ハンドリングのヤマハ
ヤマハのサイト中の「ハンドリングのヤマハ」は、根本健 氏が書いていることになっている。ヤマハ側にはチェックできる人がいないようだ。
http://global.yamaha-motor.com/jp/yamahastyle/yamaha-handling/list/vol02/01.html
〇「レースとヤマハの切っても切れない縁は、’57年の浅間火山レースでホンダに勝つことから始まった。その後、カタリナのUSグランプリに遠征」
1955年7月の第3回富士登山レース、1955年11月の第1回浅間高原レースは忘れられているようだ。また、後半は「USのカタリナ・グランプリ(1958)に遠征」の誤り。
〇「思い出すのが’66年の富士スピードウェイでの世界GP最終戦。他のヤマハ・ライダーが250cc、125ccとも最新の水冷4気筒マシンを走らせていたのに対し、若い本橋選手だけ空冷ツインのRD56(250cc)と水冷ツインのRA97(125cc)を与えられながら、果敢に攻めて上位をゲットしていたからだ」
1966年、ヤマハは125t第7戦アルスターGP、第8戦マン島TTのそれぞれのプラクティスで125t4気筒マシンを走らせたが、レースでは用いなかった。最終戦(第10戦)日本GPのレース本番では125t4気筒は走ってない(プラクティスでは不明)。
〇(写真説明)「125cc・並列2気筒ファクトリーマシン0W15を駆るケント・アンダーソン。1973〜74年には連続でGP125を制した」
このマシンが125tの0W15に見えるか・・・1968年のUS・ライトウェイトクラス(250t)でのアート・ボーマンのTD-1C(250t)スペシャル(RD56フレーム )で、手前のカワサキA1-Rに乗るのはウォルト・フルトンV。1968年デイトナで撮影されたものと思われる。
〇「「そういえばRD05にはキャスター角を変えられる装置も付けていた。ホイールベースを変えるのではなく、このキャスター角を低速コースと高速コースとで変えられるようにしてあった」。これには驚いた、ハンドリングの追及が'65〜'66年で既にそこまで及んでいたのは初耳だったからだ」
これが初耳とはライター氏のレベルが低すぎるのではないか。
〇「「125のRA97という2気筒のマシンは、他が4気筒になっても戦えたほど。結局ヤマハのエンジンはトルクがあるんですネ。他がトルクを無視して最高速を狙っていくとパワーバンドがどんどん狭くなり、ミッションの段数を稼がないと繋がらなくなる。ヤマハは立ち上がり加速が良いということを常に意識していましたから。コーナーを速く走る秘訣はこのときのトルクがなければダメで……他は12速もあったのにRA97は8速で始めて最後は9速」。この125の闘いは4気筒になってスズキやカワサキが14速まで行ったのに対しヤマハのRA31は9速を守り通していたのだ。」
「他が4気筒になっても戦えたほど」は「他が4気筒であったとしても戦えただろう」(ヤマハ2気筒と他社2ストローク4気筒が世界GPで同時に走ったことはない)
「他は12速もあったのにRA97は8速で始めて最後は9速」 の「12速」は1967年最終戦・日本GPに登場したスズキ4気筒RS67U。RA97がGP現役だった1966年当時、スズキ2気筒は9速、カワサキ2気筒は8速。比べるなら同じ2気筒同士で比べないと意味がない。
「スズキやカワサキが14速まで行ったのに対し」 スズキ125t4気筒RS67Uは12速、カワサキ4気筒KR-3(KA-U)は公称10速。
「ヤマハのRA31は9速を守り通していたのだ」 RA31の1967年型には11速型もあったといわれている。
〇「僕はレースを始めた頃、カワサキ系チームに所属していたので15,000rpm以上という高回転で1,000rpmに満たないパワーバンドと14速ミッションに苦労していた先輩の姿を間近に見ていた」
カワサキに14速のマシンがあったとは初耳。1967年最終戦日本GPに登場したKR3(KA-U)125t4気筒は10速と公表されている。
〇(写真説明)「TD-3をテスト中の本橋選手」
このマシンがTD-3(250t)に見えるのか・・・このマシンはTZ750と思われる。「レーシングマシンをテスト中の本橋選手」に修正された。
http://global.yamaha-motor.com/jp/yamahastyle/yamaha-handling/list/vol02/02.html
〇(写真説明)「1964年、マン島TTレース125ccクラス。トップでチェッカーをくぐったP・リード選手」
1967年の誤り。なお、「トップでチェッカーを受けた」は「トップタイムでチェッカーを受けた」又は単に「優勝した」とした方がよい。最初にチェッカーを受けたのはスチュアート・グレアム(スズキ)だからである。当時、マン島TTは原則としてゼッケン順に2台づつスタートしタイムを競っていた。リードはグレアムの36.6秒後にゴールし3.4秒差で優勝。「1967年」に修正された。
〇「RD56というのは1960年頃にできて、RD05が出るまでに完成されていた」
1961年に参戦した時のマシンがRD48で、RD56は1962年11月の全日本選手権(鈴鹿)で登場したのだが・・・
〇「K・ロバーツ、B・シーン、F・ウンチーニ、片山敬済、F・スペンサー……挙げていくと際限がないほど'70年代のチャンピオンはヤマハの市販レーサー育ちだ」
ウンチーニ、スペンサーは80年代の世界チャンピオン。
〇「'73年に全日本チャンピオンとなって世界GPを走った僕も、このヤマハTR3、TZ350のユーザーだった。当時はたとえばカワサキのKR250やKR350、それにハーレー(買収されていたイタリアのアエルマッキ)の250や350などのワークスマシンが、このヤマハ市販レーサーを何とか攻略しようと必死だったのだ。トップスピードではさすがにこれらワークスマシンにかなわなかったが、ヤマハ市販レーサーは抜群のハンドリングでコーナーが速く、チャンピオンの座をなかなか明け渡さなかったのである」
TZ250/350が登場したのが1973年だが、250tクラスではハーレー(1974-76)、モルビデリ(1977)、カワサキ(1978-81)、350tクラスではハーレー(1976)、カワサキ(1978-79、81-82)が個人タイトルマシンになっているが・・・
〇(写真説明)「RD05を全面的に見直し、徹底した軽量・小型化を図ったRD05A。1967〜68年、フィル・リードのGP250連覇に貢献した」
1967年のチャンピオンはマイク・ヘイルウッド(ホンダ)。「RD05を全面的に見直し、徹底した軽量・小型化を図ったRD05A。1968年、フィル・リードの3回目となるGP250制覇に貢献した」に修正された。
〇「当時の全日本選手権は市販車ベースのマシンでなければ参戦できなかったため、市販レーサーTD-3と市販車DX250(写真)は多くの共通点を持っていた」
TD-3が実戦に登場した1972年から市販レーサーも公認車両の対象となった。どんな市販レーサーであっても公認されればそのレーサーによるリザルトがポイント対象となる。つまり市販レーサーは一般市販車ベースである必要はなかった。こちらにも「※1972年からレース専用マシン解禁」とある。