RACERS Volume 48

 本号は1973年から1981年のヤマハ500/750cc並列4気筒レーサーを取り上げている。このうち、500tは世界GPがその中心舞台だったが、750tはフォーミュラ750(F750、1976年までFIMプライズ、1977-79は世界選手権)、全日本選手権、その他の国際レース等が主な舞台だった。本号では全日本選手権もF750と書かれている。ウィキペディアの記述を本号のライター氏も信用したようだ。また、市販車ベースであることが義務付けられたレースに、ヤマハ500tファクトリーマシン=YZR500がTZ750の改造車と認められて出場できたとも書かれている。このように、本号の最大の問題点は「当時のレースがどのようなものだったかを知らないライター氏が思い込みだけで記事を書いている」ことである。

 F750、全日本選手権、何れもマシンの由来についても規定があったが、F750は1974年までは200台以上生産された「市販車」のエンジンを使用することとされていた。フレームの由来に制限はなく、カワサキH2R、スズキTR750(XR11)何れもエンジンは市販車をベースにするがフレームは市販車と全く異なるマシンがF750に出場していたのはこのためである。

 そして水冷シリンダーブロック、シリンダーヘッドが空冷の一般市販車と明確に異なる(クランクケースも実は同じではない)市販レーサー・TZ350(1973年発売)も「市販車」には違いないのでF750に出場できた。

 ところが1974年シーズンに向け供給開始された市販レーサー・TZ750は「一般市販車」ではないためレギュレーション不適合とされたが、1975年になるとF750は「25台以上生産されたマシンのエンジン搭載車」になったのでTZ750はF750適合になった。結局、1979年には生産台数の制限はなくなった。  

 F750用にTZ750が市販されたにも関わらず、1974年3月31日、FIM春期会議でTZ750がフォーミュラ750の規定に適合しないことが決定された。この混乱の原因はF750の「市販車」に関する曖昧なレギュレーションと市販レーサーTZ350の出場が1973年に認められていたことが原因であり、FIM自身の責任である。

 一方、全日本選手権は公認車両制で、1972年から市販レーサーも公認対象となった。H2R、TR750はエンジンが一般市販車ベースであってもフレームが一般市販車と全く異なるため公認車両にはならなかったが、FL(フォーミュラリブレ)として出場はできた(ランキングポイント対象外)。
 また、TZ750、カワサキKR750は1975年以降のF750に出場はできたが、MFJ公認車両ではなく1975年、そして1976年の大半は国内レースでポイント対象外として出場した。

   なお、公認車両とは異なる主要部品等も「公認パーツ」として公認されれば装着することができた。 エンジン関係では、ホンダCB125S(4ストローク125t空冷単気筒)用6速ミッション(1972年公認)、ホンダMT125R用水冷キット(1978年9月公認)が記憶にある。

 1976年にMFJの車両規則が変更され、エキスパート部門(後の国際A級)に関する基本事項は次のとおりとされた。

〇FIMフォーミュラ750規定に準ずる(125t、250t、350t、750tのクラス分けあり)。
〇一般生産型モーターサイクルで、MFJ公認車両またはFIMフォーミュラ750レース用公認車両でなければならない。

 つまり、MFJ公認車両またはFIMフォーミュラ750レース用公認車両のエンジンをベースにするのであれば車体は自由となった。ただ、1977年のMFJ競技規則に掲載されたFIM-F750公認車両リスト(本頁最後)にTZ750もKR750も記載されているが、0W31(TZ750エンジン)、KR750がポイント対象になったことが確認できるレースが1976年最終戦日本GPなので、1976年シーズン終盤にMFJがこのリストを入手したと思われる。
 また、1976年は車体の改造についての各主催者の判断がまちまちだったが、1977年は「車体は改造自由」と明確化された。
 
 1974年日本GP750ccクラス、1975年日本GP750tクラスにヤマハYZR500が出場しているが、FLとしての出場であり、TZ750の改造車として認められたからではない。そもそもTZ750もポイント対象外だが。1980年日本GPでYZR500が走ったが、YZR500のクランクケースは市販レーサー・TZ500(1980年3月公認)と共通だがシリンダー等は異なるためポイント対象ではなかった。

2頁「(下左写真説明)1977 WGP500 R11 Finland(Imatra)」

 「WGP500 R9」とすべき。1977年の世界GPは全13戦で500tクラスに限れば全11戦。「WGP500 R●」とあれば「500tクラス第●戦」の意味になるのではないか。その後の頁でも同じ誤解を招く表現が多く見られる。

6頁「(1978年)ケニー・ロバーツのフル参戦と、それに合わせたかのような0W35Kの登場〜」

 
0W35の登場は1977年シーズン中。

7頁「ロバーツがフル参戦を開始した78年のイギリスGP。0W35Kを前に〜」

 この写真は「1978年」ではなく「1979年」のイギリスGPで、マシンは「0W45」。
 1979年型YZR500=0W45の特徴のあるシリンダーヘッド、CFRPサイレンサー、マシン横のスポンサーステッカー等々、当時を知っていたら間違えるはずはない。

9頁「(1974年)ドッズ、TZ750でFIM-F750チャンピオン」

 「TZ350」の誤り。ライター氏は1974年シーズン前のTZ750認定に関するゴタゴタを知らない。なお、TZ750がF750に出場できなくなった結果、多くのレース主催者はF750ではなく単なる国際レースとして開催することを選択したため、1974年のF750はたった3戦で争われた。

