ヤマハレーサーの記事

 ヤマハYZR500アーカイヴ1978-1988(2005大日本絵画)のうち、6〜9頁に限って気になる記述を列挙した。

6頁上写真説明「73年開幕戦のチェッカーを受けるサーリネン」

 写真にアゴスチーニが写っているが、アゴスチーニはレース中に転倒したので、この写真はチェッカーを受ける瞬間のものではない。正しくは「チェッカーへ向けて走るサーリネン」。

6頁左上写真説明「75年のMVアグスタ撤退により、再びヤマハに戻ったアゴスティーニとOW23(フィンランドGP)」

 アゴスチーニは73年までMV、74-75年はヤマハ、76年はMV(第3戦からスズキRG500も使用、F750ではヤマハに乗った)、77年はヤマハに乗った。一方 、MVは76年までレース活動を続けていた。75年の写真説明になぜこのような記述ができるのか理解不能。77年の写真説明なら正しいのだが。

6頁本文左「2ストローク50ccのV型3気筒エンジン(RK67)」

 RK67は並列2気筒。

「FIM(Fédération Internationale de Motocyclisme)」

 1960年代末についての記述であれば、「Fédération Internationale Motocycliste」とすべき(1998年に名称変更)。

6本文右「他のクラスの気筒数の上限は〜125が2、250cc以上が4」

 「125、250ccが2」の誤り。なお、350cc、500ccクラスに気筒数制限が行われたのは1974年であり、日本のメーカーのGP撤退の理由として350cc、500ccクラスの気筒数制限を挙げるのはおかしい。

「(TD2、TR2について)排気量以外は共通」

 両車のクランクケースは共通ではない。TD2は縦割り・右チェーンで、TR2は水平割り・左チェーンである。

7頁本文左「500ccクラスではMVアグスタのワークスマシンが出場車の主流となった」

  スターティンググリッドに1〜2台しか着かないMVが「主流」らしい。

 「’71年の世界GP 250ccクラスでポイントを獲得した49人中、じつに38人までがTD3、またはその改造車で参戦しており」

 「38人」は41人の誤り。この差の3人のうち2人が乗ったのはYamasaki(ヤマハエンジン+カワサキフレーム)、Yamsel(ヤマハエンジン+シーリーフレーム)。もう1人のバリー・シーンは当初はデルビに乗ったが、シーズン中にヤマハに乗り換えポイントを獲得した。

 「TD3」は「TD2」の誤り。6頁終わりに「TD2/TR2は、’71年になってTD3/TR3に進化」とあるが、'71年シーズン前ではなく’71シーズン後。1971年シーズンのマシンはTD2/TR2。

「250ccのYZ624(OW17)〜TR3を〜チューニングアップしたYZ634(OW16)〜125ccのYZ614(OW15〜市販レーサーTA125の水冷版)」

 250はYZ624ではなくYZ635。
 YZ635/634と0W16/17は別のマシンである。
 125ccはYZ614ではなくYZ623。
 TA125が市販されたのは1973年なので、1972年のファクトリーマシンの記述の引き合いに出すのはおかしい。

  (機種記号のOW○○について、注釈では0W○○に統一した)

「(YZ624/YZ634が与えられたライダー)ヤーノ・サーリネン、ロドニー・ゴウルド」

 バリー・シーン、金谷秀夫が抜けている。YZ624はYZ635の誤り。

「(金谷について)4年ぶりのワークスマシンによる世界GP参戦に当たり、開発ライダーの金谷秀夫も250ccクラスにスポット参戦〜初の世界GP参戦における初レース(’72年の西ドイツGP)で優勝を挙げ〜」

 金谷は350ccクラスも走っている。
 金谷が西ドイツGP250tで優勝したマシンはYZ635ではなく市販レーサーTD3。
 金谷は第1戦ドイツGPから第8戦ベルギーまで出場(第5戦マン島TTは他のヤマハチームライダーと同様、欠場)しているが、これを「スポット参戦」というのだろうか。
 金谷は1967年日本GP125ccクラスでカワサキ4気筒KR3に乗り3位入賞している。これが金谷の世界GPデビュー。書くなら「初の海外での世界GP参戦」だろう。

