RACERS Vol.76 TZ500

7頁表750t欄

 0W19の登場は1973年。
 1974年のファクトリー車はTZ750(694t)と大差なし。これを0W19と呼ぶべきかどうか?
 0W29の「0W23の車体に750t化したエンジン」は誤りで、「TZ750の車体を基本にモノクロスサスペンションにし750tエンジン搭載」の誤り。
 「0W23ベースの車体に750ccエンジン搭載」から矢印が1976年の0W31に向くべき。
 0W31は「0W23ベースの車体に750tエンジン搭載」。
 TZ750Fは1979年登場。

7頁右端欄

 1974年「ドッズ、TZ750でF750チャンピオン」の赤文字は「TZ350」の誤り。1974年3月、FIMでTZ750がF750に適合しないことが決議された。
 1976年欄の右端が1975年の右端欄と同じ。
 1977年「TZ750改500エンジンサイドカーが登場」は「ジョージ・オーデル/ケニー・アーサー(及びクリフ・ホランド)がTZ750改500エンジンサイドカーでチャンピオン」の誤り。TZ750改500エンジンサイドカーは1975年には登場している。

9頁左上「〜0W23譲りのコンパクトなエンジンをベースに、カセットミッションの採用〜したのが0W35K〜」

 0W35/0W35Kの1-2・3-4気筒ボアピッチは0W23より23mm大きい。
 0W35Kで初めてカセットミッションが採用されたような文だが、カセットミッションの初採用は0W23。7頁が正しい。

11頁「一次減速比 2.136(47/22)」

 「2.205(39/38・47/22)」の誤り。TZ500の動力伝達経路は下左図のとおり(変速機カウンターシャフトは省略)で、黒数字は1980年型TZ500パーツリストに記載のある歯数で、赤色数字は75頁写真の歯数。また、1980年型、1982年型を取りあげた雑誌記事では、一次減速比は2.205となっていた。

「乾燥重量 138s(1980、1981)、137s(1982)」

 当時の公表資料どおりだが、1982年型を取りあげた雑誌記事(複数)ではエンジン側で1.5s、フレーム側で2.5s、計4s軽量化されたとある。1980年型、1981年型の乾燥重量138sはフェアリング(3s)を含まないようで※、フェアリングを含む半乾燥重量は

138 + 3 + 4(水・ギアオイル)=145s程度

で、1982年型は141sと思われる。
 なお、1980年日本GPで3位入賞した水谷勝のTZ500がレース後の車両検査で147s(野田メモ)だった。上は同車両検査での騒音測定。

※ライダースクラブ1980-4では「カウリングを含めて138kg(乾燥)」とある。
 1980、1981年型の138sは乾燥重量で、1982年型の137sは半乾燥重量(水・オイル含む)という可能性もある。

18頁上「(1979年)高井幾次郎が第6戦〜第9戦まで実戦テスト、第9戦スウェーデン〜見事9位〜」

 第11戦イギリスGP予選6位でレースはリタイア。第10戦フィンランド、第12戦(最終戦)フランスは不明。ライダースクラブ1980-5の73頁下写真はイギリスGPプラクティスのものだが、フェアリングにフィンランドGPの車両検査のステッカーが貼られたままなので、フィンランドGP予選を走ったと思われる。

18頁下「(1979年)おそらく型遅れのYZRを駆る♯27C・サロン〜」

 サロンのマシンは1979年型YZR500(0W45)。なお、第1戦ベネズエラは0W45が間に合わず、サロンはTZ350の排気量を僅かに拡大したマシンで500tクラスに出場し7位だった。

19頁中列「スリックタイヤ(グッドイヤー/ミシュラン〜」

 トム・ヘロン(スズキXR27)はダンロップを使用していた。なお、同頁の表でヘロンのユーゴスラビア以降の得点欄が空欄になっているのは、スペインの後、ノースウエスト200で事故死したため。

19頁中左(8頁中右と同じ写真)「1979 R8 Belgium」

 「1979 R5 Spain」の誤り。
 なぜか、SpainをBelgiumと誤っている写真が多い。

20頁中左
21頁下
24頁下左
25頁中左(No13)
31頁左
31頁上右(No23)※
31頁中右(No5)  
おそらく25頁右上(No43)も誤り。

※1982年ベルギーGP500tはホンダにとって15年ぶりのGP優勝で、スペンサーはゼッケン40だった。
https://global.honda/jp/RACERS/NS500_02/03.html  