(1975年)

 1975年右端欄に「ジャック・フィンドレーがTZ750でFIM-F750チャンピオン」を加筆した方がよい。

「(1978年)0W35K」


 1977年シーズン中に登場した。

「(1977年)TZ750改500エンジンのサイドカー登場」

 遅くとも1975年には登場した。1977年欄に書くなら「ジョージ・オーデルがTZ750改500エンジンのサイドカーで世界チャンピオン(以降、ヤマハエンジン車のタイトルが続く)」。
  
10頁「(上写真説明)〜2位♯1フィル・リード〜」

 
アゴスチーニをP・リードと間違えている。2位入賞したのがリードなので、ライター氏は写真のライダーをリードと思ったのか。

10頁「(19730W20写真説明)フレーム前半部の形状も後期型と異なる」
11頁「(右下TZ750写真説明)〜0W20と共通の車体である0W19のフレームを、そのまま量産したような鋼管ダブルクレードルフレーム〜」
22頁「(上段0W20について)〜このマシンは後期型〜モノクロスサスペンションの採用によりフレーム形状が前期型と異なるほか、その影響を受けてガソリンタンク下線のラインも前期型と異なっている。ちなみに初期型は〜700tの0W19と共通の車体を持ち、その外観はTZ750初期型と同様だった」
「(下段)〜0W20が〜モノクロスサスペンションと合わせて専用のフレームを得たのは〜のせいだ」
24頁「(上0W20写真説明)スイングアームピボットから上に向かうフレームのメインループが、ステアリングヘッドパイプの上部に達してないのは〜このマシンだけの特徴」
25頁「(下0W20写真説明)モノサス化と同時にフレームパイプワークを変更し〜」


 全て誤り。下写真のように1973年型0W20、1973年型0W19、1974年型0W20(22〜25頁のマシン)のフレーム基本形状、タンク下線のラインは同じで、TZ750のみが全く異なる。
1973年型0W20(シーズン前公開)  1973年型0W20(実戦)
 
1973年型0W19(1973ヤマハ・グランド・スポーツ・フェスティバル)
           

1974年型0W20(現存車)  1974年型TZ750量産1号車(現存車)

 なお、上左の1974年型0W20のスイングアームピボット部とシート下を結ぶパイプの位置が1973年型0W19、1973年型0W20と異なるが、この位置が同じ1974年型0W20フレーム(下2葉)も用いられた。このフレームは1973年型0W20がモノクロスサスペンションに改修されたもので、このフレームをベースにさらにスイングアームピボット部とシート下を結ぶパイプが改修されたのが上左の0W20である。
シーズン前公開写真の0W20 モデナ(1974年3月17日)でアゴスチーニが乗った0W20

10頁「(本文1段目)どのメーカーも工場レーサーの開発は中止し、世界GPの各クラスでは、ストリートバイクの改造車や市販レーサー〜によるレースが繰り広げられていた」
 
 デルビ50/125、ヤマティ50、モルビデリ125、MZ250/350、ベネリ250/350、アエルマッキ250(1971終盤〜)、MVアグスタ350/500がストリートバイク改造車、市販レーサーか?
  
 ストリートバイクの改造車といえば、エンジンもフレームもストリートバイクの改造という印象を読者に与えるのでは? 1980-93年の世界耐久選手権はTT-F1規定で行われたが、ライター氏は、TT-F1はエンジンが一般市販車のベースにしているので「ストリートバイクの改造車」で「ファクトリーレーサー(工場レーサー)」ではないと言うのだろうか。

12頁「(上写真タイトル)1974 0W23」

 この写真は1975年シーズン前にプレスに提供された1975年型0W23のもの。

「(本文2段目)アゴスティーニとの契約である。初レースは、0W19とその市販型TZ750Aのデビュー戦となったデイトナ200」


 TZ750+アゴスティーニのデビュー戦はデイトナ200だが、市販レーサーTZ750のデビュー戦はデイトナではない。1974年のデイトナは「ファクトリー仕様のTZ750のデビューレース」(1974年 TZ750 - コミュニケーションプラザ | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com))。

「アゴスティーニは〜ランキング4位に留まった。しかし、ランキング3位を得たチューボ・ランシボリの活躍により、ヤマハはこのクラスで初のメーカータイトル〜」

 
全10戦中、MVアグスタ5勝に対してヤマハファクトリー3勝(アゴスチーニ2勝、ランシヴオリ1勝)に留まったが、トップライダーがボイコットしたマン島、ドイツでヤマハTZ350に乗るライダーが優勝したことによりヤマハ5勝となった。有効ポイント、優勝回数(5回)、2位回数(3回)は同じで、3位位入賞回数の差(3対1)でヤマハがタイトルを手にした。

13
「(1975年)TZ750Bと、そのエンジンを0W23ベースのフレームに積んだ0W29を実戦に投入」
17頁「(写真説明)〜TZ750Bのエンジンを、0W23の車体に搭載・・・というコンセプトで誕生した0W29〜」
64頁「〜'75年に走った0W29というのは、0W23の車体に750tエンジンを積んだ、実験車的性格の濃いマシンだった」

