RC115-RC116 honda
1 1965年
1965年型のRC115エンジン(以下「RC115E」)の開発は1964年8月に始まった。ボア・ストロークを2RC114エンジン(以下「2RC114E」)以前の33×29oから34×27.4oに変更、バルブ挟角も変更され、オイルパン容量も拡大された。点火システムも2RC114Eではエンジン左側に装着されていたが、RC115Eではエンジンの両側(左側が発電機、右側がピックアップ)に装着された。
RC115Eの排気管はエンジン下を通る通常のタイプ(以下「ダウン型」)とエンジン前で交差しエンジン横を通りシート脇に出るタイプ(以下「アップ型」)があった。ダウン型もアップ型、それぞれに用いられるフェアリングも異なるが、いずれもフェアリングの右ゼッケン前下に膨みが設けられ(点火システムの変更を反映)、オイルパンがフェアリング下に突き出るようになった。また、2RC114E/RC113Fではフェアリングの側面の固定をゼッケンの前後で行っていたが、ゼッケンの後ろ側だけで固定するようになった。
また、シーズン後半には2RC115Eが投入された。
第1戦USGPをホンダは欠場、第2戦ドイツGPからの参戦となった。
レースはブライアンズ、タベリが1、2位。
タベリのマシンはRC115でブライアンズのマシンは不明。
第3戦スペインGPのブライアンズのマシン、タベリのマシンはRC115のようだ。レースはアンダーソン(スズキRK65)が優勝、ブライアンズ2位、タベリ4位。
第4戦フランスGPではアップ型排気管のマシンが登場した。RC115である。シートストッパーに「02
B」と書かれたテープが貼られているが、「RC115F-102、ブライアンズ用」の意味だろうか。シートレール右側にブリーザーパイプが装着されており、RC113Fと同様にフレームをオイルキャッチタンクにしている。
フリープラクティスで、エンジンがコーナーで失速するトラブルに見舞われ、急遽、谷口尚己が現地に飛びキャブレターセッティングを行い、キャブレターのスロージェットを塞ぐことで解決した。レースで用いられたマシンはダウン型で、フェアリング右前下が膨らんでいるのでRC115だと思われる。レースはブライアンズ1位、タベリ2位。
第5戦TTレースでタベリは下左端のマシン、ブライアンズは下右のマシンに乗った。
ブライアンズのマシンの排気管はダウン型だが、フェアリングのゼッケン前に膨らみがあり、フェアリング下にオイルパンが突き出しているので、RC115と分る(下左)。
タベリのマシン(下右)は排気管がアップ型なので明らかにRC115とわかる。排気管はエンジン前で交差するが左気筒分が上、右気筒分が下である。
谷口尚己はエントリーしていたが欠場、レースは悪天候で30分遅れて11時30分スタ−ト。ブライアンズは1周目リタイア、1周目、伊藤光夫(RK65)が2位のタベリを12.2秒離してトップだったが、2周目エンジン不調でリタイア。タベリが優勝。
第6戦オランダGPのブライアンズ、タベリのRC115はダウン型。レースはブライアンズ、タベリが1、3位。アンダーソンが2位。
第7戦ベルギーGP、タベリ、ブライアンズのマシンの排気管はダウン型だが、フェアリングのゼッケン前に膨らみがありフェアリング下にオイルパンが突き出していることから両車ともRC115Eだろう。このようにダウン型がよく用いられたのは、アップ型はキャブレター横に排気管がありキャブレターセッティングがやりにくかったためと思われる。レースはデグナー(RK65)、アンダーソンが1、2位、タベリ、ブライアンズは3位、5位。
この結果、選手権争いは最終戦日本GPに持ち越された。ブライアンズとアンダーソンの個人タイトル争いは、日本GPでアンダーソンが優勝しても、ブライアンズは3位に入ればブライアンズがタイトル獲得、メ−カ−タイトルは優勝した方がタイトル獲得という形勢だった。
最終戦(第8戦)日本GP(下左端)では、ブライアンズ、タベリ、谷口(ゼッケン32)がアップ型、伊藤晶(ゼッケン6)がダウン型に乗った。下左のブライアンズのマシンはシートストッパーにテープが張られており、右端の数字は「5」である。また、フレームをオイルキャッチタンクにはしていない。燃料タンクは樹脂製。下右のマシンはアップ型だが、シリンダーヘッドの冷却フィンがマン島時の4枚から5枚に増加しており、エンジン前で交差する排気管は左気筒が下、右気筒が上である(マン島時と逆)。おそらくこれが2RC115Eだろう。