20頁上左「1980 R4 Dutch TT」

  「1981 500ccR6 Dutch TT」の誤り。

28頁左列「0W60」

 「0W54」の誤り

31頁左「R7 Belgium〜G・ロッシは〜序盤4戦に参戦、イモラ200で生死をさまよう大怪我を負い〜」

 例年、イモラ200が開催されるのが4月(1982年は4月4日)だと知っている人なら、すぐ誤りと気が付くだろう。ロッシが重傷を負ったのはCampionato Italiano Velocità(9月19日、イモラ)。
 ロッシはのイモラ200の後もGPに出場したが戦績は悪く、MOTOCOURSE1982-83(Hazleton1982)に残る記録では第11戦サンマリノでの11位が最後のレース順位。
 赤文字は前述のように「R4 Spain」の誤り。
 ライターはWikipediaの「1982年にはヤマハを駆ってイモラで行われた200マイル耐久レース(200miglia)に参戦するが、激しく転倒し、一時心肺停止状態に陥る」を参考にしたのだろうか?

34頁「最終戦、750の毛利を追う500の鈴木」 
   「1980 R10 鈴鹿」

 この写真は第4戦鈴鹿のもの。
 毛利は第4戦鈴鹿以降、TZ500で出場した。最終戦日本GPでTZ750に乗ったのは佐藤順造1人。

34頁左列最後「〜’80年までの基本的な開催方式は、国際A級とB級の350〜750tまでのマシンが予選・決勝を通じて同じレースで混走し、各排気量、クラス別の順位でポイントを付与するものだった」

 「1978−80年頃のエキスパート(1979年から国際A)750tの開催方式は、エキスパート(国際A)350との混走(予選・決勝とも)が基本で、多くの大会ではこの2クラスとエキスパート(国際A)250t、ジュニア250t、ジュニア350も混走であり、各クラス別の順位で得点を配分するものだった」

 なお、ジュニアが国際Bに改められたのは1981年シーズン。また、私の理解では「レース」は「決勝」と同義。
 Wikipediaの1980年の全日本ロードレース選手権では「基本開催方式は350ccから750ccまでが予選・決勝を通じ同一レースで混走し、各排気量別の順位で各クラスのポイントが付与された 」
 このように34-35頁の記述はWikipediaの1980年の全日本ロードレース選手権を参考にしたものが多い。

34頁中列「ここに、世界GPを走るヤマハやスズキのファクトリーマシンも出場していたが〜」

 「ここに、ヤマハ750t、スズキ500tのファクトリーマシンが出場することもあったが〜」

「〜ファクトリーマシンはもっぱら実戦テストを目的に参戦することが実情だった」

 ヤマハYZR750はシーズン末の日本GP、TBCビッグロードレースに出場していたが、これが「もっぱら実戦テスト」なのだろうか? 私には広報が主目的と思える。

34頁右列「750tクラスでは、ほぼ全ての参戦ライダーがシーズン中盤までにTZ750からTZ500に乗り換え、あるいはTZ350からのステップアップすることになった」

  「国際A750tクラスでは、それまでTZ750で参戦していたライダーの大半がシーズン中盤までにTZ500に乗り換え、これにTZ350からTZ500に乗り換え国際A750に新たに参戦するライダーが加わった」

35頁左列「チーム金谷」

 「チームカナヤ」の誤り。

35頁左列「〜水谷勝も、シーズン後半にTZ500に乗り換えている」

 水谷は全10戦(予定)の第6戦、実質全8戦となった選手権の4戦目でTZ500に乗り換えた。

「〜木下が連勝、しかし、木下は急遽ボルドール24時間の参戦が決まり、その後のレースを欠場」

 木下の2勝目は4月20日(鈴鹿)でボルドール24時間は9月13-14日だが、ライターはおかしいと気が付かなかったのだろうか。木下は「マレーシアGPに出たんです」(50頁)と語っている。

35頁中列「代わって第5戦筑波では悪コンディションの中〜TZ500の石川が〜優勝(しかし、出走台数が少なく〜ポイントは付与されなかった。また、石川はその後に世界GPにスポット参戦した)」

 第5戦筑波の予選は雨だったが、レースまでに天候が回復しドライレースになった。筑波で雨天のレースだったのは第7戦。

 石川が第5戦直後に世界GPに参戦したかのようにも読めるが、石川は第8戦菅生(7月13日)出場後、イギリスGP350t(8月10日)に出場した。

35頁中列最後「(最終戦日本GP)TZ500の鈴木とTZ750に乗る毛利がチャンピオンを争う展開となった。

 得点上、チャンピオンを争ったのは、毛利、鈴木、佐藤順造、水谷。
  毛利のマシンはTZ500。

35頁右列「〜そしてTZ500の3位・水谷に続いて鈴木は4位、毛利は他車と接触してしまい転倒〜」

  「TZ500の水谷、毛利、TZ750の佐藤が2位争い(クラス1位争い)を演じるが、13周目のヘアピンで水谷が転倒、これに毛利、佐藤が巻き込まれて転倒。水谷は素早く再スタートし3位(クラス1位)で復帰するが、佐藤はマシン破損でリタイア、毛利は再スタートが遅れる。水谷は石川、鈴木との接戦の後に3位でゴール、鈴木4位、石川5位で、毛利は9位」