9頁「(1975年0W29について、1974年欄に)0W23の車体に750tエンジン」

 誤り。下左は1975年シーズン前公開された0W23、下右は同じく0W29で、両車のフレームの形は全く異なる。0W23ではダウンチューブがスイングアームピボット部で90度曲がり上に伸びさらに曲がってバックボーン部となりステアリングヘッドに戻るが、0W29ではダウンチューブがそのままシート後部に伸びる。0W29のフレームは0W23ではなく1974年型TZ750に似ている。
0W23(1975シーズン前公開)  0W29(1975シーズン前公開)

 また、0W29プロトタイプというべきマシンが1974年日本GP(10月)に登場(金谷秀夫、河崎裕之が乗った)したが、このフレームもTZ750に似ている。下左は河崎のマシン。
 一方、下右が0W31が初登場した1976年デイトナ200マイルでセコット又は金谷が乗った0W31で、フレームパイプの取り回し方は0W23と同じ。ただし、バックボーン部の曲がりは1番気筒排気管が通る空間確保のためか0W29に似ている。
 ヤマハのウェブサイトは「'76年から投入された0W31は、0W29エンジンとYZR500(0W23)の車体をベースに開発」としている。
0W29プロトタイプ?(1974年日本GP、河崎車)  0W31(1976デイトナ200)

 13頁「(750tの0W29について)ライダーを引退してロバーツのチューナーに転じたケル・キャラザースが、♯1のチャンバーを中通しにするアイデアを実用化したのも'75年だった。中通しチャンバーはファクトリーマシンにも採用されることになり、0W29の車体を一新した0W31が76年に、その量産型のTZ750が'77年にデビューした」
「(68頁、このような)レイアウトを真っ先に採用したのが0W31だった」


要するにライター氏は、
●0W29は基本的に1番気筒中通し排気管ではない。中通し排気管はキャラザースがロバーツの0W29用に特別に製作したもの。
●1976年の0W31でヤマハが中通し排気管を全面的に採用。 

と言いたいようだが誤り。ライター氏は1年間違えている。1975年型YZR750(0W29)はシーズン前公開写真、1975年実戦車(52頁右下の1975デイトナでの河崎のマシン)全てが中通し。また、モノクロスのヤマハ750が登場したのは1974年日本GPだが、その時点で既に中通しだった。上左の河崎が乗ったマシンの1番気筒排気管が横ゼッケン下と燃料タンク・シート下に見えている。ただし、この時点では2番、3番排気管が車体左に出ている。

 1974年日本GPの記事(モーターサイクリスト1974-12)では「"アメリカ"ではすでにこのレイアウトだという」とある。また、YAMAHA ALL FACTORY AND PRODUCTION RACING MOTORCYCLES FROM 1955 TO 1993」by Colin MacKellar, Crowood Press 1995に、1974年にアメリカで中通し排気管が装着されたことについての記述がある。下は1974年のオンタリオ(10月6日、日本GPの1週間前)で優勝したジーン・ロメロのTZ750で、車体下右に排気管が2本あるが車体下左の排気管は1本で、シート右下に排気管が見える。

「(左写真説明)ヤマハテストコースで撮影されたと思しき記念写真

 当時のモトライダー誌の記事では「去る2月16日、ヤマハ袋井テストコースで、同社の77年度ワークス・マシンと、ヨーロッパGPレースに出場するライダーの陣容が発表された」とあり、この写真はその時のもの。他誌でも同じような写真が多数掲載された。これを「記念写真」ということが適切か?

14頁「(本文1段目)〜125マシンの0W30でピストンリードバルブエンジンから高性能を引き出すことに成功したので、そのシリンダーを4つ並べようというのが0W35のコンセプトだった。これによるピストンリードバルブ化〜といった大胆な変更を盛り込んだ0W35は〜」

 0W35はピストンバルブなのにライター氏は何を勘違いしたのか?

「(本文1段目)FIMプライズという選手権外」

 「世界選手権」の誤り。

「(下写真説明)1979年スペインGP〜アウトラインの共締めタイプのシリンダーをゲタをかませてマウントしている。」

 黒く塗られたクランクケース、前ブレーキキャリパー、タンク塗装、テールカウル塗装から1980年の0W48と分る。なお、写真に写っているフラットスライドYPVS、ゴムシート(後サスペンションアーム上)も1980年型の特徴だが、1979年に用いられなかった保障はない。1980年型を裏付けるのは上の4点。

14頁「(本文1段目 1977年)同型車と認められた0W31もエントリーが許され」
60頁「〜TZ750と同機種として出場が認められたYZR750〜」

  F750は「25台以上生産されたモーターサイクルのエンジンを搭載する車」で、車体はTZ750と同型である必要はない。だからこそ1976年の0W31は1976年型市販TZ750と車体が全く異なるのにF750規定に適合していた。「同型車」、「同機種」という用語は不適切で、せめて「基本的に同じエンジンを搭載する0W31」とすべき。

14頁「(中写真説明) 500の0W35Kは本社籍だったが、TZ250と0W31は貸与マシンであり〜」

 「本社籍」が「本社所有」と同義なら0W35Kも「貸与」ではないのか? また、ロバーツが乗ったTZ250は1978年型TZ250、(モデルチェンジ後の)1979年型TZ250とフレーム形状が異なる。このフレームはアメリカで製作されたものと言われており、日本のヤマハからの貸与ではないのではないか?