レース(14周)は、5周までタベリ(下右端)、ブライアンズ、藤井敏雄(RK65)がトップ争いを演じたが、6周目に藤井が転倒。アンダーソンは1周目5位だったが追い上げ11周目にタベリ、ブライアンズに追いつき一時トップに立ったが、最終ラップに転倒、タベリ、ブライアンズのホンダ1−2となった。この結果、個人タイトルはブライアンズ、メーカータイトルはホンダのものとなった。
2 1966年
1966年型のRC116Eの開発は1965年4月に始まった。ボア・ストロークはRC115E、2RC115Eの34×27.4oから35.5×25.14oに変更された。しかし、走行中のマシンを外観上1965年のアップ型と区別できるのは排気管の長さが長くなったこと程度である。
また、自動車技術会サイト(「自動車技術を築いたリーディング・エンジニア」)に掲載された八木静夫氏(元ホンダ技術者)のインタビュー記事では次のように記述されており、燃料噴射も用いられたようだ。 |
昭和41年、最終モデルのRC116は開発中に更に高回転域で慣性効果を有効に利用するために吸気系の長さを更に短くしなければ目標出力を達成しないことに気付きました。しかしシリンダーヘッドを作り直す時間的余裕もなく、キャブレターの変わりにインジェクション装置を採用しました。その結果吸気管長を20ミリ短く出来20000回転のエンジンを21000回転まで上げることでリッター当たり270から280馬力と向上することが出来ました。インジェクション方式で馬力が出たのではなく慣性効果のマッチングを図ったことによります。RC116は最高24000回転まで上げました。 |
第1戦スペインGPは、タベリ、ブライアンズが1、3位、スタ−トで遅れ最高ラップを出し追い上げたアンシャイト(スズキRK66)が2位。
第2戦ドイツGPは、アンシャイトが優勝、ブライアンズ、タベりが2、4位。ブライアンズのマシンの排気管は比較的短い。
第3戦オランダGPは、タベリ、ブライアンズが1、2位。
海員ストで開催が遅れた第4戦TTレ−スは、出走車が17台と少なかったため、例年のインターバルスタートではなく同時スタ−トとなった。1周目の7マイル地点ではアンダーソン(RK66)、タベリ、ブライアンズだったが、アンダーソンは軽いピストン焼付で後退、ブライアンズがトップに立つ。2周目片山義美(RK66)、アンシャイトもピストン焼付を起こしリタイア、結果はブライアンズ、タベリが1、2位。ブライアンズとタベリのマシンのフェアリング形状が異なる。両者のRC116の前輪覆いはない。
タベリ https://www.ttracepics.com/suzuki/hugh-anderson-suzuki-luigi-taveri-honda-24262127.html
https://www.ttracepics.com/public/honda-rc116-50cc-racer-19926071.html
https://www.ttracepics.com/honda/luigi-taveri-honda-1966-50cc-tt-13223939.html
https://www.ttracepics.com/honda/luigi-taveri-honda-1966-50cc-tt-24157848.html
ブライアンズ https://www.ttracepics.com/honda/ralph-bryans-honda-1966-50cc-tt-24157846.html
https://www.ttracepics.com/honda/ralph-bryans-honda-1966-50cc-tt-13223937.html
https://www.ttracepics.com/honda/ralph-bryans-honda-1966-50cc-tt-8450135.html
