バリー・シーンのカムバック
「1975年ディトナで転倒、重傷を負ったバリー・シーンは1975年オランダGPでカムバックし優勝した」とよく書かれている。
スズキの横内悦夫氏の回想でも「アッセンに向かう途中、トランスポーターの後ろでクラクションを鳴らしたんで、ふっと見たら見慣れたロールスロイスが走っているじゃないですか。『どうしたんだ』というと、彼もアッセンに向かう途中だと言う。わずか数ヵ月前に瀕死の重傷を負った人間が、そこにいるなんて信じられなくてね。」
実はシーンがGPサーキットにカムバックしたのは1975年第2戦オーストリアGPだ。この時はプラクティスで6位だったが、ドクターストップで欠場している。続く第3戦ドイツGPはエンジントラブルでリタイア、第4戦イタリアGPでは変速機故障でリタイアした。第5戦マン島TTはトップライダー全員がボイコット、そして第6戦オランダGPを迎えるわけである。
このように当時の関係者の記憶には間違いがある。関係者といっても、現場でチームと行動を共にした者、日本にいて統括的な立場にいた者等々、立場が様々である。仮に横内氏が、日本から現地に飛び合流したのがオランダGPならその印象が強くなるのは当然である。このような関係者の記憶誤りを正すのがジャーナリストの役割だが、資料を全く確認しないのが日本のジャーナリストである。あるいは資料を全く持っていないのかもしれない。