マン島クリプスコース

 マン島TTといえばマウンテンコースが有名だが、クリプス(Clypse)コースが125t、サイドカーで1954〜1959、250tで1955〜1959に使用された。ホンダのマン島TT初出場(1959年6月)はクリプスコース最後の年でもあった。
 コース長についてネット上の数字は統一されていないが、こちら(Clypse - Isle of Man TT Courses - iomtt.com: The World's #1 TT Website)を採用して10.79マイル(17.36km)とする。右図(Clypse Course - Wikipedia)で黒線がクリプスコース(右回り)で、青線がマウンテンコースと共通・同方向走行で、赤線がマウンテンコースと共通・逆方向走行である。ただし、Governor's Bridgeのdipは使用されない( リンク先画像の黒線が共通部分、赤線がマウンテンコース、青線がクリプスコース)。

 マウンテンコース上の多くの地点に名前が付けられているが、クリプスコースも同様に各所に名前が付けられており、1959年のホンダレーサー走行写真等の撮影場所を特定してみた。

1 Nursery Bends

  Nursery Bendsは下左中、赤丸の地点で、左コーナーと右コーナーの組み合わせ。下中は鈴木淳三(プラクティス中)、下右は近年撮影された同地点で、下中で鈴木が写っていたのは下右の左端辺り。

 

 下左は上右の直後、下中は下左の左端を拡大したもので、上中の左端に写る金属フェンスに加え生垣が出来ている。下右は上右の奥の左コーナー。

プラクティス中
鈴木淳三 Junzo Suzuki (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #8890461 (ttracepics.com)
鈴木義一 Giichi Suzuki (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #8890463 (ttracepics.com)
谷口尚己 (1722) Pinterest

レース中
田中驩 Teisuke Tanaka (Honda) 1959 Ultra Light available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #13106809 (ttracepics.com)
ビル・ハント Bill Hunt (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #12398918 (ttracepics.com)

 上右写真でかつての木々が伐採されたことが分る。

2 Parkfield Corner

 下左は谷口(レース中)、下右は同地点の近況。

https://www.motorcyclistonline.com/1959-isle-man-tt/  

 下左は上右の撮影地点からさらに右側を写したもの。下右は上左の進入路の右側から左側の壁を写したもの。上左に写る縁石が左端にある。

 下左は同じく谷口尚己(レース中)。上左の右の建物(High School)が背景にある。下右は下左とほぼ同じ撮影地点からの近況。なお、ホンダWGP参戦60周年 挑戦と勝利の軌跡(2020年八重洲出版)59頁ではこの地点を「レッグニーバー」(Creg-ny-Baa クレッグニーバーの誤記)としているが、誤り。

プラクティス中
谷口 Isle of Man: N Taniguchi of Japan takes the corner at speed, riding a 125cc Japanese honda. He is competing in the forthcoming TT races. 27th May 1959 Stock Photo - Alamy
        The fastest member of the Japanese team Taniguchi available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #11213828 (artprintsforpleasure.com)
田中 Isle of Man: One of the Japanese team members T Tanaka speeds round thes maller Clypse circuit here on a Japanese Honda 125cc machine, rehearsing for the TT races. 27th May 1959 Stock Photo - Alamy

レース中
鈴木義一 Giichi Suzuki (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #13106807 (ttracepics.com)
鈴木淳三 Junzo Suzuki (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #21320351 (ttracepics.com)

 谷口氏自身はこの地点を「ブランデッシュコーナー」と記録していたそうだが、もちろん誤り。1954年サイドカーTTに写るクリプスコースはIsle of Man TT 1954 | Sidecar Race - YouTube、ブランディッシュコーナーは3分5秒あたりから。

3 Manx Arms

 下左は谷口(レース中)、下右は1959年サイドカーレースで、背景の建物がよく分る。

The first Honda 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #19925903 (ttracepics.com)   Walter Schneider & Hans Strauss and Pip Harris & Ray #13263329 (ttracepics.com)

 上左、上右のそれぞれ右に写る一連の建物は建て直しされた(下左の右端では建築中)が、下右のように奥の建物は塗り直しされ現存している。


田中(レース中) Teisuke Tanaka (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #12221761 (ttracepics.com)

 下左は谷口(プラクティス中)がこの右コーナーを立ち上がったところ。下右は下左地点辺りの近況で、右奥に建築中の建物が写っている。下左の背景と同形の歩道沿い構造物、建物が下右に写っているが、同形のものがこの左に幾つか並んでいるので、下左はそれらの何れかの前で撮影されたもの。

Naomi Taniguchi (Honda) 1959 Ultra Lightweight TT available as Framed Prints, Photos, Wall Art and Photo Gifts #13106819 (ttracepics.com)

  下左は鈴木義一(レース中)で、上左の建物側から道路の向かい側を写したもの。下右は近況。

GP50th_1PC.pdf (honda.co.jp)

4 Creg-ny-Baa

  ビル・ハント(プラクティス中)https://pbs.twimg.com/media/D5o5XyKWAAERsV8.png  1936年のCreg-ny-Baaはこちらで、クリプスコースでは写真右下から進入し建物の奥を右折する。建物上部の「KEPPEL HOTEL」、「CREG」、「CASTLE TOWN 1ST PRIZE ALES」は1959年でも変わらない。

