スズキ モーターサイクル史 2ストロークマシンの系譜 1952-1985

   ロードレース関係について校正してみる。 この本はSuzuki Motorcyces - The Classic Two- Stroke Era By Brian Long, Veloce 2018を参考にしたものであるが、原書の誤りより日本側で加筆した部分の誤りが多いようだ。 

39頁左列「〜スネーフェル・マウンテンコースと呼ばれる〜1周.60.725kmで、これを3周する」
「〜このレースに参加した最初の日本メーカーはホンダで、1959年の125tクラスにデビューした」

 当たり前だが、全てのTTレースがマウンテンコース3周ではない。また、1959年にホンダが出場した125tクラスはマウンテンコースではなく1周17.36kmのクリップスコースだった(125t、250t、サイドカーで使用されたクリップスコースは1959年まで)。

39頁右列「1960年(昭和35年)5月9日、スズキのレースチームは羽田国際空港からマン島に向かった」

 レースチームの一員だった中野広之の日記によると「5月11日」。
1960-TTレ−ス初出場 本文
GPレ−ス転戦・移動の日誌

「(1960年)鈴木俊三も追ってマン島入りするが〜」 

   1961年なら正しいのだが・・・  「スズキ50年史」レース記事ー1

「午前10時30分、43台がスタートする125tレースがスタート」

 レースプログラムでは10時。レースチームの一員だった中野広之の日記でも「午前10時」なので、「10時30分」は誤りと思われる。
1960-TTレ−ス初出場 本文

   プログラム掲載のエントリーリストにはNo1からNo43まであるが、No13は欠番なので42人。実際にスタートしたのは33人。原書では「While 33 bikes started 〜」と正しい。

39頁写真説明「〜松本聡男のレース中の最高速度71.88mph(115.7km/h)、レースタイムは1時間34秒296。対して〜優勝したカルロ・ウッビアリの最速スピード85.61mph(約137.8km/h)、1時間19分212で〜

 著者は「最高速」、「最高スピード」と「平均レース速度」の区別がつかないのだろうか? 

「〜松本聡男の平均レース速度は71.88mph(115.7km/h) 、レースタイムは1時間34分29秒6。対して〜優勝したカルロ・ウッビアリの平均レース速度は85.59mph(137.7km/h)、1時間19分21秒2で〜」

「1位のMVアグスタの最速スピードはRT60より実に22km/hも速かったのである」

 この「最速スピード」は平均レース速度の誤りと思われる。

40頁左列「(61マン島TT125cc)〜エントリーした3台全てが完走できなかった」

 「出場した3台〜」とした方がよい。6台エントリーして3台が出場した。

40頁右列「さらにデグナーの旧友で〜パウル・ペトリもチームに加わることになった」

 STEALING SPEED: The biggest spy scandal in motorsport history by Mat Oxley, Haynes 2009では「Paul Petry hadn't joined him in the Far East because he had failed to reach agreement with Suzuki and because he had never flown in his life and had decided he never wanted to. Also, he had fallen out with Degner. 」とあり、ペトリはスズキチームに加わらなかったと思われる。

41頁左列「チームは4月24日に羽田空港を出発する」

 スズキチーム員だった中野広之によると4月25日。
1962-世界選手権レ−ス 本文-1
GPレ−ス転戦・移動の日誌

41頁右列「(1962年)125ccクラスに24psのRT62、50tクラスはロータリー吸入バルブを採用した〜RM62を投入した」

 元スズキの中野広之によるとRT62は22ps。スズキ・ホンダ・ヤマハ・他のマシン諸元と性能
 RM62だけ「ロータリー吸入バルブ」と書くと、他のマシンはロータリーバルブ吸入バルブではないように思える。

「チームはシルバーレプリカ賞」、「メーカーチーム賞」、「最高ラップ賞」を受賞する」

 シルバーレプリカ、最高ラップ記録はチームではなくライダーに与えられるもの。

42頁左列「〜デグナーは、オランダ、ベルギー、西ドイツのGPに連勝、個人タイトルを確実にした」

 西ドイツGPの後に4戦残しており、個人タイトルは確実ではなかった。最終戦アルゼンチンGP前の得点はデグナー35点、アンシャイト36点と拮抗しており、アルゼンチンではアンダーソンが優勝、デグナー2位、アンシャイト3位でデグナーがチャンピオンになったが、仮にアンシャイトが2位、デグナー4位ならアンシャイトがチャンピオン、アンシャイトが優勝でデグナー3位でもアンシャイトがチャンピオンという形勢だった。