「(1978年のロバーツについて)加えて、ヤマハモーターUSの全面的バックアップとグッドイヤータイヤの強力なサポート〜」 

 ライダー+メカニック2名+キャラザース+500tマシン1台(スペアマシンはイギリスGP以降)+250t・F750参戦の体制を「全面的バックアップ」というらしい。

「3連勝を含む4勝をマークし、2位2回、3位と4位が1回ずつ、他に7位が1回〜」
 
 「〜2位3回、3位と7位が1回ずつ」の誤り。41頁結果表参照。

15「0W35Kの小改良版といえる0W45を開発。両車の違いは外からはまったく分らず〜」
 
 指摘するだけばかばかばかしい。7頁の写真説明の誤りの原因はライター氏のこの認識にある。

16「水冷2ストローク並列4気筒は、構造だけでなくパワーも既存の常識を遥かに超えていた」

 750tのことを500tについて書いたのか? 12頁1段目では「出力面ではまだライバルに及ばなかったが」としている。

18「長らくGP500を支配してきたMVアグスタの空冷4スト4気筒の王国〜」
 
 ライター氏がMVアグスタ500t3気筒を知らないのは悲しい。

レンゾ・パゾリーニ」
  
 レンツォ・パソリーニ。レンゾ、レンツォ両方の読みがあるようだ。姓の方については、Pasoniliの妻は「パソリーニ」と言っている。

19頁「(1973年モンツァの事故について)原因は直前に行われた350tレースで出されたオイルが完全に処理できていなかったことだった」

 かなり前からパソリーニのマシンのエンジン焼付も原因とされている。https://en.wikipedia.org/wiki/Jarno_Saarinen

「ヤマハは'74年に〜アゴスチーニと契約」
 
 契約した年月日が分らないなら「ヤマハは1974年シーズンに向けアゴスチーニと契約」と書くべき。なお、1973年12月6日にアゴスチーニのヤマハチーム加入の記者会見が行われた。

「(1974年)期待のアゴスチーニは3位に留まった」
 
 4位の誤りで、3位はLansivuori。40頁結果表参照。

「(左上写真説明)GP500初優勝はこの'75年オーストリア」

 この写真は1975年フランスGPなので「GP500初優勝は1975年オーストリア」とすべき。「この」は不要。

20頁「(3段目終り)デューター・ブラウン」

 「ディーター・ブラウン(Dieter Braun)」の誤り。

「(本文4段目)(チェコットの負傷により)アゴスチーニがチェコットの0W35をライディングすることになった」
「(左下写真説明)〜アゴスチーニ。チェコットが怪我で離脱している間は彼のマシンに乗った」


 アゴスチーニは第1戦ベネズエラは欠場したが、1977年GP500参戦は当初計画どおりだった。第2戦オーストリアはチェコット(セコット)、アゴスチーニの2人とも500tプラクティスを走った(セコット3位、アゴスチーニ6位)が、350tレースの事故で負傷したセコットはもちろん、他のファクトリーライダーが500tレースを欠場した。セコットが欠場したからアゴスチーニがオーストリアGP500tプラクティスを走ったのではない。また、セコットが復帰したスウェーデンGP以降もアゴスチーニは500tクラスを走っている。正しくは「彼のマシンに乗ることもあった」
 なお、アゴスチーニに当初与えられる予定だった0W35は1台のみで、第3戦ドイツGP以降、セコット用の1台を加えて2台体制になったとものと思われる。

つまりスズキがここまで実質全勝だ」

 
「トップライダーがボイコットした第2戦オーストリアでもジャック・フィンドレーが市販RG500で優勝していたので、ここまで全勝」の方がよくないか? 文が長すぎるなら「第2戦の結果を含めてスズキ全勝だ」では?

「右下写真」 

 
12頁と同じ写真である。

23頁「0W20後期型〜0W23の継投策」

 1974年世界GPで0W23は登場したベルギーGPのみ走った。アゴスチーニはベルギーの後の第8戦スウェーデン、第10戦チェコスロバキアは0W20で出場し第9戦フィンランドは欠場、ランシヴオリは全戦0W20で出場。

「(写真説明)フレーム打刻は0W20-B-309、エンジン打刻は0W20-E-309〜」

 「0W19-B-309〜0W19-E-309〜」の誤り。下はエンジン打刻。

  「0W●●」は計画記号であり機種記号でもある。0W19計画として700t・0W19と500t・0W20が開発されたが、予算、資産も0W19計画として管理されたので、資産である0W20のエンジン/フレームに「0W19」が打刻された。

24頁「(右中写真)〜量産前提の0W19のケースはアルミダイキャストだが、0W20は砂型鋳造マグネシウム」

 外観からすると1973年型0W20、1974年型0W20及び1973年型0W19のクランクケースは共通で、TZ750のクランクケースはこれらと全く異なる。
 24頁上0W20写真説明「スイングアームピボットから上に向かうフレームのメインループが、ステアリングヘッドパイプの上部に達してないのは〜このマシンだけの特徴」は前述のように全くの誤りであることから、ライター氏は1973年型0W19の写真を観察していないと思われる。

「(左下から2つ目写真)サイレンサーが装着されるようになったのは'75年の0W23の登場以後」


 0W23にサイレンサーが装着されたのは騒音規制が実施された1976年ベルギーGP以降と思われる。16-19頁の1975年型0W23のどこにサイレンサーが装着されているのか?

