース活動に限らず、二輪車の開発は二輪車メーカーだけでなく、関連会社挙げて行うものである。

 ところで、1959年から1967年までのホンダの世界GPレース活動で、ホンダは50cc2気筒、125cc5気筒、250cc6気筒、そして500cc4気筒といったレーサーを走らせていたが、これらのマシンのほとんどは、DOHC4バルブ、組み立てクランク+ローラー(又はボール)ベアリングだった。レース活動の成果のはずのCB750は並列4気筒ではあったが、SOHC2バルブで、クランクシャフトも一体クランク+プレーンベアリングだった。ファクトリーレーサーの「フィードバック」は見かけ上、「4気筒」ということだけだった。 
 また、カワサキは1960年代に4ストロークエンジンによるレース活動は行っていなかったが、1972年にはあの900ccZ1を産み出したのである。

 レーシングマシンの技術の一般市販車への直接のフィードバックというのはいつの時代のことなのだろうか。ヤマハのモノクロス、パワーバルブは競技用マシンで先に用いられ、後から市販車でも用いられるようになったが、レース活動がなければ市販車に用いられることがなかったとはいえないだろう。パワーバルブ自体、排ガス対策用として研究された機構である。

 素人の目で見て分るようなメカニズムだけが「技術」ではない。素人には分らない技術、そして具象化される前の何の役に立つか分らない技術が重要である。そして、レースの現場ではヤマハの古沢氏がいうところの「徒手空拳の技術」(PDF)が重要な役割を演じる。コンピューターの設計プログラムは人間がある前提をもとに作成したものであって、その前提と異なる条件では間違いをしでかす。基本に立ち返って検証、設計ができる技が必要なのである。このような修練の場としてもレースは貴重なものだろう。

 ライダーを支える日本のメーカーのレーススタッフは、経歴の大半がレースという方もいるが、多くは一般市販車開発部門等と交流する。これはレース活動だけを考えると弱点ではあるが、メーカーとしてレース活動を行う意義を考えるならば当然のことである。そう、メーカーとしてレース活動、特にファクトリーマシンによるレース活動を行う意義は、技術者自身の技術の獲得なのである。

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