36頁左上・写真1「1980 R10 鈴鹿」  

 水谷がTZ500に乗り換えた1980年第6戦鈴鹿100マイル。

写真1「シーズン前半はTZ750で参戦し〜後半はTZ500にシフトして最終戦で活躍するものの、直後にスズキと契約して翌年から市販RGBに乗る」

 水谷は全10戦(予定)の第6戦、実質全8戦となった選手権の4戦目でTZ500に乗り換えた。
 1981年のスズキ500cc市販レーサーは「RGB500」ではなく「RG500」。

写真2・3「〜木下を追うのはTZ750で3位になった金谷秀夫」

 金谷が乗ったのはTZ500。

写真4「高井幾次郎と金谷秀夫が参戦するのは〜菅生と、4月と9月の全日本鈴鹿、それにTBCビッグロードレース〜」

 9月は日本GP。1981年は日本GP(鈴鹿)が4月開催だったので、高井、金谷が出場した。「9月(1981年は4月)の日本GP(鈴鹿)」とすべき。

37頁写真1、38頁写真1「佐藤順三」

 「佐藤順造」

37頁写真1「(写真タイトル)「1980 R10 鈴鹿」

 「1980 R6 鈴鹿」の誤り。No18石川のマシンを写真3と比較されたい。

「’78年のA750チャンピオン#20上野真一も、’80年はTZ750で走り続けた」 

 ’78年のエキスパート750チャンピオン♯20上野真一も、’80年第4戦からTZ500で走った。  
 毛利、金谷、上野のマシンをTZ750と誤っているが、Wilipedia1980年の全日本ロードレース選手権 の次の表をライターが信用したことによるものと思われる。

39頁「(1980年)しかし、TZ500の発売もあって、この年からGP500レギュレーションとなり〜」

 1980年4月のTBCビッグロードレースは750tレースで、YZR750、TZ750、TZ500、スズキRG500が走った。

40頁右列「(1981年)〜この年からMS普及本部の契約となってYZRに乗った木下恵司が優勝」
41頁写真1「MS普及本部の契約となって〜〜YZRに乗った木下」

 50頁の木下のインタビュー記事では、1980年に既にMS普及本部契約。1981年はファクトリー契約。

41頁左列「(日本GP)〜木下はTZ500にスイッチ、彼のTZはファクトリーパーツの入ったいわゆる”TZ改”だった」

 木下のマシンは4気筒前方排気のTZ500の両外側気筒を後方排気にしたもので、外見は0W53のフレームをスチールフレームにしたもの。41頁中列にある「(第5戦菅生)木下には他のTZとは異なる後方排気を用意」のマシンは日本GPで登場していた。

「(1981年)TZ500にスイッチした毛利良一」

 毛利は1980年第4戦鈴鹿以降、TZ500で出場していた。

41頁中列「0W56」

 「0W54」

41頁右列「(第6戦鈴鹿200km)水谷は大会前のテストで右手を骨折しており以後欠場」

 水谷は鈴鹿200kmとその後のレースを欠場したような記述だが、水谷は第6戦鈴鹿に出場(11位以下)、第7戦筑波は500tクラス不開催、第8戦菅生は4位、最終戦鈴鹿は2位。49頁ランキング表参照。

41頁写真1、2「(写真タイトル)1982〜」

 「1981」の誤り。

写真3「1982 R6 鈴鹿」

 1982は1981の誤り。この写真、R4 日本GP(鈴鹿)のように見える。

50頁「(1980年連勝の後)「マレーシアGPに出たんです〜最後の筑波と鈴鹿は〜ボルドールに出場したため欠場したんです」

 筑波は出場し、転倒・リタイア。
 マレーシアGP(5月25日)優勝、ペナンGPで2位。

52頁「1980 TBCビッグロードレース」

 上の表彰台の写真は正しいが、下の写真は1980年第3戦菅生のもの。木下はTBCビッグロードレースに伊太利屋カラーのTZ500で出場した。

53頁「(木下)僕のはノーマルのTZだから〜」

 1981日本GPでの木下のマシンは「TZ500」とされるが、1981年型TZ500と異なり両外側気筒後方排気に改造されており、1982年型TZ500プロトタイプに相当するマシン。

55頁上写真「’84年にHRCに移籍しNSR500を走らせた」

 NS500の誤り。

 続く 

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