27頁「(写真説明)1980〜Belgium」

 1980年フィンランドの誤り。1980年ベルギーGPはゾルダー(専用サーキット)で開催されたが、写真のコースの雰囲気が公道レースに見えないか?

「ケニー・ロバーツのスタイルに影響を与えたのは、'73年カリフォルニアのオンタリオで見たヤーノ・サーリネンだった」

 「1972年」の誤り。当時を知る人ならデイトナ200が3月開催でオンタリオは秋開催だったことを記憶しているだろうし、サーリネンは1973年5月のイタリアGPで事故死しているのだから「1973年」にすぐ疑問を持つだろう。「1973年」が正しいなら、サーリネンがオンタリオを走ったのは1973年3月以前のレース以外、つまりテストということになる。その テストの場面にロバーツもいたのか?
 サーリネンが1972年にオンタリオで走ったこと(レースは欠場)は当時のサイクルワールド誌(アメリカ)で確認できる。Champion Spark Plug (ontario) Motorcycle Classic | Cycle World | JAN 1973

28頁「(下段)開幕戦ベネズエラ、ヨーロッパラウンド緒戦のスペイン(ハラマ)まではケニーはおとなしかった。なんだ大したことないじゃないか・・」

 スペインでロバーツは独走していたがマシントラブルで2位に後退したのだが、これが「おとなしかった」のか? 

29頁「(下左写真説明)レクトロンのキャブが装着されたケニーの0W35K」

 
レクトロンのキャブについて書かれているが、さらに重要なのは「パワーバルブがない」こと。従って、このマシンは0W35Kではなく0W35ではないか?
 この写真は1978年第1戦ベネズエラのものだが、パワーバルブ仕様エンジンを与えられたのはセコットのみで、ロバーツ、片山はパワーバルブなしだった。当時のモトライダー誌にもその記述がある。

「(左下写真説明)RGB500(XR22)」

 写真は確かにXR22だが、XR22はRGA500。

31頁「(左上写真説明)Netherlands」
 
 Austria(オーストリア)の誤り。

32頁「(2列目)ベネズエラとオーストリアがキャンセルされて全8戦〜」
 
 スウェーデン(1980年8月3日開催予定)もキャンセルされたことにより全8戦となった。なお、オーストリアGPは季節外れの大雪のため、多くのチームがサーキットに到着したにも関わらず中止となったもの。

33「(下写真説明)市販モデルTZ500には♯7バリー〜が乗った」
 
 このマシンはイギリスGPでバリー・シーンに与えられた0W48で、もちろんアルミフレーム。

34「(1段目)〜56×50.7mmへのボアストローク」

 最近は56×50.6mmとしている(YZR500(0W35) - レース情報 | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com))が、1977年2月記者発表の雑誌記事では「56×50.6mm」と「56×50.5mm」があった。当時のヤマハニュースでは「56×50.5mm 497cc」としておりボア×ストロークと排気量が一致するので、この可能性が高い。

「(1977年型について)〜キャストホイールの採用〜どれもヤマハの500tレーサーとしては初の試み〜

 10、16〜19頁の1975年型0W23には全てキャストホイールが装着されている。

39頁「(左下写真説明)レギュレーション対策(騒音測定方法への対応)」

 「排気管の向きに関するレギュレーション対策」の誤り。排気管後端30mm以上がマシンのセンター軸と水平かつ平行とされた。改訂前は「排気管は進行方向になるべく平行」。

42頁「(1981年)*R1は中止、R6、R14は500tの開催なし」

 「*R1、R6、R14は500tの開催なし」の誤り。第1戦アルゼンチンGP(125、250、350)は開催された。

52頁「下中写真説明)1978 0W31 ベイカーの0W31。ケニー車も同型だが、スイングアームはアルミ:銀色だった」
 
 この写真は1977年デイトナ200のもの。1977年型なのでスイングアームは1978年型0W31と異なりスチール製。
 61頁上右の写真と同じだが、61頁ではちゃんと1977年デイトナ200としている。

「(1980 0W31)750tファクトリーマシンは'78年型0W31で開発を終了したが〜」

 現存するYZR750のフレーム番号は0W31-B-802、804、807の3台が確認できる(こちらを参照)ので、おそらく1979年型YZR750のフレームは1978年型のままだろう。しかし、9頁に「0W46により装備近代化」とあるように0W31の開発が終了したわけではない。書くなら「フレームの製作は1978年型で終了」だろう。

53頁「(左下)ウィバート」

 Hurley Wilvert

54頁「(1段目)〜AMA(アメリカン・モーターサイクリスト・アソシエーション)〜」

 参考 1976年夏にアメリカン・モーターサイクル・アソシエーションから名称変更したもの。

「(3段目)
'76年に〜200→25台とハードルが下げられた」

 1975年の誤り。カワサキKR750もこの変更に合わせて生産され1975年にアメリカのレース、FIM-F750に出場できた。

「ヤマハの'76年型ダートトラッカー0W72=XS650改750cc〜も'76年規定で認定されている」

 前半は誤りではないが「ヤマハの'76年型ダートトラッカー0U72(排気量750t、ベースはXS650で特製シリンダーヘッドを装着したもの)」とした方がよい。なお、「0U」は市販車開発実験部門のコードだったと記憶する。
 参考:OU-72 race DT motor info for those that have not seen this | Yamaha XS650 Forum

