カワサキの本

 レース関係のみです。

1 カワサキマッハ(小関和夫 三木書房2008)

41頁「明石から北に50km〜」(本文59頁では40km)

 
開催地が陸上自衛隊青野ヶ原演習場なら明石−青野ヶ原は25km程度。

「1966年富士で初開催の日本GPには名手、エルンスト・デグナー〜予選で負傷して」

 日本GP公式予選は10月12日に始まったが、デグナーが富士で転倒したのは9月29日のテスト時。

「〜1969年シーズンに入り、シモンズは〜フランスでの2位以外をすべて優勝」

 最終戦ユーゴスラビアは2位。

43頁下左「〜和田〜予選5位で〜最速の213.499kmをたたき出した。

 予選6位、264.3km/hの誤り。

44頁「(左写真説明)イボン・デュハメル〜1971-72年タラテガ、72年ゲインズビル、73年ハリスバーグ、73年オンタリオで優勝」

 「〜1971年タラテガ、72年ロードアトランタ、タラテガ、1973年シャーロット、オンタリオで優勝」の誤り。

45頁「(下写真説明)1971年鈴鹿ジュニア〜」

 1972年鈴鹿ジュニアの誤り。カワサキ750SS(H2)が公認車両になったのは1972年。
 説明のない写真は1973年エキスパートジュニア(鈴鹿)で、おそらく3月4日のビッグ・モーターサイクルレース。

131頁右列「また2気筒の森下勲は堂々の4位を得た」

 森下も金谷と同じ4気筒に乗った。2気筒に乗ったのは谷口尚己。

「(写真説明)カワサキ初の市販レーサーA1R〜潤滑方式がA1と異なり、MFJのレースには出場できず〜」

 潤滑方式がA1と同じでも出場できなかったはず。当時、MFJは市販レーサーを公認対象としていなかった。

133頁右列「イギリス人のデイブ・シモンズは1960年(昭和35年)からトーハツCR2、ホンダCR72/77を駆ってGP参戦していたが〜」

 赤文字は「1962年(昭和37年)」の誤りではないか?

「〜1969年からFIMの125tクラスは2気筒、6段変速までというFIMの新レギュレーションとなり〜それに合わせたKRでGPを参戦〜」

 誤り。新レギュレーション適用は1970年から。

「西ドイツ、マン島TT、フィンランドで優勝して1969年125tクラスの〜」

 3勝しかしなかったような文になっている。「西ドイツ、マン島TT等、8勝して〜」の方がよい。

134頁右列「〜7位にフランスのジンジャー・モロイ〜」

 
モロイはニュージーランド人。

「〜1970年〜豪快なライディングの右写真の和田の時代に様変わりする」

 この写真は1967年日本GP。

134頁囲み記事「1976年KR250で全日本鈴鹿優勝」

 1976年に和田がKR250で国内レースに出場したのは日本GP(鈴鹿)のみで、レースはリタイア。

136頁左列「T3ワークス」

 
TR3ワークスの誤り。

「1972年デイトナでは、新型750tH2Rにデュハメルが乗り〜他に8台ものH1RASが走ったが〜」

 
H2Rにはポール・スマート、ゲーリー・ニクソンも乗った。46頁写真参照。下の誤りからすると、ライター氏はデュハメルのみがカワサキと契約していたと認識していたようだ。

右列「(1972年)〜デイトナから1ヵ月後のゲインズビル、5月のタラテガではデュハメルが優勝している」

 赤文字はロードアトランタの誤り、5月は9月の誤り。なお10月のオンタリオでポール・スマートが優勝した。

「(1973年)〜ーリー・ニクソンカワサキ入りした」

 ゲーリー・ニクソンがカワサキ入りしたのは1972年。

(1973年デイトナ)スピードガンで最速のライダーは和田が262.76km/h」

 264.3km/hの誤り。LEAN, MEAN AND LIME GREEN by Randy Hall, BGH Multimedia2018 によると和田が記録した最高速は164.230mphで、記事は1マイル=1.6000kmで計算したもの。