5 Governor's Bridge

レース中
 鈴木淳三https://car-kurukuru.com/blog/wp-content/uploads/3honda5-5.png
 田中  GP50th_1PC.pdf (honda.co.jp) 6頁のゼッケン27。Governor's Bridgeの右コーナーを立ち上がった所。

6 Morney

 下左は市販車で練習中の谷口。下右は近況。マシンがクリプスコースとは逆方向を向いているが、市販車による練習は単にコースを周回するのではなく、いくつかのセクションごとに何回も道路を往復して行われたのだろう。
 

7 Hall Corner?

  下左の谷口の写真だが、次の理由からHall Corner手前で撮影されたものである可能性が高い。

■マシンがクリプスコースとは逆方向を向いていると仮定すると
・右側に道路境界の塀と門らしきものがある。
・右側にDUNLOPの文字がある緩衝材があるので、手前は左コーナーではないか?
・奥は一見すると左コーナーだが、奥の塀からするとT字路のようだ。  
■マシンがクリプスコースと同じ方向を向いているとすると
・DUNLOPの緩衝材の位置がおかしい。
・現況の風景で相当する場所はない。

 写真奥の右側(谷口とマシンに隠れて見えない)がHall Cornerになる。下右が近況で、右の施設は1973年に設置された (begoade.com)

 1954年のHall CornerはIsle of Man TT 1954 | Sidecar Race - YouTubeの1分31秒あたりから。

参考

 「ホンダチームはマン島に着いて初めてマウンテンコースではなくクリプスコースが用いられることを知った」とする記事がある。https://togetter.com/li/1373687

”The big surprise that awaited Honda when they arrived on the IoM was that the riders had spent months learning the Mountain Course, using a translated Geoff Duke TT riding guide, only to find out that the 125 race would be run on the completely different Clypse course!”

 日本語訳は「マン島に到着したホンダの一行はとんでもなく驚くことになる。ホンダのライダーたちはジェフ・デュークによるTTライディングガイドを翻訳したものを頼りに何か月もかけてマウンテンコースを学んでいたのに125は全く違うクリプス・コースで行われることが判明したのだ!」  

 監督だった河島喜好氏の寄稿記事(モーターサイクリスト誌1962/1〜1962/3号)によると、
〇1959年1月に新妻調査室長とビル・ハントが調査のためイギリス、マン島に行った。河島氏も同行してコースを見たいと思ったが、行けなかった。
〇実際にマン島に行ってみると、想像したのと実際に見たのとは大違い。新妻氏の説明が悪かったのと河島の聞き方が悪かったのとの両方が原因(使用コースの違いへの言及はない)。

 現地調査はデュークのガイド本を持ち帰るだけの簡単なお仕事ではない。コースを下見するのは当然だ。また、主催者、あるいはそれに近い関係者からもヒアリングしただろう。MFJが設立されていない状態でライダーのライセンスをどうしたら取得できるか、出場申込をどのように行うか、現地でマシンの整備はどこでやるのか、プラクティスの日程は・・・いくらでも調査することがある。そんな彼らがクリプスコースが軽量級で用いられることを知らないはずがない。
 そもそも1954年に本田宗一郎がマン島TTを見たのだが、この年の125cc、サイドカーはクリプスコースで行われていたのである。

 

 原文を書いたMat OxleyはホンダがTT出場までにどんな準備をしたかを知らないのだろう。そもそも、TTレースの1か月も前にマン島に到着し準備をしようというホンダがこんな勘違いをしていたという考えがおかしいことに気が付かないのだから、ジャーナリストとしてのセンスを疑う。  

 右は1959年1月にNursery Bendsで撮影されたもので、左の人物がホンダの新妻一郎、中央がビル・ハント、右がTT Chief ScrutineerのAngus Herbert。そう、彼らはクリプスコースを下見していたのである。

   
 
  「ホンダオートバイレース史」(中沖満、三樹書房2016)
 143頁「(1959年)ホンダは〜ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」
 151頁「(1959年)〜日本で初めてのGPマシンを「まあいいだろう、グッドだ」と言ったデュークの言葉を単なる社交辞令として受け取るべきではなかった。それがたとえ1500メートルのストレートを走っただけで「マン島TTへ出るのだ」という日本人を「何を言っているんだ!」とデュークがなかば呆れて言ったとしてもだった」

 デュークの来日は1960年4月なのに、本書では1959年のことになっている。そして、グランプリ・イラストレイテッド1987-10に中沖満による次の記事がある。これはホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫(故人)へのインタビューを元にしたもの(A〜Cは私が分割したもの)。

A マン島用の125tが完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた
B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら
C デュークは『1冊の教科書』(注:マウンテンコースのガイドブック)を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの)    


 A、Bは1959年TTレース出場の前のことであり、ここでも中沖はデュークの来日を1959年と勘違いし、「ホンダチームはクリプスコースが使用される1959年マン島TTの前にデュークの教科書(マウンテンコースのガイドブック)を入手しライダーが勉強した」と読める記事を作成したのだろう。

 そして、この誤った内容が英訳されOxleyに伝えられ、Oxleyがさらに「ホンダチームは1959年にマン島に行って初めてクリプスコースが用いられることを知った」を加え記事にしたのだろうか?

 なお、私は、1960年4月にホンダチームがデュークの教科書をデューク自身から入手したのかどうかすら疑わしいと考えている。

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