RB SUZUKI
スズキRBは1959年に開催された最後の浅間火山レース125ccクラスに出場したマシンである。このマシンの開発に携わった中野広之さんが「日本モーターサイクルレースの夜明け」でRBの開発の経緯を詳細に明らかにされているが、あるレーシングマシンの開発についてこれほど詳しく書かれた物語を、私は他に知らないし、初めて読んだ時の興奮を今でも忘れることはできない。
以下は「日本モーターサイクルレースの夜明け」その他の資料を読んだ感想をまとめたものである。
1959年浅間火山レースに向けて走らせたマシンには、V2X、RA、RBの3種のマシンが存在した。
1955年の浅間高原レースの後、スズキはレース活動を休止していたが、清水正尚氏が個人的に研究を進め設計・試作したエンジン(変速機なし)があった。V2Xはこれをベースに変速機その他を製作し、完成させたものである。
RAは練習車という位置付けで、本命車RBのテスト用であった。
時期によりどのマシンが浅間で走ったかをまとめたのが次の表である。
車種\時期 | 58年秋 | 59年5月上旬 | 5/25 | 6月上旬 | 6/13 | 6/30 | 7/15 | 8/6 | 8/12 | 8/23 | |
V2X | 先行テスト | 耐久テスト | 耐久テスト | ||||||||
RA | 完成 | 合宿開始 | 練習 | 新大端クランクテスト | ○ | 新小端クランクテスト | 練習 | ||||
RB | 設計 | 浅間へ持込 | 初テスト | レース |
6月13〜17日にRAを使用し新クランクシャフトのテストが行われ、クランクシャフトの問題は解決し、高回転化が可能になったが、高回転化に伴い、ピストン焼き付き等のトラブルが発生した。このため、6月30日にはRAとはクランク回転方向の異なるV2Xを使用しピストン焼き付きテストが行われた。このようなことからすると、3種のマシンのクランクシャフト、コンロッド、ピストン等基本的な部分に大きな違いはないと考えられる。
3種のエンジンのメカニズム、外観の違いは次のとおりである。なお、当時の国内ルールでは若干の排気量超過が認められていた。
|
V2X |
RA |
RB |
エンジン一次駆動 | チェーン | ギア | チェーン |
クランクシャフト回転方向 | 前方 | 後方 | 前方 |
ボア×ストローク | 56×51(58秋は54×54もテスト) | 56×51 | 56×51 |
クランクケース左カバー |
丸い |
角張っている |
角張っている |
シリンダーフィン |
8枚程度 |
5枚程度 |
5枚又は8枚程度 |
シリンダーヘッドフィン方向 |
進行方向 |
進行方向に向かって外に開く |
進行方向 |
フレーム搭載位置 |
ダウンチューブぎりぎり |
V2Xより後ろ |
V2Xより後方 |
左(※)は58年秋の浅間でのテスト時のV2X、右(※)はそのテスト前後に工場内で撮影されたV2Xである。いかにも急造マシンといった印象を受ける。なお、これらの写真は中野広之さんのご厚意によりここに引用させていただいた(以下、「※」で区別)。トリミングしたり、サイズを縮小しているので、オリジナルは中野広之さんのHPをご覧いただきたい。 下左端のマシンは58年秋のテスト後の改良型V2Xである。燃料タンクに数字を含む文字が書かれている。59年3〜4月頃、完成直後に工場内で撮影されたものだろう。マシンに跨るのは松本聡男。下左(※)は59年5月上旬の耐久テスト時のV2Xである。下右(※)は旅館の庭で同型のマシンのクランクシャフト交換を行っているものである。特徴のあるタンクの塗装に注意。下右端(※)は下右と同じ写真に写っているマシンだが、58年秋のテスト時と同型のマシンのようである。 |
左(※)は壮行会?で勢揃いしたRAである。よく見るとフレームが2種類ある。識別点はスイングアームピボット部からシートに立ち上がるフレームパイプの角度、クッションユニット上端取付部周辺の形状である。右から1〜2台目のマシンと3番目のマシンと異なることがわかるだろうか(以下、前者を仮にA型、後者をB型とする)。 右は同じく59年5月中旬頃の完成直後に工場で撮影されたA型のRAと伊藤光夫である。 |
左(※)はA型のRAでマシンに跨るのは松本聡男。中(※)は伊藤利一のB型のRA、右(※)はA型のRA。フレームの違いがよくわかる。 下左(※)に写っているマシンのうち、左は伊藤利一のB型のRAと思われる。右はおそらくA型。下右(※)は合宿中のスタート練習直前のRAであるが、右から2番目のマシンはB型である。 |
このようにRAには少なくとも2種類のフレームが存在した。他にも異なるフレームが存在した可能性もあるが写真でははっきりしない。そして、RBにも2種類のフレームが存在する。
下左(※)のマシンはRBと思われる。おそらく浅間での最初のテストの直前に撮影されたものだろう。下中のマシンは伊藤光夫のRB(レース当日撮影?)、下右は伊藤利一のRBである。両車のフレームはRAと同様に異なる。伊藤光夫のマシンはどちらかというとRAのA型、伊藤利一のマシンはRAのB型の特徴を受け継いでいる。また、伊藤利一のマシンのシリンダーはRAのもののようである。
左の写真はレース当日撮影されたものと思われるが、その左に写っているのは伊藤利一、中央は市野三千雄の同タイプのRBである。 右写真はレース中?の伊藤利一のRBである。 |
このようにRA、RB共に2種類以上のフレームが存在した理由は何なのだろうか? 合宿出発前にすでに2種類のフレームが存在したことから、テスト期間中の改良ではないと考えられる。とするとライダーの好み(体型?)に合わせたのだろうか?
このようなことや「日本モーターサイクルレースの夜明け」に詳しく記述された開発の内容、当時のスズキの企業規模を考えると、たった1回のレースのためにかけたエネルギーは、恐ろしくなるほどである。まさに社運をかけたレースといっていいだろう。他のメーカーにとってもそれは同様だったと思う。浅間テストコースは舗装路面ではなかったが、平坦なダートでスロットル全開時間の長いエンジンにとって過酷なコースだった。そして浅間で鍛えられ、選別されたマシンが世界に向けて飛び出していったのである。
また、今では2ストロークが4ストロークより速いのは当たり前だが、この当時はそうではなかった。結果的にRBは浅間で見るべき成果を挙げることはできなかったが、優勝するチャンスは十分あった。そして2ストロークレーサーによるグランプリレース活動を行うきっかけをスズキに与えるに十分だった。
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