ホンダWGP参戦50周年記念冊子
1959年にホンダがマン島TTレースに初出場してから2009年で50年になり、ホンダからWGP参戦50周年記念冊子が公開されている(PDFファイル)。このような企画は非常に嬉しいことではあるが、残念ながら下表のとおり記述の間違い等が非常に多い。英語版の記述は簡略化されているので大きな間違いは少ないが、フォトギャラリーの説明は間違いが非常に多い。間違いの内容からすると、こ れらの記事はホンダ自身ではなく外部のライターがまとめたようだ。
ホンダが世界選手権ロードレースに参戦を開始した1959年以降、ロードレースの歴史は日本のメーカー抜きに語ることはできないし、私はそのことを日本人として誇りに思う。しかし、メーカー自身にその歴史を正しく後世に伝える能力はない。あるのは・・・
頁番号は電子ファイル上の頁。チェックしたのは7〜10頁、13〜14頁、16〜20頁だが、平均速度等はチェックしていない。記憶を中心にチェックしたので他にも間違いがあるかもしれない。 |
頁 | 原文 | 間違い等 |
8 | 125ccTTレース出場用エンジンには〜当時としては相当なショートストロークのボア44×ストローク41mm、1気筒62ccの2気筒エンジンは、ほとんど類がないものだった。 | 1957年まで走っていたジレラ125cc2気筒レーサーのことを考慮すれば、「ほとんど類がない」とは言い過ぎ。 |
9 | '65年RC149(写真説明) | '66年の間違い。 |
9 | 〜2気筒のRC112〜わずか33mmという極小のボアに4個のバルブを配した〜プラグ径は8mmだった。 | RC112は2バルブ、プラグ径10mm。 |
9 | 125ccではRC145が10戦全勝。250ccは〜、参加した9戦で全勝。 | 250ccのみに「参加した」とあるので、125ccは全戦全勝のように受け取れるが、125ccも250ccも最終戦を欠場している。 |
9 | 125ccは開幕戦こそ勝てたが以後スズキが8連勝。 | 「以後」だと開幕戦も含むように思う。 |
9 | (1963年)RC172のアドバンテージは大きく8戦6勝。 |
レッドマンが優勝した日本GPはホンダ3台しか出場しなかったため、世界選手権ではない。7戦5勝が正解。 |
9 | ’64年、125tと350tではほぼライバルはなく〜 | 125tクラスで、ホンダは出場10レースで7勝、3勝はスズキだったが、これが「ほぼライバルはなく」か? |
9 | (250t6気筒)イタリアGP2位、日本GP優勝 | イタリアGPは3位の誤り。 |
9 | (1964年)50ccは5戦4勝。 250ccは11戦3勝。 |
ホンダは全8戦中7戦出場している。おそらく欠場したUS、不本意な成績に終わった序盤のスペイン、フランス、そして終盤のフィンランド(ホンダのブライアンズはリタイア)を無視し、ホンダ5台しか出場せず世界選手権にならなかった日本GPを計上しているのだろう。 4勝ではなく3勝が正解。ブライアンズが優勝した日本GPは世界選手権ではない。 ホンダは250cc全11戦中10戦出場している。 |
9 | (1965年)50ccに〜7戦5勝。 | 50ccの「7戦」は、欠場した第1戦USを除外したもの。 |
10 | ライバルの2ストロークも水冷化、多気筒化と大きく進歩していた。 |
この年のスズキ、ヤマハの125ccは2気筒だった。スズキは1963年から、ヤマハは1964年から2気筒であり、1965年から多気筒化したわけではない。 |
10 | (1965年125t日本GP)RC148〜13秒遅れの2位〜 | 14.2秒遅れの誤り。 |
10 | 250ccでは〜12戦4勝。 | ホンダ6気筒はライダーの負傷等もあり、全13戦中7戦に出場するに留まった。「12戦」は意味不明。 |
10 | 350ccでは、MVがDOHC12バルブ3気筒を4台投入し、 | スターティンググリッドに4台のマシンが並んだように読み取れる(実は2台)。 最終戦日本GPに持ち込んだのは4台といわれているが、他のレースでもそうだったのか。また、仮にそうだったとしてもその4台が更新されなかったのか。 |
10 | 同じ日、1965年10月24日。HondaF1がメキシコGPで初優勝した。 | 日本GP350cc決勝が行われたのは10月23日(土)。この年の日本GPでは土曜日に125cc、350cc、日曜日に50cc、250ccレースが行われた。 |
10 | そして、2輪GPチームは過去に例を見ない空前の目標をうち立てた。 | 「66年」という単語がないが、1966年ということが分かるだろうか。 |
