RD05の記事

 出典は別冊モーターサイクリスト2000-5。

 歴史の評価というのは、個々の事実の積み上げができて初めて可能になる。個々の事実の検証が疎かなRD05の記事全体の出来は言わずもがなだろう。

110頁
○1961年のホンダ125ccの主戦マシンはRC145ではなく2RC143/RC144(RC144Fに2RC143Eを搭載)。

○1962年第1回全日本ロードレース(鈴鹿)で走ったホンダ250cc4気筒はRC164ではなくRC163。

111頁
○1964年イタリアGPで初登場したホンダ250cc6気筒は3RC164ではなくRC165。

○1964年イタリアGP250ccクラス前の形勢として「〜リードは4勝。対してレッドマンの勝ち星は2勝だが、入賞率に勝るレッドマンが勝てば、個人、メーカータイトルともホンダの手中に入る可能性が高い」とあるが、既に前戦アルスターGP終了時点でメーカータイトルはヤマハのものになっていた。

 また、当時は有効得点制(1964年250ccクラスはベスト6戦のポイントの合計)のため、優勝回数が少なかったレッドマンは不利な状況だった。レッドマンがタイトルを手にする条件は次のとおり。
〇レッドマンがイタリア、日本と連勝(リードの順位は関係ない)
〇レッドマンが優勝1回、リードは2レースとも3位以下

112頁
○写真説明でRD05のVバンク角を90度としているが、70度の誤り。113頁でも間違えている。フェアリング上端から覗くシリンダーヘッドが写真に写っているが、90度ではないと気が付かないのだろうか。 当時の技術者にインタビューしたのだから、技術者に確認すればいいのだが、ライター氏の頭が「90度」で凝り固まっているようだ。

○1964年日本GPについて「(ホンダ6気筒が)圧倒的な直線スピードでトップを独走した。〜ヤマハ勢は、ホンダの勢いに圧倒されなす術を知らなかった」、113頁で1965年日本GPについて「ヘイルウッドは実力どおり〜完勝した。」とあるが、こちらを参照されたい。

113頁

○頁左上の写真(右)は1966年日本GPではなく1967年日本GP。

○「'64年当時ヤマハは、125ccにおける主戦マシンとして活躍していた空冷RA75に変わるRA97ツインを水冷方式として初めて開発していた。」とある。RA75は空冷単気筒。1964年ダッチTT(オランダGP)125ccで登場したRA97は空冷2気筒で、1965年マン島TTでRA97水冷が登場するのだが、ライターはRA75を空冷2気筒と勘違いしているのではないか。
114頁
○1965〜66年のRD05について「ベルマウスを極限まで刈り込んだモノブロック気化器採用〜フェアリング形状の工夫」とある。1967年型RD05Aのキャブレターはフロート一体型だが、比較的長いエアファネル(ベルマウス)であり、記事のような「極限まで刈り込んだ」キャブレターは1968年型から。

○「空冷RD05は、1965年日本GPが最後のレースとなった」とあるが、空冷RD05はプラクティスで姿を見せたが、レースでは走らなかった。

○「(1967年型RD05Aのフレームについて)ダブルクレードルフレーム〜シートレールとの段差はなくなり」とあるが間違い。1964年イタリアGP型(下左端)では段差が大きく、1965年日本GP型、1966年型(下左)で段差は非常に小さくなり、1967年型(下右)で段差が若干大きくなり、1968年型(下右端)で段差は消えた。

  これらの間違いからすると、ライターは各年型の区別が付いていなかったのかもしれない。

1965年イタリアGP 1966年マン島TT 1967年日本GP 現存する1968年型

117頁

○「1968年までの"自由フォーミュラ"」は、125・250ccについては「1969年まで」の誤り。

○下右端のクランクケースの写真はネガが裏焼き。

120頁
○「'67年アルスターGP〜ウィナーサークルに並び〜ウィナーのアイビー(中央)と2位リード(右)。〜スチュアート・グラハム(スズキ、左)〜」とあるが、この写真は1966年マン島TT125cc。また、左のライダーはグラハム(グレアム)ではなくヒュー・アンダーソン(スズキ)で、全く異なる顔である。

○1965年ダッチTT125ccの勝者はアンダーソン(スズキ)ではなくマイク・ダフ(ヤマハ)。

○1967年125ccでのアイビーの優勝回数は7勝ではなく8勝。

121頁
○写真説明でダッチTTとあるのは西ドイツGPの誤り。

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