ホンダRS125Rの記事

  過去のレースの記事を書くためには、過去のレギュレーションを理解する必要がある。 以下のホンダのサイトの記事では1973年以降の国内125tレースの状況が取り上げられているが、ライター氏が当時のレギュレーションを理解せずに記事を書いているため訳の分らないものになっている。

当時のレギュレーション

1973年当時、ライダーのランクは下級から上級にノービス、ジュニア、エキスパートジュニア、セニアとなっており、各全日本選手権レースではノービス、ジュニア、エキスパートジュニア、セニアの各レースが行われていた。
  ただし、エキスパートジュニア125tとセニア125tは混合レースで、さらにジュニア125ccも加わった3クラス混合レースになることもあった。

 1976年からエキスパートジュニアとセニアが統合されエキスパート(1979年に国際Aに名称変更)となったが、125tクラスではエキスパートとジュニアの混合レースの場合が多かった。

●ポイントが与えられるライダーのマシンは公認車両をベースにしたものに限られていた。いわゆるファクトリーマシンはフォーミュラリブレ(FL)として出場はできるが、ポイント対象外(ただし仮表彰式は対象)。

夢を背負ったマシンRS125Rの軌跡 

新たな胎動とともに −1976

「市販ロードレーサーは、古くは市販車をベースにその性能を拡大したマシンとして、現代ではワークスマシンのレプリカとして、国内外でレースの隆盛を支え、多くのレーシングライダーを育んできた」

 1962年のホンダCR110、CR93、1976年のスズキRG500、1980年のヤマハTZ500は市販車をベースにしたマシン ではないと思うし、RS125R、RS250R、1981年以降のTZ250がワークスマシンのレプリカなのだろうか。まあ、一般市販車のNSR250Rも「レプリカ」なのだから、どうでもいいかもしれないが。

「1973年には、2ストロークエンジン主流の状況の中、4ストロークエンジンの公道用市販車CB125JXベースのマシンで角谷新二が全日本選手権125ccクラスのチャンピオンを獲得している」

 ホンダの1973年当時の125tスポーツ車は、2気筒がCB125JX(プレスリリース)で単気筒がCB125Sで、レースで用いられたのはCB125S。1975年にCB125SがモデルチェンジしCB125JXになり(プレスリリース)、2気筒がCB125Tになった(5月1日発売)。

 角谷はセニア125cのチャンピオンだが、エキスパートジュニア125tのチャンピオンはヤマハ市販レーサー・TA125に乗る毛利良一で、下表のとおり、毛利は全6戦中5戦で総合優勝、 青木辰己、上田公次等と共にエキスパートジュニア・ライダーがセニア・ライダーを圧倒した。

1973年各125t各レース総合順位

No サーキット 1 2 3
1 筑波 青木E・Y 江崎S・Y 加藤E・Y
2 鈴鹿 毛利E・Y 片山E・Y 上田E・H
3 鈴鹿 毛利E・Y 青木E・Y 上田E・H
4 鈴鹿(8耐) 毛利E/近藤J・Y 角谷S/上田E・H 坂J/相沢J・H
5 筑波 毛利E・Y 青木E・Y 江崎S・Y
6 鈴鹿 毛利E・Y 角谷FL・H 江崎S・Y

Sはセニア、Eはエキスパートジュニア、Jはジュニア、FLはフォーミュラリブレ、Yはヤマハ、Hはホンダ
8耐は全排気量同時スタートだが、上の順位は125tクラスのみのもの

「翌1974年は、ヤマハが2ストローク2気筒の新型市販ロードレーサーを投入」

 ヤマハが2ストローク空冷2気筒の市販ロードレーサー・TA125を市販したのは1973年。ライター氏はセニア125tのチャンピオンが、1973年:ホンダ、1974・75年:ヤマハだったので、ヤマハTA125の市販を1974年と勘違いしたようだ。
 また、TA125は一般市販車・AX125用にヤマハが市販していたキットパーツを組込み完成車としたものなので、ヤマハ空冷2気筒レーサーが1973年に初めて登場したのではない。

「これに対しHondaの社内チームは、この頃リリースされたHonda初の量産2ストローク125=モトクロッサーCR125Mをベースとした単気筒マシンで対抗するが、2気筒マシンの圧倒的スピードの前に2年連続で敗れてしまう」