10 | (1966年)ライダーは50ccと125ccにルイジ・タベリ、250ccと350ccにマイク・ヘイルウッド、500ccにジム・レッドマンという充実の布陣で臨んだ。 レッドマンが3戦目に転倒・負傷すると、ヘイルウッドが250、350、500ccの3クラスにエントリーした。 |
50cc、125ccにラルフ・ブライアンズが抜けている。 後段の正解は「250cc、350cc、500ccにマイク・ヘイルウッド、ジム・レッドマンという布陣で臨んだ」。 西ドイツGPでヘイルウッドは250cc、350ccに出場、レッドマンは250cc、500ccに出場しているが、これは「1日当たり走行距離規制」のためである。 500cc2戦目となるオランダGPではヘイルウッドは3クラス出場している。従って、続く「レッドマンが3戦目に転倒・負傷すると、ヘイルウッドが250、350、500ccの3クラスにエントリーした。」は間違い。 ところで、3クラスを2人で戦う布陣を「充実の布陣」というらしい。 |
10 | (第7戦チェコスロバキア)シーズン2度目の4クラス制覇〜 | 「シーズン2度目の125t以上4クラス制覇とすべき。1回目は第2戦ドイツだが、第4戦オランダで50、250、350、500の4クラス制覇している。 |
10 | こうして最終戦を前に全てのクラスでメーカータイトルを獲得した。 | 第8戦以降の記述がないが「こうして」なのか? 全てのクラスは「ソロ全てのクラス」とすべき。 |
10 | 250t10戦10勝。 350cc8戦5勝。 500cc8戦6勝。 |
ホンダは250t全12戦中11戦に出場し10勝。グレアムのみ出場したアルスターGPが漏れている。 ホンダは350cc全10戦中8戦に出場し6勝。 ホンダは500c全9戦中9戦出場し5勝。 |
10 | (1967年)500tクラスでは、ヘイルウッドがマン島において、その後10年間破られることのなかったラップ記録175.05km/h〜 | 「10年間」は8年間または9年間の誤り。 「全クラスを通じて」なら1975年にミック・グラントがカワサキ601(KR750)でヘイルウッドの記録を破った。 「500tクラス」なら1976年にジョン・ウィリアムスがスズキXR14(RG500)でヘイルウッドの記録を破った。 |
14 | GP3レースに出場、15位と12位で2レース完走。 | イギリスGP、ドイツGPはレースを走ったが、フィンランドGPは予選のみ。 |
16 | '83年 マルコ・ルッキネリ(写真説明) | '82年の間違い。 |
16 | 2ストローク112°V型3気筒ケースリードバルブ吸入。 | NS500はケースリードバルブではなくピストンリードバルブ。 |
16 | Hondaにとって16年ぶりのGP500メーカータイトルであり、初の個人タイトルだった。そして、パーフェクトに限りなく近い性能を実現したNS500は、スペックをそのままに市販レーサーRS500として市販され〜 | RS500でなくRS500R。 RS500Rが市販されたのが1984年のような文になっている。 |
18 | ライバルの2軸90°V型4気筒ロータリーバルブ吸入に対して〜 同時にシンプルな3軸構成とした新型エンジンを搭載したマシンは、NSR500と名付けられた。 | 40°V型4気筒の誤り。 1984年型NSR500は4軸構成で、1985-86年型NSR500が3軸構成。 |
18 | スペンサーは2勝をあげたものの途中からNS500に乗り換え | スペンサーはNSR500で3勝、NS500で2勝している。 スペンサーが乗ったマシンは、NSR500で1レース(1勝)→欠場→NSR500で1レース→NS500で1レース(1勝)→NSR500で3レース(2勝)→NS500で1レース(1勝)→欠場。これを「途中からNS500に乗り換え」とは乱暴。 |
18 | GP250初の | 1960年代の250ccクラスタイトル獲得が忘れられている。 |
18 | 各気筒のクランク角度と点火時期の設定、ファイアリングオーダーの本格的な開発がスタートした。 | クランク角度、点火時期、ファイアリングオーダーの意味が分かっているのだろうか。 |
19 | 偶然にも112°Vではこのクランク位相(角度の設定)で理論的1次振動が解消できたため、エンジンは'86年以来の3軸構成に戻され〜 | 偶然ではない。112°Vで1次振動を解消しようとして68°-292°間隔にしたのである。 1992年型は3軸構成ではなく4軸構成。1次慣性力は力としては釣り合うが偶力が残っておりバランサーシャフトが必要。ジャックシャフト(プライマリーシャフト)をバランサーシャフトにしている。 |
19 | (1992年)その独特の排気音からスクリーマーと呼ばれたこの新型エンジン | 何か根本的に勘違いしていないか。 |
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