 後半は「'75年規定」の誤り。また、この「規定」はF750規定ではなくアメリカ国内規定。

「(4段目)登場したTZ700には〜ジャコモ・アゴスチーニ〜ケニー・ロバーツ〜金谷秀夫が乗った。」

 TZ750がヤマハ公式名称であり、TZ700は通称。
 TZ750は市販レーサーであり、デイトナでTZ750に乗ったのは3人だけではない。ヤマハと関係が深いライダーでは、本社チームからアゴスチーニ、金谷、本橋明泰、ヤマハモーターNVからランシヴオリ、ヤマハUSからロバーツ、ドン・カストロ、ジーン・ロメロ、ヤマハ・カナダからスチーブ・ベーカー、ジム・アレンが出場した。

56頁「(1段目)TZ750B(0W29)」
「(2段目)'76デイトナでヤマハは車体も750t専用設計の新型TZ750(0W31)をデビューさせた。このマシンもAMA認定のため、市販価格4万ドルとされた」


 0W29はTZ750ではないし、0W31はTZ750ではない。
 
 「市販価格4万ドル」はAMAのclaming rule※のことを指しているのか? そうなら「市販価格」はおかしな表現。

※優勝マシンを一定価格で買い取ることができる制度。プライベートライダーのマシンとファクトリーマシンの差を埋めるためのもの。

「一方、スズキは〜チューボ・ランシボリにすべてを託すことになる」

 デイブ・アルダナ、パット・ヘネン、ウイルバート等もスズキXR11に乗った。

「(中段)前年(79年)からTZ750勢の性能を抑えようとリストラクターの装着が義務付けられていた。目的はパワーを抑えタイヤをもたせること、他社との性能差を小さくすることだった」

 次のように修文した方がよい。
「前年から各車にリストラクター(キャブレターに取り付けられる吸気口縮小部品)の装着が義務付けられており、ヤマハは23mm径、カワサキは27mm径だった。パワーを抑えタイヤを持たせることが主目的だが、750cc3気筒:27mmは750t4気筒:24.5mm相当なので、ヤマハの23mmはカワサキより吸気口制限が厳しく、ヤマハとカワサキとの性能差を小さくする意味もあった」

57頁「(上写真)デイトナではマシンはアルミスイングアームが装着され〜」

 デイトナに限らず1978年型0W31はアルミスイングアーム。

59頁「(1975年)(1〜10位が全てヤマハライダー)」

 当初、このように発表され雑誌にそのまま掲載されたが、アルダナ(スズキ)の抗議によりアルダナが10位と認められた。 75 Daytona Dizziness | Cycle World | JUNE 1975

61-62頁「251t以上のマシンが出場できる選手権だからヤマハのうち何台かはTZ350だったと思われるが〜」

 誤り。251t以上だったのは1973年まで。さらに1977年シーズンから最低排気量が501tに改められた。本頁末の1977年のFIM-F750認定車一覧を参照のこと。

68頁「(写真説明)エンジン打刻は「0W31-B-807」であり〜」

 写真に打刻が写っているが、ライター氏には「E」が「B」に見えるようだ。

「クランクと等速で逆回転するカウンターシャフトが通る」

 10頁にパーツリストの図もあるが、パーツリストそのものを確認すれば減速比39/38で減速していることが分る。つまり「等速」は誤り。
 当然、ジャックシャフト(カウンターシャフト)左端のマグネト駆動ギアは逆に39/38倍増速してる。

 なお、クランクギア等、動力を伝えるギアは、駆動ギア・被駆動ギアの歯数の組み合わせを「互いに素」にしていることが多い。逆に歯数を同数にすることはハードルが高かった。したがって、1970年代初めに設計されたエンジンであればあえて「等速」にしている可能性は少ないと考えるべきだろう。

70頁「(写真説明)409-200359のフレーム打刻からも'77年製造のTZ750Dと考えたい」
(本文1段目)TZ750D/E/F〜合わせて250台超という生産台数は〜」

 〇量産型のフレーム番号は101から始まるので、359は259台目になる。
 〇1978年3月、菅生で行われたTZ750E、つまり1978年型TZ750の購入チームに対する講習の記事(モトライダー誌)では次の4台が記されている。なお、1978年3月頃にこのような講習会が複数回開催された模様。

  409-200331  409-200333  409-200334  409-200341

 このようなことから、409-200359は1977年型とは考えられず、1979年型の可能性が高い。

「(TZ750Dがファクトリーマシン0W31の)フルコピー=同一機種とすれば、市販車でなければ出場できないレースにファクトリーマシンで参加できるというメリットもあった」
「F750シリーズも、最後の'79シーズン以外は「25台以上製造されたマシン」というホモロゲーション規定があり、そこに5台程度しか在しなかったYZR500が出場できたのは、TZ750の改造車として認められたからである」

 「25台以上製造されたマシン」は「25台以上製造されたマシンのエンジンを搭載する車」の誤り。F750の車体は市販車と同型である必要はない。逆に車体が市販車と同じであってもエンジンが異なればF750に出場できない。

 「(エンジンも車体も)市販車でなければ出場できないレースに出場した0W31」があったとは思えない。少なくともF750、全日本選手権、トランス・アトランティック・トロフィー(イギリス)ではない。