 セニアクラスの1974年チャンピオンは青木(ヤマハ)、1975年チャンピオンは江崎(ヤマハ)だが、各レースの125tクラス総合優勝者は下表のとおりで、1974年はTA125とCR125M改が互角で、1975年はCR125M改が圧倒的な強さを見せていたことが分る。
 1975年にホンダがセニアクラスのタイトルを獲得できなかった理由は「ホンダの相沢清(エキスパートジュニア)、上田(セニア)が勝利を分け合った」からである。「2気筒マシンの圧倒的なスピードの前」はライター氏の想像の産物

1974-75年の125tクラス各レース総合優勝者

1974 1975
1 鈴鹿 毛利S・Y 1 筑波 石井E・Y
2 鈴鹿 上田S・H 2 筑波 石井E・Y
3 筑波 江崎S・Y 3 鈴鹿 角谷S・H
4 鈴鹿 上田S・H 4 筑波 相沢E・H
5 筑波 石井J・Y 5 鈴鹿 上田S・H
6 鈴鹿 毛利S・Y 6 菅生 相沢E・H
  7 鈴鹿 上田S・H
8 筑波 相沢E・H
9 鈴鹿 上田S・H

近代レースの土壌を育む 1976−1986

「さらに年ごとの改良、特にキットパーツによるエンジンの水冷化によって、MT125Rは基本設計の古かったライバルを突き放すことに成功。1976、77年は社内チームの飯田浩之が、1978年はRSC契約の上田公次がチャンピオンを獲得し、3年連続で全日本125を制覇している」
このMT125Rの活躍を阻止するため、1977年にヤマハは水冷単気筒のワークスマシンYZRを投入、さらにこのマシンのレプリカである市販ロードレーサーTZも販売した」

 「水冷化」、「1976、77年は〜」の順に並んでいるので、水冷化は1976年のように受け取れるが、水冷キットパーツが登場したのは1978年シーズン終盤(1978年9月公認)。
 ライター氏によれば1974-75年は「2気筒マシンの圧倒的スピードの前に2年連続で敗れ」たようなので、1976年にMT125Rの水冷化によって「基本設計の古かったライバルを突き放すことに成功」したと考え たようだ。

  あるいは、別冊モーターサイクリスト誌2010-1中の年表では1977年に「ワークスに水冷MT125R-LC」とあるので、ライター氏は水冷キット登場を1977年と考えたのかもしれない。

 1977年にYZR125が登場したにも関わらず、77、78年とホンダライダーがチャンピオンになっているので、この文では「基本設計の古かったライバル」はYZR125、TZ125のようにも受け取れる。

以下に実際の状況を記す。

 1976年、77年とMT125Rは125tクラスで敵なしの状態だったが、1977年最終戦日本GPでヤマハYZR125が登場し鈴木修により優勝、そしてYZRが1978年125tクラスを席巻する。ただ、このマシンはFLでありタイトル争いには関係なかった。そしてMT125R用水冷キット装着マシンが1978年最終戦日本GPに登場し、このマシンに乗るRSC契約の上田が江崎(YZR)を僅差でかわし優勝。
 1979年はシーズン中にTZ125が市販(7月公認)され初登場した第7戦で石出和之により優勝、MT125R水冷の優位も失われるが、1980年シーズンはRS125R-Wが登場、TZ125に対し優位に立った。

1978-79年の125tクラス各レース総合優勝者

  1978 1979
1 - - 筑波 一ノ瀬A・H
2 筑波 江崎FL・Y - -
3 鈴鹿 江崎FL・Y 筑波 斉藤A・H
4 筑波 木山E・H 鈴鹿 江崎FL・Y
5 鈴鹿 江崎FL・Y 筑波 斉藤A・H
6 筑波 江崎FL・Y 鈴鹿 江崎FL・Y
7 菅生 江崎FL・Y 菅生 石出A・Y
8 - - 筑波 斉藤A・Y
9 鈴鹿 上田E・H 鈴鹿 江崎A・Y

Eはエキスパート、Aは国際A、FLはフォーミュラリブレ。
「-」:E125は開催されず。
斉藤は1979年第7戦からTZ125に乗り換え。
TZ125市販・公認により江崎のマシンも1979年第7戦以降は公認車両扱い。

 初めに「当時のレギュレーションを理解せずに記事を書いているため」と書いたが、これだけ当時の125tクラスの実状を反映しない記事からすると、ライター氏は個々のレース結果はまったく確認せず、当時のランキング表を参考に想像で記事を書いたのではないか、としか思えないレベルであり、そうだとするならライター氏の「想像力」に感心させられる。これが雑誌のみに掲載されるのであればいつもの「雑誌屋」なのだが、メーカーのウェブサイトの記事なのだから・・・歴史が歪められメーカーの宣伝の道具になってしまった例である。

    公開校正へ