RC148/RC149 HONDA
1960年代をエンジンで見れば「4ストロークと2ストロークの対決」、「多気筒化、多段変速化」である。その4ストローク側の究極の姿がホンダの125cc5気筒だろう。
1 1965年
ホンダは1965年125ccクラスに向けて4気筒のRC147エンジン(以下「RC147E」)の開発を進めており目標出力を達成していたが、耐久性、出力持続性に欠け実戦に登場させることはできなかった。このため出力はRC147Eより劣るもののRC147Eと並行して開発を進めていた4RC146E(フレームは4RC146F)を第2戦ドイツGPから出場(第1戦USGPは1964年と同様欠場)させた。
もちろん、これは「窮余の一手」であり、RC147Eに見切りを付けた1965年2月に新型エンジンの開発に着手した。125cc5気筒のRC148Eである。4気筒の次のステップであればエンジンの振動からして6気筒化が当然と考えられる。しかし、それまでのホンダの最小気筒あたり排気量25ccを下回る20.8ccともなれば、50cc2気筒の例からいっても開発にかなりの期間を要することになる。
一方、50cc2気筒は1964年に一定の成果を上げており、1965年に向けてボア・ストロークを変更したRC115Eの開発が進んでいた。そしてRC115Eを2.5倍し125cc5気筒にするモジュール設計であれば開発に要する期間を大幅に短縮ができたのである。5気筒ということで振動、クランクシャフト強度等が懸念されたが、実機を製作するとこれらはそれほどでもなく、冷却の方が問題となった(右はRC148Eの展開図)。
さて、1965年125cc世界選手権はスズキRT63改A(公表名RT65)が第1戦から第4戦まで4連勝、第5戦TTでは水冷ヤマハRA97が登場し優勝と、4RC146はスズキだけでなくヤマハにも圧倒されてしまい、RC148Eの開発は猶予がなくなった。そしてホンダは勝てる可能性の低い125ccクラスをあきらめ、第7戦から第11戦まで欠場することになった。
プラクティスではタベリが2分34秒6で1位、ヒュー・アンダーソン(スズキRT65、RT63改Aではなく本来のRT65)が2分35秒1で2位、3位片山義美(スズキRT63改A)、以下レッドマン、ブライアンズと続く。
レースではレッドマン、片山、越野晴雄(RT65)が飛び出しタベリはやや遅れる。1周目の終わりはアンダーソン、レッドマン、タベリ、越野。片山はエンジントラブルでリタイア。タベリは2周目にトップに立つとアンダーソンとの差を広げ出す。4周目にレッドマンがエンジントラブルでリタイア、5周目に越野が転倒リタイア、3位はブライアンズ。10周目頃からアンダーソンがペースアップ、タベリとの差を縮め出す。14周目頃からタベリのマシンのエンジンはばらつき音を発し始め(シリンダーヘッドガスケット吹き抜け)、15周の終わりではアンダーソンに抜かれ、アンダーソンがそのまま20周のレースをトップでゴール。タベリ2位、ブライアンズ3位と、5気筒は早さを見せたもののデビューレースを優勝で飾ることはできなかった。
2 1966年
1966年型の50cc2気筒エンジンとして、1965年4月のシーズン開幕頃にRC115Eのボア・ストロークを変更したRC116Eの開発が始まっていた。そしてRC148Eの開発の目処が立った1965年7月に、1966年型125ccエンジンとしてRC116Eの諸元を用いたRC149Eの開発が始まった。おそらく1965年日本GPの頃にRC149E試作1号機が完成したものと思われる。
フレームは1965年日本GP時と同型のものと新型が用いられた。
第2戦ドイツGP、左はプラクティス中のタベリでフレームはスペインGP時(上右)と同じタイプだが、レースで用いられたマシン(中)のフレームは新型フレームのようだ。また、ブライアンズがレースで用いたマシン(右の143、142はアンシャイト(RT66))は旧型だろう。 レースではタベリ、ブライアンズが圧倒的な速さを見せ1、2位。以下、3位リード、4位ぺリス、5位アンシャイト。 |
ドイツ |
第4戦東ドイツGPは、タベリ(上右)、片山義美(RT66、第3戦から出場)、アイビ-、リード、ぺリス、ブライアンズ(上右端)。タベリのマシンとブライアンズのマシンを比較すると前フェンダー、前ブレーキトルクロッド等が異なることがわかる。
第5戦チェコスロバキアGPは、タベリ、ブライアンズで1、2位で、以下アイビー、アンダーソン、ぺリス。
第6戦フィンランドGPは、リード、タベリの激しい争いになり同タイムでゴール(下左端)したが、僅かにリードが前、3位以下はブライアンズ、アンダーソン、片山。
第7戦アルスタ−GPは、タベリ(下左)、ブライアンズが1、2位。以下リード、トミー・ロブ(RA97)、アンダーソン、ぺリス。タベリのマシンのフレームはオランダGPでの「103」と同じタイプで、ブライアンズのマシンのフレームは旧型。
フィンランド アルスター マン島 イタリア
TTレースは海員ストで開催が遅れ第8戦として行われた。そして1966年にホンダに乗り250、350、500ccクラスに参戦していたマイク・ヘイルウッドが125cc5気筒に乗ることになった。上中はプラクティス中のヘイルウッドで、マシンは新型フレーム。
午前11時スタ−ト予定が、山岳地帯の濃霧のため3時間遅れ午後2時スタートとなった。アルスターGP前にイギリス国内レースで転倒負傷したビル・アイビーが復帰、圧倒的な速さを見せ優勝、以下、リード、アンダーソン、マイク・ダフ(RA97)となった。ホンダ勢はスタート遅れのためキャブレターセッティングを失敗したようで6位ヘイルウッド、7位ブライアンズ、8位タベリとなった。
第9戦のイタリアGP、上右はパドックでのタベリのマシンでレースで用いられたものと思われる。また、第7戦で用いられたマシンと同一のようだ。レースではタベリ(上右端)、ブライアンズが圧倒的な速さを見せ1、2位。以下、アイビー、リード(スズキは欠場)。この結果、125ccの世界選手権はタベリ、メーカー選手権もホンダが獲得した。
そして、シーズン中に予告したとおり、ホンダは富士スピードウェイの安全性を理由に最終戦(第10戦)日本GPをボイコット、翌1967年は50、125ccクラス参戦休止することになった。
1966年のホンダの戦績を見れば分るが、ホンダ5気筒はホッケンハイム(ドイツ)やモンツァ(イタリア)のような高速コースでは圧倒的な速さを見せたが、ツィスティなコースでは弱点を持っていたようである。そしてヤマハ4気筒が本格参戦することとなる1967年ともなれば、最早5気筒に勝ち目はなかっただろう。まさにホンダ125cc5気筒はホンダ4ストローク125ccにとって「白鳥の歌」だったのである。