「翌1963年〜鈴木自動車工業は50tクラスに10psで〜RM63を送り出した」

 元スズキの中野広之によるとRM63は11ps。スズキ・ホンダ・ヤマハ・他のマシン諸元と性能

「続くオランダとベルギーGPでもスズキ勢が優勝〜」

 そのとおりだが、ベルギーで優勝したのが森下勲だったことを書いて欲しい。伊藤のマン島優勝を書くなら。

「24ps〜のRT63ツイン」

 元スズキの中野広之によるとRT63は25.5ps スズキ・ホンダ・ヤマハ・他のマシン諸元と性能

「〜125tクラスではアンダーソンの活躍が光った。全12戦中6戦に優勝、ここでもスズキはメーカーズタイトルを獲得した」  

 下線部だけではスズキ6勝とも読めるので、「〜アンダーソン(全12戦中6勝)が活躍、5勝目を挙げた東ドイツGPでメーカーズタイトルを獲得した」とした方がよい。

「〜日本GP250tクラスでデビューした4気筒6速のRZ63は、RTのエンジンを2基前後に並べて〜後方のユニットを液体で冷却〜」

 著者は前方ユニット空冷・後方ユニット水冷と言いたいようだが、著者はおかしいと思わないのだろうか? 4気筒全て水冷が正しい。
 なお、日本GPに出場したのはRZ63ではなくRZ63U。

42頁上写真説明「〜市野三千雄」

 森下勲のように見える。

43頁上写真「〜全11戦の戦いの様子を紹介している」

 「全11戦」は「出場全11戦」とすべき。1963年の世界GPは全12戦で、125tは12戦、50tは9戦だった。写真の資料では11戦しかないが、これはスズキが出場したGP数。イタリアGP125tをスズキは欠場、同GPで50tは開催予定がなかった。

46頁左列「(RM64)12.5ps/14000rpm」

 元スズキの中野広之によるとRM64は13.5PS/14000rpm」スズキ・ホンダ・ヤマハ・他のマシン諸元と性能

46頁右列「開幕戦の50tクラスで、新開発のRM64を駆るアンダーソンが優勝〜」

 元スズキの中野広之によると、開幕戦でアンダーソンが乗ったのはRM63Yで、RM64は第2戦で登場。 1964-世界選手権レ−ス 本文-1

「5月3日のスペインGP」

 5月10日の誤り。5月3日開催予定が延期されたもの。

「(マン島)レースではアンダーソン、伊藤、森下、アンシャイトの順で1周を終えるが〜」

 1周後の順位は「アンダーソン、伊藤、アンシャイト、越野」の誤り。5位以下は森下、谷口、ブライアンズ。

47頁左列「(1964年)4気筒のRC146をもって挑むホンダ。

 1964年型ホンダは2RC146。なお、RC146は2バルブで2RC146が4バルブ。

「〜オランダGPと、第7戦のドイツGPでも勝利して〜」

 間違いではないが、第6戦ベルギーGPで125ccクラスはなかったので、「〜オランダGP、ドイツGPと連勝」の方がよい。

「ホンダはこのレース(注:フィンランド)とイタリアGPも制して125tのタイトルを掌握する」

 メーカーチャンピオンが決定したのはフィンランドGPなので「〜このレースを制してタイトルを手にし、続くイタリアGPでも優勝」とした方がよい。

47頁左列終わり「一方、250tクラスにRZ64は〜RZ63をベースに広範囲な改良を施されていたが、開幕戦のアメリカGPでシュナイダーが〜」

 アメリカGPで使用されたのはRZ64ではなくRZ63U。1964-世界選手権レ−ス 本文-2

47頁右列「〜ホンダ〜RC164」

 1964年型は2RC164。

63頁左列「(1965年)なお、技術陣は社内呼称「RP型の3気筒(48.9t)も試作していた」

 元スズキの中野広之によるとRP66の計画開始は1966年5月なので、1965年時点では試作していない。 1967-世界選手権レ−ス 本文

「RT65〜新設計の9速トランスミッションと組み合わされる」

 1963年型125t2気筒はRT65と一般に称されるが、出場全レースで用いられたのは社内呼称RT63改A(水冷・8速)で、9速のRT65は最終戦日本GPでアンダーソン、越野が乗ったのみ。