 YZR500のエンジンは「25台以上生産された車のエンジン」ではなく、排気量も最低排気量規定(501t、1977年以降)未満のため、YZR500はF750選手権に出場できない。

 日本国内でポイント対象となるのはMFJ公認車両、FIM-F750認定車(1976年に規定に追加)で、YZR500はどちらにも該当しないが、ポイント対象として出場はできた。

 記事の「YZR500が〜TZ750の改造車と認められた」は、ライター氏の「全日本750tはF750で、1978年、1979年にYZR500がポイント対象として出場していた」との認識によるようだ。1980年以前、日本でYZR500が走ったレースは1974・1975・1980年日本GPのみで、何れもポイント対象外なのだか。

71頁「〜TZ750の純正キャブはパワージェットを装着していなかったので、後年のTZ500用VM34SSPJを取り付けたものと思われる」

 TZ500発売前の1979年シーズン、パトリック・ポンスの乗ったTZ750のキャブレターはパワージェット付きだった(MOTOCOURSE1979-80掲載写真)。

73頁「(左上写真説明)Austria」 

 この風景はオランダ。

76頁「(1段目)(ケニーの腕はあるし、あの頃は彼だけにグッドイヤーやオーリンズのサポートが付いていた」 

 ロバーツがGP500でグットイヤーを用いたのは1978-81だが、ヤマハのオーリンズ後クッションユニットが装着されたのは1983年シーズンから。

80頁「〜欧米を主戦場としていたファクトリーマシンは、(国内は)テストやプロモーションを兼ねての出場だったので、シリーズ全戦を走るものではなかった。特に当時のヤマハの場合は富士のクラブマンレース〜に出場を限定していた」

 ヤマハのライダーがTZ750でMCFAJのフジのレースで出場したが、「国内市販されていなかったTZ750はファクトリーマシン」というのがライター氏の認識か?
 なお、1974年に富士スピードウェイで行われたMCFAJの第19回クラブマンレース(4月)、フジ・プロフェッショナルレース(5月)で河崎裕之がTZ750に乗り優勝した。当時のMCFAJのレース全てがクラブマンレースではない。

「したがって観客や関係者の注目は〜年に1度が2度、鈴鹿などで実現する大排気量ファクトリーマシンの戦いに注がれた。とくに、'72年のカワサキH2Rに続いて'74年にヤマハTZ750が販売されると、エントリー台数も増え〜」

 H2Rは国内市販されずTZ750の国内市販は1977年からなので、1974年頃は両車ともポイント対象ではなくFL=フォーミュラリブレだった。

「(写真説明)'74年の日本GP〜YZR750(モノサス仕様の0W19と思われる)に乗る河崎裕之がコースレコードを更新しシーズン5連勝〜♯12は〜高井幾次郎」

 「1974年の第1戦(鈴鹿、4月)〜TZ750に乗る河崎裕之がコースレコードを更新しシーズン1勝目〜♯12は〜高井幾次郎」の誤り。普通の位置にクッションユニットが写っているし、高井幾次郎は日本GPを欠場した。

 河崎はTZ750に乗り全日本選手権第1戦で優勝、2分24.6秒のコースレコードも記録した。第2戦(鈴鹿、6月)も優勝、第3戦(筑波)は欠場。第4戦(鈴鹿200マイル)は予選で転倒し負傷、第1ヒートはリタイア、第2ヒートは欠場し、第5戦(筑波)は欠場。第6戦(最終戦日本GP、鈴鹿)では0W23に乗る本橋明泰がレース中に2分24.2秒のコースレコードを記録、YZR750(モノサス仕様)に乗る河崎が最終周に2分23.6秒とコースレコードを更新したものの4位、本橋が優勝。
 このように河崎は全日本でシーズン序盤に2勝し、さらに前述のようにMCFAJのレースで2勝(4月、5月)したので「(MFJとMCFAJのレースで)出場4連勝」だった。

80-81頁「〜翌'73年にカワサキの和田正宏がH2Rで更新、同時にこのふたりの激しい一騎打ちは歴史的対決として語られている。この戦いにピリオドを打ったのは'74年にYZRを持ち込んで参戦レースで5連勝を遂げた河崎裕之だったが〜」


 二人の一騎打ちは全日本第2戦(鈴鹿、4月)の1戦のみ。第3戦(鈴鹿)以降、隅谷は欠場、最終戦(第6戦)日本GPで和田は予選で2分25.0秒を記録するものの雨中のレースは転倒リタイア、久しぶり出場の隅谷はピットインリタイア。という訳で「ピリオドを打ったのは隅谷+ホンダRSC」自身。

 「河崎〜5連勝」は4連勝の誤り。前項参照。

81頁「●'73年/和田正宏〜(日本GP・レース中)」

 レース中ではなくプラクティス中。レースは雨だった。

「(写真説明)これは'79年のTBCビッグロードレース〜YZR500と思われる」

 1976〜1979年の日本国内レースでYZR500が走っていなかったことを知らないのに記事を書く度胸のあるライター氏です。そもそも、このマシンがYZR500に見えるか?
 なお、この頃のTBCビッグロードレースは春と秋に行われていたが、これは1979年春(5月)のもの。