「YZ614はチャス・モーティマーに与えられた」

 YZ623の誤り。また、ケント・アンダソンもYZ623が与えられた。

「プロダクションレース」

 英語で「production race」といえば、改造が厳しく制限された一般市販車によるレースのことを指すのではないか。

7頁本文右「68年に350ccのTR2で参戦を開始したデイトナ200マイル〜」

 TR2の市販は1969年で、1968年のマシンはTR2ではない。

「73、74年にFIMプライズ〜」

 73、74年のマシンはTZ350。TZ750がF750レースに出場できるようになるのは1975年から。

8頁本文左「(1973年)125、250、350、500、700と、世界選手権ロードレースGPの4クラスとフォーミュラ750ccクラス用に5種類のマシンを揃え、それぞれのクラスに契約ライダーを配し、全クラス制覇の意気込みが感じられた」

 本来のF750用の0W19(TZ750プロトタイプ)は表に出たばかりでレースには出場していない。1973年のF750に出場したのはTZ350で、TZ350は世界GP350ccクラスでも走っている。
 F750のイモラ200に契約ライダーのサーリネン、金谷が出場しているが、これはあくまでスポット参戦。F750タイトル獲得のための参戦ではない。

「RD05A(250t)、RA31(125t)の2機種に、シリンダー挟み角を70度のV型4気筒」

 70度は60度の誤り。誰かが間違えれば皆間違えるの好例である。

8頁本文右「大きく重いプライマリードリブンギアを小径・軽量化できるため、ミッションオイルの攪拌によるパワーロスを抑えるとともに〜」

 この文はクランクギアが4気筒クランクシャフトの右端にある場合との比較のようだが、0W19の市販版のTZ750ではクランクシャフトシャフト→ジャックシャフト(プライマリーシャフト)の減速比は39/38でしかないので、クラッチギア(プライマリードリブンギア)の小径化に対する寄与は小さい。また、0W19/0W20ではオイルポンプで変速機を潤滑していたので、クラッチギアが大径であっても対処可能。

 出力取り出し方式についていろいろ書かれているが、このマシンは250/350・2気筒を横に連結した形であり、動力取出も2本のクランクシャフトそれぞれのドライブギアが1つの動力取出ギアに噛み合うようにしたもの。

「続く第3戦イタリアGP〜の250ccクラス予選中に、サーリネンが死亡」

 イタリアGPは第4戦であり、第3戦ドイツGPが忘れられている。ドイツGPでヤマハのサーリネン、金谷は500ccクラスでリタイア、250tクラスで1、2位だった。また、サーリネンが亡くなった事故は予選ではなく250ccレーススタート直後の第1コーナー。

8頁上写真説明「シーンがOW53、ロバーツがOW54(81年フランスGP)」

 シーンは81年シーズン当初は0W53が与えられ、フランスGPから0W54が与えられた。  

9頁本文左(1974年)さらに彼ら(アゴスチーニ、ランシボリ)のサポート役として開発ライダーの金谷をスポット参戦させた」

 アゴスチーニ、金谷の体制の予定だったが、金谷がデイトナ200での負傷のためランシヴオリが選ばれたもの。金谷はスポット参戦していない。

「(高出力で軽量な手強いライバル(スズキRG500)の出現に対抗すべく、ヤマハはニューマシンOW23をシーズン中盤のベルギーGPから投入」

 ベルギーGP直前のランキングはボネラ(45点、優勝1)、リード(35点、優勝1)、ランシヴオリ(32点)、アゴスチーニ(30点、優勝2)で、スズキのシーンはランキング5位(22点)だった。どうみても「MVに対抗すべく」である。また「ベルギーGPから」とあるが、ベルギーGPの次戦スエーデンGP以降、0W23は走らなかった。

「(西ドイツGPとマン島TTで、TR3改造の351cc〜マシンを駆るプライベーターが優勝」

 「TR3」はTZ350の誤り。ライター氏はTZ350の発売年を知らないのだろうか? なお、マン島で優勝したフィル・カーペンターのマシンの写真は下。
Phil Carpenter (Yamaha) 1974 Senior TT Our beautiful Wall Art and Photo Gifts include Framed Prints, Photo Prints, Poster Prints, Canvas Prints, Jigsaw Puzzles, Metal Prints and so much more (ttracepics.com)

9頁本文右「(OW35)ボア×ストロークを〜56×50.7mmに変更」

 ヤマハは56×50.6mmとしている。YZR500(0W35) - レース情報 | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)