63頁右列「4月25日の〜西ドイツGP〜」

 125tは24日、50cc、250ccは25日に行われた。

「〜6月18日、山場のマン島TTレースを迎える」

 50tは18日、125tは16日、250tは14日。

「路面が雨で濡れた状況のなか、250tではぺリスが辛くも3位に入賞したが〜」

 全レースが18日に雨の中行われたような文。なお、14日の250tレースでは1周目にフィル・リード(ヤマハ)がオーバー・ザ・トン(平均時速100マイル突破)となるコースレコードを記録、2周目にはジム・レッドマン(ホンダ)がこれを破ったことからわかるように雨は降っておらず、レース後半に小雨が降り出した。

「(マン島3位の他)、250tクラスは〜4位を3回獲得したほかはノーポイントに終わった」

 ベルギーGPでぺリスが5位(2点)だった。

「(マン島125t)アンダーソンが5位入賞するのが精一杯で、しかも〜」

 アンダーソンは1周目に点火プラグを交換して遅れたが、2周目、3周目とラップ記録を更新して追い上げたもの。

64頁左列「〜ザクセンリンクでの東ドイツGPで、好調だったアンダーソンが足首を負傷、一時期戦線から離脱〜」

 アンダーソンが負傷したのは東ドイツGPではなく、東ドイツGPの前に個人出場したモトクロス。欠場したのは東ドイツGPのみで、次戦のチェコスロバキアGP以降は出場した。

「それでも125tクラスでぺリスが優勝して望みを繋ぐ」

 スズキが劣勢のような文だが、東ドイツの前の6戦でスズキ4勝、ヤマハ2勝だった。

65頁左列「〜「K5」というシリアルナンバー」

 「K5から始まるシリアルナンバー」の誤り

「50tを示す「K」と〜」

 「50t2気筒を示す」の誤り。50cc単気筒は「M」だった。

「RK66は前年マシンとほぼ同型だと推察できる」

 1965年50t全8戦のうち第1戦〜第7戦はスチールフレームで、第8戦(最終戦)にアルミフレームが登場、1966年型は全面的にアルミフレームが用いられた。

「125tクラスのRT66も多少最高出力が上がった以外、前年マシンからの変更点はない。

 1965年のRT63改A、RT65はスチールフレームのみだったが、RT66はスチールフレームとアルミフレームがあった。

右列「125ccクラスでは、第4戦に当たる東ドイツGPで片山が挙げた2位が最高位であったが〜」

 片山は最終戦日本GPでも2位入賞した。「第4戦に当たる東ドイツGP125tクラスでは、片山の2位が最高位」にした方がよい。

「マン島TTレースは〜9月2日に開催された」

 開催日は、8月28日:サイドカー・250t、31日:125t・350t、9月2日:50t・500t。

66頁写真説明「トー・ロブ」

 トミー・ロブの誤り。写真の英語記事では「Tommy」と正しく表記している。

67頁左列「RK67〜これに14速ミッションを組み合わせた」

 14速と12速があった。

「RT67」

 1967年型125t2気筒はRT67U及びRT67Vで、両者のエンジンは共通で車体が異なる。

「水冷V型4気筒〜RS67」

 スクエア4気筒のRS67の開発を進めていたが、急遽、V型4気筒のRS67Uに設計変更し最終戦日本GPに出場した。

「この年(注:1967年)はシーズン開幕前からメーカーと〜国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の間でひと悶着あった。FIMが1969年(昭和44年)以降、50tは単気筒6速を上限とし、125tと250tクラスは1970年以降、2気筒を上限とする規定変更を発表したからである」

 時期は全くの誤り。1967年シーズン後、1967年秋のFIM総会(ウィーン)でACU(GB)から50tクラスを単気筒・6速以下に制限する提案があり、1969年から実施されることになった。そして、1968年秋のFIM総会(マドリッド)で、50tの新規定は予定どおり1969年から、そして、125cc、250tについて2気筒以下・6速以下の新規定が1970年から適用されることが決定したもの。
(出典:ライディング1968-1(MFJ)、日本のレーシングモーターサイクルの歴史(八重洲出版1973))

 したがって、本書の新規定に関係するホンダの動向等の記述は著者の想像と思われる。

 なお、FIMの当時の名称は国際モーターサイクリスト連盟(Federation Internationale Motocycliste)。

68頁右列「(マン島50t)グレアムが平均132.6km/hで快勝」

 1周60.725km・3周のレースを1時間21分56.8秒で優勝したので、平均速度は133.4km/h。記事は原書の「82.9mph(132.6kph)」の誤りを写したもので、「132.6km/h」は82.9mphを1マイル=1.600kmでkm/hに換算したもの。