82頁「〜この世界GP500に5戦出場し〜」

 「4戦」の誤り。第1戦フランス〜第5戦イタリアまで出場したが、第2戦スペインに500tレースはなかった。18頁写真説明で「第4戦イモラを最後に帰国〜」とあるのは「500t第4戦」の意味で、「500t第4戦イタリア(イモラ)を最後に帰国〜」とすれば、なおよい。

「全日本=ヤマハ 双璧は金谷と高井〜〜全日本は完全にヤマハの時代になる〜'75年の出来事として〜全日本第4筑波〜二人(片山(ヤマハTZ350)と清原(カワサキKR750)は〜結果的に清原が優勝し、ヤマハの中でカワサキが存在感を示した」

 1975年全日本750tは全9戦でカワサキの清原が筑波で3勝、鈴鹿で1勝、和田が鈴鹿で2勝したが、カワサキKR750はFLとしての出場で、ヤマハの浅見貞夫が750tクラスのチャンピオンになった。ライター氏は「年間チャンピオンはヤマハのライダー→ヤマハの時代」としたのだろう。各レースの結果を確認したら「ヤマハの時代」とは書けないはず。

「'76年、'77年のトピックはスズキから市販レーサーRG500が市販され、同時に河崎裕之がスズキに移籍したことだろう」

 1976年に市販レーサーRG500が海外で発売されたが、MFJ公認車となり国内一般市販されたのは1980年。1976年シーズン、安良岡健が市販RG500で国内レースに出ていたが、安良岡が購入したのかスズキから貸与されていたのかは不明。河崎がスズキに移籍したのは1976年シーズン後。

82頁終〜83頁「金谷が記録した2分16秒〜」

 「2分16.2秒」の誤り。81頁参照。

83頁「●'78年 高井幾次郎 YZR500〜日本GP」、「〜自ら開発した0W35Kを駆った高井が優勝」

 「YZR750」、「0W31」の誤り。

●'79年 金谷秀夫 2分14秒67 YZR500」

 「2分14秒05(レース中)」とすべき。2分14秒67は公式予選のタイム。
 「YZR500」は「YZR750」の誤り。

「水谷勝(この年の全日本F750チャンピオン)」

 「全日本750tチャンピオン」の誤り。

「F750が終了し'80年からは全日本500が制定されTZ500が販売される」

 全日本はF750ではないし、全日本選手権750tクラスが500tクラスになったのは1981年。1980年は750tクラスのままでTZ500は菅生(第3戦)で姿を現してから少しずつ出走台数を増やし、日本GPでTZ750に乗ったのは佐藤順造だけだった記憶。つまりTZ750も走っていた。38頁最後の記述が正しい。83頁左端の結果表参照。MFJの歴代チャンピオン(リンク)でも1980年は750tクラス。

84頁「(1段目)〜同じくピストンバルブ用のプリテストエンジン・0W37を上回る性能〜」

 
0W37はレースで用いられたマシンである。ヤマハは「〜東南アジアのレースを席巻した125ccファクトリーマシン「0W37」」としている(1983年 TZ125R(0W37改) - コミュニケーションプラザ | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com))。

「0W48レプリカの5Y9が計画され、その先行開発と0W54のバックアップを兼ねた0W53の開発も同時にスタートした」

 
1981年に木下恵司が乗ったスチールフレーム・2気筒後方排気の500t4気筒マシン(公認車両TZ500の改造車としてポイント対象)が忘れられているが、このマシンが1982年型TZ500(5Y9)のベースになっているように思う。

「OW53について)クランクケースは5A0のものをベースに〜同じ砂型鋳造マグネシウム合金クランクケースでありながら、一貫してYZR500は無塗装/TZは黒塗装だったのに、0W53のクランクケースが黒いのは、このためだ」

 
このライター氏、自身が記事を書いた14頁下の前方排気のYZRのクランクケースが黒いことに気が付いていない。このマシンは(1979年というのは誤りで)1980年型の0W48。そして、0W48Rもクランクケースは黒い。つまり、TZ500が登場した1980年シーズンからYZRもTZのクランクケースを使用していた。つまり上の記述は誤り。

「(2段目)シリンダーはTZ500と同じ鼓型YPVSバルブを持つタイプが53/53Pの標準」

 
1981年日本GPで高井が乗った0W53は鼓型バルブだったが、0W53Pは浅見のマシンDulmenのマシンもフラットバルブ。フラットバルブが例外のような書き方はいかがなものか。

「わざわざスタッドボルトを移植するという大きな手間をかけてまでフラットバルブ用シリンダーを装着した例もある」

 
すでに1980年の0W48でもそうだった。そもそも分離締シリンダーであってもフラットバルブYPVSにすることはできる。むしろ鼓型YPVSは分離締シリンダーでなければならず、並列4気筒の整備性を損ねていた。

「浅見はノーポイントに終わった」

 
76頁に「'81年は最高位10位、ランキング26位」とある。最高位10位1回の1ポイントだった。

98頁「〜'80年には〜最終戦西ドイツGPでカジバ1C2を〜多くのエンジンパーツにTZ500の純正部品を使いながら、クランクケースはオリジナルで、吸入方式をロータリーディスクバルブにした異例の構成」


 エンジン写真は1981年型だが・・・1980年型はピストンバルブ、つまりTZ500のクランクケースがそのまま用いられたようだ。
 
「(最下段)1970年にすでにTZ350×2基」

 TZ350発売の3年前だが?


参考 1977年MFJ規則書に掲載されたFIM-F750公認車両
 
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