RACERS Volume 42

 

表紙
〇「6年間で8度のタイトル、73勝の荒稼ぎ」

 48〜51頁の1978〜82のレース結果表で優勝回数を数えると70になる。1977年250tクラスの2勝を加えても72にしかならない。1983年のHervé Guilleux による1勝が73勝に含まれる。「73勝」とするなら7年間、「6年間」とするなら72勝が正解。

8頁
〇「’66年のA1Rで始まったカワサキによるアメリカでのレース活動」

 ’67年の誤り。

〇「この年(注:1969年)のデイトナ200には〜H1R(500t)を投入」

 H1Rがデイトナに初出場したのは1970年。

 ライダースクラブ1983-11によるとH1がデイトナ200に登場したのは1969年で、ライダーはデイブ・シモンズ(記事はランディ・ホールによる)。また、Kawasaki RACERS  by Ian Falloon, 2001 Haynesでは” Four modified  H1s made the starting line at Daytona only weeks after the bike was available”、"〜in December 1969, a limited production road racer, H1-R, became available" したがって、「H1R」がデイトナに出場したのは1970年から。
 なお、この写真http://ozebook.com/bikes/wp-content/uploads/2014/03/daytona-69sm.jpgからはシモンズのマシンはH1RではなくA7Rにも見える。
       
9頁
〇1975年型:601A、1976年型:601Bとされ、写真のマシンの大半が601Aで、左下のオランダGPのマシンが(後サスペンションアームが丸パイプなので)601Bとされている。

  実は1975年シーズン前のマシンには2種類ある。左は広報写真で、このマシンが8〜9頁の大半のマシンと同じ と思われる。ただし、デイトナでは後クッションユニットが変更された。

 右もシーズン前にテストされたマシン。 排気管の取り回しが異なることにすぐ気が付くが、後サスペンションアームも丸パイプで、フレーム自体も異なる。このマシンが9頁左下のマシンと思われる。

 

 そんな訳で、ライター氏は当時のことをあまり知らないまま想像で記事を書いているようだ。本当に1975年型:601A、1976年型:601Bなのだろうか。

48頁

〇1979年の後半、マモラのマシンがビモータ・ヤマハになっているが、マモラはシーズン中盤でチームを離脱し、SERGE・ZAGOチームのヤマハTZ250(スタンダードに近い)に乗った。それ以外にも1978年イギリスGPで、マングが「GBR」になったりしているので、48〜51頁から引用するときは要注意。

50頁
〇「350tに4気筒マシンが出場できるようにしたのは、4ストローク並列4気筒エンジンを搭載したMVアグスタに対する救済策だったとも考えられ」

 このレギュレーションが決まった当時、MVアグスタの350tレーサーは(有名な)3気筒だったし、ホンダ撤退後の1968以降1971年まで3気筒でタイトルを手にした。

70頁
〇「リンクに直接接合する三角形のスイングアームは最終の’82年型のみ採用」

 1980年、バリントンが乗ったKR250の後サスペンションアームに2種類あり、新型が三角形アーム。シーズン後半のフィンランド、イギリス等で確認できるが、バリントンは旧型を好んだようだ。

 ところでライター氏は「接合」の意味を知っているのだろうか?

71頁

〇後サスペンションのロッカーアーム(ベルクランク)が70頁のマシンと異なり、サスペンションアームに補強が入っていること等々から「’83年向けの先行型」という解説がされている 。

 70頁の後サスペンションアームが80年型である可能性が高い以上、大きな疑問符が付く。なお、RACERS Volume 06 36頁に、鈴木健氏が「カワサキのGP撤退の決断を知ったのは(1982年)7月くらい」とあるので、KR250に’83先行開発型が存在した可能性はそもそも低いと思われる。

74頁

〇写真D説明の「オイルポンプ」は「水ポンプ」の誤り。

78頁
〇平松氏、阿部氏が小島松久氏の誘いで1976年10月のF1世界選手権イン・ジャパン(富士)に行き、そこで見たブラバムBT45のフロントサスペンションにヒントを得て、平松氏がカワサキKR250のユニトラックサスペンションを設計したことが書かれている。