「3位に〜スズキチームに加入した英国人トミー・ロブが入って〜」

 ロブはスズキチームではなかった。スズキチーム(Suzuki Motor. Co. Ltd.)のアンシャイト、片山、グレアムとは別に、スズキGBからのエントリーで単気筒の50t市販レーサープロトタイプ(市販はされず)にクリス・ビンセントが乗る予定だったが、ロブに変更されたもの。

「(日本GP125t)伊藤光夫が〜4周目までリードを保っていたが、唐突にレッドフラッグが提示される」

 レッドフラッグが提示されたのは2周目途中。

69頁左列「〜チームはこの日本GP(注:1967年)終了直後にハンス・ゲオルグ・アンシャイトとスチュアート・グレアムとの間でワークスライダーの契約を結んでおり〜」

 グレアムは「We didn't sign our contracts then.」(TEAM SUZUKI by Ray Battersby, Osprey 1982, Parker House 2008)と語っており、この時点では契約を結んでいなかった。

「(スズキの撤退について)FIMが打ち出したレギュレーションの抜本的な改定に抗議した形だった」

 FIMが1969年からの50tレギュレーション改定を決定する前にスズキレース部門が縮小され、さらに縮小ではなく撤退が1968年2月に決まったのである。1967-世界選手権レ−ス 本文

 4輪排ガス対策等々、技術部門の課題が山積していたこと、50tレースのヨーロッパでの宣伝効果の減少が大きな要因と思われる。例えば1967年の世界GPは全13戦で250tクラスは13レース行われたのに50tクラスは7レースしか行われなかったことが、各国での50tレースへの関心の低さを示している。
 そもそも50t3気筒は1968年まで出場できたし、1970年から始まった125tのレギュレーション改定は1968年2月のスズキのGP撤退時には決定していなかった。そして、レギュレーションが改定されても、スズキにやる気があるなら50t単気筒、125t2気筒レーサーを開発すればよかっただけである。多気筒化だけが技術力の証ではない。レギュレーション改定はきっかけに過ぎない。

71頁写真説明「〜RP68」

 下右はRP68エンジンだが、下左はRK67。

98頁右列「〜最高速216km/h〜」

 原書では「135mph(216kph)」だが、「216kph」は135mphを1マイル=1.600kmでkm/hに換算したもの。1マイル=1.609で計算すると217kphになる。

「 (1970デイトナ200)ロン・グラント〜楽々と制するかと思われた〜最終ラップで燃料切れに見舞われてしまう」

 グラントがリタイアしたのは53周のレースの26周(ピットインしリタイア)。

98頁・TR750写真説明「1975年同選手権でジャック・フィンドレイが年間王者」

 フィンドレイは1974年シーズン後にスズキチームを離れており、1975年はF750ではヤマハTZ750に、世界GP500ではTZ750改500に乗った。

99頁「グイド・マンドラッキ」

 Mandracci なので、マンドラッチの方がよいのでは?

124頁左列「「レイダウン」と呼ばれるダンパー/スプリングユニットの後傾度が穏やかなタイプ」

 「前傾度が大きい」の誤り。

「デイトナ200マイルに出走したシーンが〜転倒」
「〜事故から僅か
7週間後、シーズン第2戦目のオーストリアGPの予選に出場〜」
 129頁の1975年デイトナ等について同様な記述がある。

 
シーンがタイヤバーストにより転倒したのはレース(3月9日)ではなく、数日前のスズキのテスト時。
 オーストリアGP(5月4日)の予選は5月2日から始まったので、デイトナでのシーンの転倒からオーストリアGP予選まで56日以上と考えられる。

125頁写真説明「1976年にロードレース世界選手権500ccクラスで快走するバリー・シーン」

 この写真は1977年シーズン。

「(1976年)そしてMVアグスタも〜前年の1975年をもって〜ロードレース参戦の歴史に幕を閉じていた」

 MVアグスタはアゴスチーニにマシンを貸与する形で350t(ダッチTTで優勝)、500t(ドイツGPで優勝)のレース活動を行った。

「RG500・TはヤマハとMVアグスタの退場によって乗るマシンを失った多くのライダーにとって福音で〜」

 1975年にヤマハに乗ったのはアゴスチーニと金谷、MVアグスタに乗ったのはリードとトラッカ(後半はボネラ)だが、これが「多くのライダー」か?