9頁上写真説明「’82シーズンはGPデビューの頃を思わせるデザインのツナギに戻ったロバーツ」

 
ロバーツのGPデビューは1974年オランダGP250tで、GP500デビューは1978年。ライター氏が言っているのは1978年とする。
 ロバーツは1982年に写真の赤と黒を基調にした皮つなぎと、このつなぎの白色部分を黄色に置き換えた皮つなぎ(こちらが主)を着用していたが、これが1978年の皮つなぎ(7頁)を思わせるとするなら、ライター氏に視力検査を勧めなければならない。ライター氏は「ツナギ」ではなく「ヘルメット」と書きたかったのだろう。

10頁本文左「イマトラ市街にある1周6.03kmの公道コース」

 市街が 「人家や商店が密集したにぎやかな地域」という意味なら、「イマトラ市街」は誤り。ライター氏はフィンランドGPの写真を見たことがないのだろうか?

「OW35〜〜〜翌年のYZR500(0W35K」

 1977年のYPVS付YZR500が0W35で、翌年のYPVS付YZR500が0W35Kということのようだが、両方とも0W35Kではないのか?

「700tマシンとの共通パーツを減らし、500t用に小さく、軽く作られたものに置き換えることが主目的だった0W23と比べOW35には世界GP、世界GP500tクラスのタイトル争いを前提とした多くの新しい技術が盛り込まれていた。0W35こそ、ヤマハが初めて、同社の最高の技術を投入して造った世界GP用500tマシンである」

 0W23は従前の500t4気筒(0W20)よりエンジンがコンパクトになっていた。ライター氏は「コンパクト化が目的であって、世界GPで勝つことは目的ではない」と言いたいようだ。ライター氏は手段と目的の区別がつかないのではないか?

10頁本文右「(1978年、ケニー・ロバーツを)〜世界選手権に昇格したフォーミュラ750にも参戦させたのである」

 フォーミュラ750が世界選手権になったのは1977年シーズンから。

「アメリカヤマハの強力なバックアップがあったからだ。’69年の世界GP350tクラスチャンピオンで〜ケル・キャラザース〜ノビー・クラーク、トレバー・ティルバリー」

 カラザースは1969年250tクラス世界チャンピオン。
 ライダー+スタッフ3人で世界GP250t、500t、F750を戦う体制が「強力なバックアップ」といえるか?

10頁上写真説明「同じマシンでGPデビューを果し〜ローソン」

 「500tGPデビュー」とすべき。ローソンのGPデビューは1981年ドイツGP250t。

 

 このように、ライター氏は1960年代〜1981年シーズンに何があったか把握せずに記事を書いたことが分る。それも1973年のサーリネン、パソリーニの死亡事故というロードレース史上に残る事故を間違えるくらいだから、かなりレベルが低い。逆に言えば、誰も間違えなかったであろうことを間違えるのだから、間違える能力は高い。 
 ライター氏の不得意な仕事を引き受けるファイティングスピリットや歴史の創造力には感心するし、生活のために 不得意な仕事をしなければならないことに同情する。この本は「雑誌・本の購入はほとんど慈善事業」の見本となっている。  
 
追記(一例)

1 12頁 「高回転高出力型となりやすいロータリーディスクバルブの特性を考慮して、ボア×ストロークが以前の54×54.5に戻されていたのも、OW54と60の特徴のひとつであった」

 こんな記述は本書とバイカーズステーション誌(同一ライター氏による)のみで見られたように思うが、バイカーズステーション誌では後に56×50.7mmに訂正されている。

2 28頁 写真38「(0W45について)写真のマシンには、ミクニのTM(フラットバルブ)タイプキャブレターが装着されている」とあるが、この写真のキャブレターがフラットバルブに見えるか。

3 29頁 写真45「シーズン最終戦・西ドイツGPで初めて48Rのアルミフレーム仕様が登場した」とあるが、初登場したのは前戦イギリスGPプラクティス(下)で、イギリスGPレースでは0W48が使用された。西ドイツGPプラクティスでは0W48と0W48Rが使用され、レースでは0W48Rが使用された。したがって、記事は「〜西ドイツGPで初めて48Rのアルミフレーム仕様がレースで使用された」とすべき。

4 74頁 「(0W98の点火間隔について)右側の上下2気筒が同時爆発した後、左側の上下2気筒が爆発する等間隔同爆なのは、0W81と変わらない」は「対角線上の2気筒が180度間隔で同時爆発(点火)」の誤り。
 

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