第5戦イタリアGPは、アンシャイトが1位、ブライアンズ、タベリが2、3位。この結果、メ−カ−タイトルはホンダのものとなり、アンシャイトとタベリ(各優勝2回)の個人タイトル争いは最終戦(第6戦)日本GPに持ち越された。しかし、ホンダは富士スピードウェイの安全性を理由に日本GPをボイコット、日本GPではアンシャイトが2位に入り(優勝は片山義美)、個人タイトルを獲得した。
1967年、ホンダは50cc、125ccクラスへの参戦を見合わせた。この時点では一時的な休止と捉える向きが多かったし、ホンダが50cc3気筒を開発しているという噂もあった(3気筒は構想としてはあったとのこと)。スズキが1967年に50cc3気筒RP66の開発を継続していたのもこのことが一因なのだろう。しかし、1968年に入ると250cc、350cc、500ccクラスを含めグランプリレースからの全面撤退がホンダから発表され、最も魅力的な4ストロークレーサーの一つであるホンダ50ccレーサーの歴史が1966年に終わっていたことが認識されたのである。
3 諸元
いずれも推定を含む。
RC115E/RC115F | 2RC115E/RC115F | RC116E/RC116F(注1) | |
ボア×ストローク o | 34×27.4 | 34×27.4 | 35.5×25.14 |
バルブ数 | 4 | 4 | 4 |
バルブ径 o | 吸13.5 排11.5 | 吸13.5 排11.5 | 吸13.5 排11.5 |
バルブステム径 o | 3.5(吸、排) | 3.5(吸、排) | 3.5(吸、排) |
バルブタイミング(IO、IC、EO、EC) 度 | 30、40、40、30 | 30、40、40、30 | 30、40、40、30 |
バルブリフト o | 5 | 5 | 5 |
バルブ挟角 度 | 吸24 排32 | 吸24 排32 | 吸24 排32 |
カムシャフト駆動方式 | スパーギア | スパーギア | スパーギア |
点火プラグ径 o | 8 | 8 | 8 |
圧縮比 | 9.7 | 10.3 | 10 |
ピストンリング数、幅 o | 2、0.6 | 2、0.6 | 2、0.6 |
クランクシャフト平均軸径 o | 12.4 | 12 | 12.4 |
キャブレター | ケイヒン フラットバルブ19o | ケイヒン フラットバルブ19o | ケイヒン フラットバルブ21o/ 燃料噴射(注2) |
点火方式 | トランジスタ | トランジスタ | トランジスタ |
最高出力 PS/rpm | 12.8/19250 | ? | 13.7/20500 |
変速機段数 | 公称は9速(技術者によるとホンダの50cc2気筒レーサーは、最大12速で最後は10速に落ち着いたとのことだが、(オートスポーツ1978-7-1)、テープ起こしの段階の誤りだろうか) | ||
タイヤサイズ(前/後) | 2.00-18/2.25-18 | 2.00-18/2.25-18 | 2.00-18/2.25-18 |
ブレーキ(前/後) | キャリパー/2リーディング | キャリパー/2リーディング | キャリパー/2リーディング |
エンジン開発開始時期 | 1964年8月 | ? | 1965年4 |
注1:1966年型はRC116と呼称されているが、エンジン、フレームの打刻はRC115であった可能性がある。 2:全て燃料噴射タイプだったわけではないようである。 |
4 現存するマシン
ホンダが保有する以下のマシンはいずれもエンジン打刻が「RC115E-20×」である。
(1)RC115E-201/RC115F-101
雑誌説明はRC115、シリンダーヘッド冷却フィンは4枚、エンジン前で排気管が交差するが、左気筒分が上、右気筒分が下((2)、(3)も同様)。
(2)RC115E-205/RC115F-103
雑誌説明はRC115、シリンダーヘッド冷却フィンは5枚。
(3)RC115E-203
表示はRC115、シリンダーヘッド冷却フィンは4枚。キャブレターに「RC115
19φ」の刻印あり。
下表のとおり(1)〜(3)及び当時の写真を比較するとエンジン等に違いが認められる。