126頁写真説明「〜市販されたRG500・T」

 この写真はファクトリーRG500(XR14)の1974年シーズン前公開写真。

126頁左列「(1977年オーストリアGP)トップライダーが〜決勝レースをボイコットして不成立」

 プライベートライダーが出場しレース成立、フィンドレイが優勝した。

126頁右列「〜ベルギーGPで、シーンは平均速度217.37km/hという未曽有の記録を樹立している」

 最高ラップ速度か平均レース速度か書いていないが、これはレース記録。

「(1977年)バリー・シーンはこの年、大英帝国勲章5等勲士(MBE)を授与された」

  発表されたのは1977年12月31日で授与されたのは1978年。 

 「And on December 31 the honour was announced that was to take him about as far away from the world of motorcycling as you can get. 〜motorcyclist Barry Sheene was awarded the MBE for his sporting achievements.」(Barry Sheene: A Will to Win by Michale Scott, W.H.Allen 1983)

「Barry was awarded the MBE〜in the New Years Honours list〜」(BARRY SHEENE The Official Photographic Celebration of the Legendary Motorcycle Champion by Rick Broadbent with Phil Wain, Bloomsbury 2017)

127頁右列「(1980年)一、メーカーズタイトルはRG500を駆った4人のライダーが合計で6勝〜」

 「RG500」は「RGA500」とした方がよい。

上写真説明「1981年〜RGΓ500(開発コードネームXR35〜アルミフレームの採用による軽量〜」

 XR35は基本的にスチールフレームだったが、ダッチTTプラクティスでマモラ用アルミフレーム車が登場、次戦ベルギーGPがアルミフレーム車の初レースとなった。チャンピオンになったルッキネリはアルミフレーム車ではレースに出なかった。

下写真説明「1981年〜グラツィアーノ・ロッシが出場した」

 ロッシがスズキファクトリー500tマシンに乗ったのは1980年のみ。

128頁左列「(1979年)8月10〜12日〜開催されたイギリスGP〜」

 他のレースの記述では決勝日のみ記述していながら、このレースだけプラクティスの日(10、11日)も記述するのはなぜ?

130頁左列「〜FIMは1977年(昭和52年)を最後にロードレース世界選手権のカレンダーからマン島TTレースを外した」

 「1976年を最後に」の誤り。

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 ロードレース以外の記述については詳しく読んでいないが、いくつか指摘しておこう。

80頁「(GT750について)〜実績のあったCCIだった。GT750に採用するに際して、名称をSRIS(Suzuki Recycle Injection System:クランク室残留オイル還元燃焼方式」に改めたが〜〜1971(昭和46年)までにこのSRISの名称が全モデルに適用になっている。」

 「CCIからSRISへ名称を変更した」ということだが、CCIとSRISは別のメカニズム。原書ではSRISについて簡単に書かれた後にCCIからCCISへの名称変更について書かれていたので、これを日本側が誤読したものと思われる。

81頁写真説明「クランクシャフト中央からパワーを取り出すことを示す図〜「センターパワーテイクオフ」は、ポルシェの傑作レーシングマシン917も採用していた」(80頁本文でも同様の記述あり)

 3気筒のクランクシャフト中央は2番気筒のクランクピンなので、「クランクシャフトの気筒間位置」とすべき。  

 ポルシェ917を例に出さずとも、1960年代の二輪レーサーエンジンで、クランクシャフトの気筒間位置から動力を取り出していることが多く、スズキ、ヤマハのロータリーディスクバルブ2気筒・4気筒、4ストロークではホンダ2気筒(一部機種)・4気筒・5気筒・6気筒などがこの方式だった。著者はポルシェの名前を出すことでスズキの評価を上げようとしたのか?  なお、これらのエンジンではクランクシャフトとクラッチギア(変速機メインシャフト上)の間にジャックシャフト(動力取出シャフト)があり、ポルシェ917もジャックシャフトがあるのは同じ。 しかし、GT750ではジャックシャフトはなく、クランクシャフト上のギアが直接クラッチギアに繋がっている。

109頁「(1974年10月)旗艦モデルのGT750は〜エンジン関係の変更点はキャブレター(従来のVM32からSU32に)〜最高出力は〜70PS・6500rpmに〜」

 SU32キャブレターの装着はこのモデルが初めてではなく1974年当初型から。この時点では国内仕様は67PSのままだった(モーターサイクリスト1974-1、1974-12)。

112頁左列以降「〜中野裕之〜」

 「中野広之」の誤り。

 

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