予選タイムでは1、3、4位がTRで2、5、6位がH2Rだった」

 「予選タイムでは1、3、5位がTR750で2、4、6位がH2Rだった」の誤り。7位はH2Rだったので、これを加えた方がよい。

37頁左列「見事優勝を飾ったのはヤマハTRだった」

 1972年の優勝マシンはヤマハTR3(空冷)だが、1973年の優勝マシンはヤマハTZ350(水冷、ヤルノ・サーリネン)。

「〜後半はハリスバーグとオンタリオでデュハメルが勝ち〜」

 赤文字はシャーロットの誤り。

右列「1973年の国内レースにおいて注目されたのが、ノーマルH2ベース車でレース参戦した、カワサキライダー清原明彦であった。3月の2&4では〜」

 
初注目は1972年でジュニア251t(251t以上)クラス。45頁の青地に白数字のゼッケンが1972年ジュニアのもので、白地に黒数字(No74)は1973年エキスパートジュニア。
 レース名は「ビッグ・モーターサイクルレース」(全日本選手権外のレース)。4輪との共催で多くの観客がいたために注目されたのである。45頁で説明のない写真がこのレースと思われる。

「1974年(昭和49年)から、ヨーロッパを転戦していたFIM公認のフォーミュラ(F750)クラスが日本製750CCレーサーの活躍の場となりジャコモ・アゴスチーニ、ケニー・ロバーツによるヤマハTZ750〜」

 誤り。1974年3月、FIM総会においてヤマハTZ750はF750に適合しないことが決議された。このため、ヤマハのアゴスチーニ、ロバーツらが出場した750tレースはF750ではなく、選手権外の750tレースとして行われたもの。

137頁囲み記事「74年からセニア昇格でH2Rに乗りはじめ、75年に初優勝、その後KR750で筑波3連覇〜」

 「75年に筑波で初優勝、その後KR750で筑波2勝(筑波3連勝)、鈴鹿1勝」の方がよくないか?

「〜FL750の全日本チャンピオン」

 FL750はポイント対象外であり「FL750チャンピオン」は公式記録ではないはず。https://archive.mfj.or.jp/user/contents/motor_sports_info/rule/pdf/2016/rekidai.pdf

138頁左列「(1974年)〜H2Rは大きく変更を受け、フレームを低く、角型スイングアームにモーリス7本スポークマグホイール〜」

 角型スイングアーム、モーリス7本スポークマグホイールは1973年デイトナでのH2Rでも何台か確認できる。43-44頁写真参照。

右列「〜マン島TTでグラントがH1Rで優勝した」

 H1RWの誤り。

「(1975年)KR750はその前年の1974年10月のMCFAJクラブマンレースに姿を見せたが、世界GP用H1RWがベーストなっているものの〜」

 1974年10月にMCFAJのレース(プラクティスのみ)に姿を見せたのはH1RWではないのか? 当時、H1RWとされたマシンが実はKR750プロトタイプなのか? ライター氏の勘違い?
 MCFAJのレースの名称全てがクラブマンレースではない。

139頁左列「(1975年)〜ヤマハYZR700(OW19)の694t〜」

 YZR700という名称はヤマハ公式ではなく雑誌等による通称だが、1975年型YZR750は748tなのでYZR700は誤り。また、1975年型YZR750は0W29。

「〜ヤマハもYZR750(OW31)〜リア・モノクロス・サス付でデビューさせていた」

 
YZR750がリア・モノクロス・サスになったのは1975年型YZR500(0W29)。プロトタイプというべきマシンは1974年日本GPで登場した。

139頁右列(1976年)デイトナにはスズキからカワサキに移籍した阿部孝夫が参戦〜デュハメル〜グラント〜バリー・ディッチバーン〜だが、USカワサキ復帰のニクソンが堂々の2位〜」

 赤文字は1975年。なお、阿部がカワサキに移籍したのは1974年。
 Ditchburnの表記はディッチバーンの方がよくないか?

「1977年にはグレッグ・ハンスフォードがデイトナ3位〜」

 4位の誤り。3位は片山敬済。

「(写真説明)KR750を駆りマン島で優勝したミック・グラント」

 誤りではないが、1977年の写真であることを書くべき。KR750のTT初優勝である。

 

2 カワサキZの源流と軌跡(小関和夫 三樹書房2013)

90頁右列本文・写真説明「(1973年)鈴鹿6時間耐久レース」

 8時間耐久レースの誤り。鈴鹿の耐久レースが「6時間」だったのは1977年と、8時間の予定だったが台風接近により6時間に短縮された1982年。

115頁写真説明「写真左からカナダ人ライダー、イヴォン・デュハメルとポール・スマート〜〜ポール・スマート・がJ1Rで活躍した1979年頃の写真」

 
ライダー名は「写真左からゲーリー・ニクソン、カナダ人ライダーのイヴォン・デュハメル」の誤り。1973年シーズン後に来日し明石工場を訪問した時の写真である。
 J1Rは85tの市販車改造レーサー。

 
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