誤った歴史


ホンダは1961年暮れに、ホンダの二輪ライダーであったボブ・マッキンタイヤの未亡人から、旧型のクーパー・クライマックスを研究用に購入していた。私が研究所に来た64年にはすでに用済みであったのか、ボディカバーを被せて通路の横に置いてあった   

  これは「ホンダF1設計者の現場―スピードを追い求めた30年」(田口英治、二玄社2009)の記述である。

 実はマッキンタイヤが事故で亡くなったのは1962年8月で、マッキンタイヤ最後のGP優勝は1962年ベルギーGP250ccクラス(7月)である。したがって、上の記述では

・1961年暮れに
・マッキンタイヤ未亡人から

の何れか、あるいは両方が間違っていることになる。著者の田口氏はクーパー・クライマックス購入には関わっていないので、田口氏が誤った伝聞情報をそのまま記述したものである。

  このクーパー・クライマックスについて、中村良夫氏(故人)は次のように書いている。

   ホンダが保有するクーパーT53・クライマックス (説明書きでは1490cc)

  「ジャック・ブラバムとの最初の出会いは東京の私たちの研究所。1962年の春だったと記憶する。〜この時も故マッキンタイヤ(2輪のグランプリ・ライダー)の持っていたクーパー・クライマックス2.5リッターをわれわれが買ったということを知っており〜。われわれとしてはこのクライマックス・エンジンに装備されていたウェーバーのツインチョーク気化器がなかなかの難物でエンジンのゴキゲンが悪くて困っていたところなので、ちょうどタイミングよくジャック・ブラバム・メカニックの腕をたよりにすることができた。〜ミレ・ミリアをバックにした映画”Blue Helmet”(日本名は”野郎ブッ飛ばせ”というはなはだ物騒な名前がつけてあったが)にジャック自身が出演しており、この映画が東京で上映された直後のこととてどこに行っても彼は人気者であった」(グランプリ2(中村良夫、ニ玄社1970))

 グランプリ2に記述された映画の正しい題名はThe Green Helmetで1961年4月に公開されている(The Green Helmet - Wikipediaにブラバムの名がある)。日本での題名は「野郎ぶっ飛ばせ」で、日本での公開時期は分らないが、ブラバムが1962年春に来日する前に公開されていたとしても不思議ではない。
 なお、「ブルーヘルメット」はホンダ社内レーシングチームの名称。

1961年(昭和36年)暮に旧型F1のクーパー・クライマックス2.5リッターを購入しており〜もともとこのクーパー・クライマックスは、かつてホンダの2輪GPチームのメンバーであったボブ・マッキンタイアが4輪グランプリドライバーに進出するための練習用に購入したものであるが、不幸にしてマッキンタイアは死亡してしまい、無用の車をかかえることになった マッキンタイア未亡人が、経済的な理由からも当時現役のホンダ・ライダーであったジム・レッドマンを通じてホンダで買ってもらえないかという相談があり、未亡人の経済救済を主目的にホンダが引きとったクルマである」(HONDA F1(山海堂1978))

 田口氏の記述は、中村氏の記述を抜粋したものであることが分る。おそらく、この間違いの原因者は中村氏だろう。1960年代のホンダのF1活動を語らせるのに中村氏ほど相応しい人はいないからである。

 一方、エンジン設計担当だった丸野富士也氏は次のように書いている(Honda | Honda F1ルーツ紀行 | Honda F1の原点とヨーロッパ紀行12)。
F1エンジンの設計検討を始めて間もない頃、ホンダは、61年のチャンピオンカー、クーパー・クライマックス 1.5リッター4気筒F1を買った。ホンダの二輪レーサーだったマッキンタイヤ氏の未亡人から譲り受けたのだ。」

 中村氏によるとホンダF1計画が始まったのは1963年初めであり、1961年暮のマッキンタイヤのクーパー購入はマッキンタイヤ未亡人救済が目的で、ホンダF-1計画と直接関係はないということであった。しかし、丸野氏の記録では1962年2月にはクランクシャフトたわみの計算をしており(Honda | Honda F1ルーツ紀行 | Honda F1の原点とヨーロッパ紀行01)、かなり早い段階でレイアウト検討が始まっていたことが分る。

 また、現在、ホンダが保有するクーパーT53に搭載されたエンジンの排気量が1490ccとなっているが、これはホンダがレストアでエンジンをばらして確認しているだろうから、丸野氏のいう「1.5リッター4気筒F1」も正しいと思われる。なお、クーパーT53は1960年型であり、F-1の最大排気量が2.5リッターから1.5リッターになった1961年にクーパーT55が登場するが、クーパーを購入して出場するチームは引き続きT53を使用(1.5リッターエンジンに積み替え)した。また、1961年のタイトルを手にしたのはフェラーリであり、クーパーではない。

 これらのことを総合すると次のようなことが推察される。

○ホンダがマッキンタイヤのクーパー・クライマックスを購入し、実際に入手したのは1962年10月〜12月頃。中村氏の記述は1年間違えている。その時期にはホンダF-1計画は始まっていた。
○ブラバムは毎年、ホンダを訪問しており、中村氏の記述は1962年と1963年の記憶がごちゃ混ぜになったことによるもの(HONDA F1 1964-1968(ニ玄社1984)56頁に中村氏が「このRA270には(注:1964年)3月に恒例(?)の来日をしたジャック・ブラバムにも乗ってもらったが〜」と書いており、毎年、ホンダを訪問していたことが分る(?は原文のまま)。 
○「クーパー・クライマックス購入とホンダF−1参戦計画との直接の関連はないと思わせたい」中村氏の思いが記憶を誤らせたのか。
  あるいは意図的に「クーパー・クライマックス購入とホンダF−1参戦計画との直接の関連はない」ことにしようとしたのか。
○購入したのは2.5リッターではなく1.5リッターエンジン搭載の旧型クーパーT53。中村氏の記述「2.5リッター」は間違っている。
○購入元はマッキンタイヤ未亡人。
○これ以外も含めて中村氏の記述に年月日の記載があまりないこと、映画のタイトルを間違えていることから、中村氏は主に記憶に頼って原稿を書いたと思われる。

 どちらにしても、ホンダのクーパー・クライマックス購入に関する中村氏の記述は間違っている 。一度間違った歴史を修正するには大変な労力を要する。中村氏の記述の誤りを指摘するのは私が最初ではないが、中村氏のご記述から40年近くたっても田口氏の著書のようにその誤りが定着してしまっている。そしてこの誤りには重要な意味がある。ホンダがクーパー・クライマックスを購入した時期、購入ルートが購入目的の証左になるからだ。正確な事実認識なしに正しい評価はできないのである。

2023.5.31追記
 クーパー・T53 - Wikipedia によると、1961年12月にクーパーから新車が直接ホンダに出荷されたとする資料もあるとのこと。ホンダがクーパーから購入したのであれば、明らかにホンダF-1計画のためと判断するしかない。マッキンタイヤ所有だったクーパー・クライマックスはホンダにとって2台目のクーパー・クライマックスということになる。やはり中村氏は意図的に「クーパー・クライマックス購入はホンダF−1参戦計画と直接の関連はない」ことにしたかったのだろう。

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