「ア〜カ」は左の写真(1965マン島でのダウン型)の排気管付近の矢印をアとして左回りに付けた記号(カを除く)である。他にも違いがあるが、レストアの段階で加工された可能性があるため省略した。
(1) | (2) | (3) | 65フランス、 アップ型 |
65TT、 ダウン型 |
65日本、 ブライアンズ車 |
65日本、 アップ型 |
66マン島、 タベリ車 |
|
ア シリンダーヘッドの冷却フィンの枚数 | 4枚 | 5枚 | 4枚 | − | 4枚 | − | 5枚 | − |
イ 各カムシャフト間のギアケース上形状 | 直線 | 膨らみ | 直線 | − | 直線 | − | − | − |
ウ 吸気側カムギアカバー上端形状 | 台形 | 半円 | 台形 | − | 台形 | − | − | 台形 |
エ キャブレター前のカムギアケース後端の縦方 向リブの有無 |
? | 有 | 有 | − | 無 | − | − | − |
オ 右クランクケースカバー前端形状、ボルトの位置 | 窪み無 | 窪み無 | 窪み無 | − | 窪み有 | − | − | − |
カ フレームブリーザー取付部有無 | 無 | 無 | − | 有 | 有 | 無 | − | − |
八木氏が書かれた「ホンダの二輪レース用機関の出力特性−機関諸元の選定−」(1994HONDA
R&D Technical Review)によると1965年後半に2RC115Eが使用されたということであり、65TTダウン型をRC115Eとすると、シリンダーヘッド冷却フィン数等から65日本アップ型、(2)は2RC115Eであると考えられる。
左の写真はおそらく1966年にヨーロッパで撮影されたものと思われるが、エンジンは(3)に酷似している。
RC116について疑問なのは125cc、250cc、350cc、500ccのホンダレーサーはいずれも最終型が現存しており、297cc6気筒に至っては「RC174E-802」と打刻された1968年型のエンジンまで現存しているにもかかわらず「RC116」と打刻されたエンジン、フレームが確認できていないことである。
仮に1966年序盤に2RC115Eが用いられたのであれば、その後に登場したRC116Eがカルネ取得の手間を省くためRC115Eと打刻されたことが考えられる。66マン島タベリ車のウが(3)と同形状であることも考慮すれば(3)のエンジン打刻がRC115Eであっても中身はRC116Eではないだろうか?
(1)は? エンジンの外観は65マン島時と異なるし、不明のエを除き(3)に酷似している。エンジン番号はRC115E-201なので1965年後期以降のエンジンと思われる。(3)と同様に1966年型RC116の可能性がある。(1)、(3)とも、単なる(2)の2RC115Eの別仕様の可能性もあるが。
現存するフレームの打刻はいずれも「RC115F-10×」であり、番号からは1965年型初期を思わせるが、フレームへのブリーザー取付部がないことからすると1965年後期以降に使用されたものと思われる。おそらく1965年日本GPで登場し、そのまま1966年も使用されたのだろう。
なお、(1)-(3)はレストア後の状態であるが、過去に公開されたレストア前の状態のマシンは次の(a)、(b)である。エンジンを積み替えたりしていなければ、(a)が(1)に、(b)が(2)にレストアされたのだろう。
2005年現在、ホンダコレクションホールに展示されている(1)のマシンは「RC116」と表示されている。上で(1)、(a)について書いたことと合わせて考えると、このマシンはエンジン/フレーム番号がRC115にも関わらずRC116のようだ。 |
(4)RC115E-102(エンジンのみ)
右は個人が保有するエンジン。冷却フィンは4枚。(1)〜(3)と異なり、排気カムシャフト左カバーに回転計ケーブル駆動機構がない、エンジンの外観、エンジン番号102といったことからすると、このエンジンは1965年前半に用いられたRC115Eだと思われる。
(5)-(フレームのみ、フレーム番号不明)
RC116のものといわれるフレームが現存している(他機種エンジンを搭載)。フレーム番号も確認できていないが、伝え聞く流出ルートからするとRC115F、RC116Fの可能性が高い。その他の事は不明。