 一方、14頁には、「前年(注:1976年)秋の全日本・日本GPで'77年型プロトタイプ(ユニトラックサスが投入され」とある。1976年の雑誌にも日本GPでのユニトラックサスペンションのKR250の写真が掲載されており、これは事実。

 開催日は、F1世界選手権イン・ジャパン:10月24日、二輪日本GP:10月9・10日(250tクラスは9日)。したがって、78頁の記述は誤り。誰も10月24日の数日前のプラクティスで見たF1マシンのサスペンションにヒントを得て、その2週間前のレースに出場したマシンのサスペンションを設計することはできない。

  実は平松氏自身が勘違いしている。ロードライダー誌2010-4でも「富士のF1でブラバムのフロントリンケージを見たんですね。BT44だったかなあ」、「KE007とゆーF1マシンで富士に参加してたんでボクとアベを手伝いに来いと呼んでくれたんですよ〜〜〜すぐに試作に入りました」とある。後段は明らかに1976年のこと。RACERSのライター氏は、この記事をベースに「1976年だからBT44ではなくBT45」と修正し、ユニトラックとは似ても似つかぬBT45のサスペンションの図まで作成したのだろう。
 
 私の結論は次のとおり。

1 平松氏は8月6日、フジで行われたF1公開テストに行った。テストで走ったのはコジマKE007(長谷見選手)とティレル007(星野選手)。
2 平松氏はティレル007の前サスペンションに着目した。ティレルの前サスペンションは次のとおりで、ユニトラックと同じベルクランク。http://www.classiccar4you.com/classic-cars-gallery/?album=823&gallery=1286&pid=12460 平松氏はティレル007前サスペンションの形にヒントを得てユニトラックを設計。
3 ブラバム云々は全く別の話で、平松氏の記憶は2つの話をごちゃ混ぜにしたもの。

 なお、BT44は1974年11月24日のF1デモ走行で、マクラーレン、ロータス、ティレル、ヘスケスと共にフジを走っている。この時に平松氏がヒントを得たとするなら、ユニトラック登場まで2年近く要したことになる。

86頁
「シリンダーのFの文字も後期のものである(シリンダーの仕様はA〜Fまでは順番通り、その後M/R/Sと進む)」

 写真では、前シリンダー/シリンダーヘッドに「F」、後シリンダーヘッドに「R」とマジックペンらしきもので書かれている。このF、Rは単にfront、rearの略で、前後で別々に管理していただけ。シリンダーを観察すると前:M-5、後:M-2と刻まれており、これが仕様を表している。

89
〇1次慣性力は往復運動部分の慣性力で、次の式で示される。

 F=質量×クランク半径×(2×3.14159×rpm/60)2×cosθ(θ=上死点からの回転角)

 しかし、この頁の記述では、クランクのバランスウェイトの遠心力も1次慣性力としている。また、タンデム2気筒の慣性力の釣合はクランクのバランス率の設定により変わるのだが、バランス率への言及はない。最大1次慣性力の50%が釣り合うバランスウェイトとすると、360度クランクでは上下死点で気筒当たり最大1次慣性力と同じ不釣合が上下方向に働くのだが、図や説明では表現されていない。
 そんな訳で、分りにくい文になっている。

94頁
〇Morbidelliの写真説明で「木工業」となっている。Italian Racing Motorcycles by Mick Walker, Redline 2000では、”During the 1960s the young Morbidelli built up a thriving woodworking machinery factory in his home town of Pesaro" とある。つまり、「木工業」ではなく「木工機械製造業」。当時の雑誌でも木工機械メーカーとされていたし、現在でもMorbidelliの木工機械が製造されている。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%87%E3%83%AA では「木工業」になっている。この日本語版は英語版https://en.wikipedia.org/wiki/Morbidelliの”The firm began as a woodworking shop building furniture and wooden coach bodies for automobiles”を訳したようだ。英語版と同じ記述を他サイトでもよく見かける。一方、 英語版の出典のリンク先では、”Giancarlo Morbidelli used his huge woodwork machinery firm to finance production of some superb race-bikes”となっている。

〇同じく「'78年には〜MBAが設立された」とあるが、MBAが製作したレーサーがレースに登場したのは1976年(つまり市販開始は1975年末か1976年)なので、「設立」はおそらく1975年。なお、MBAの「BA」はBenelli Armi(銃器メーカー)。単に「ベネリ社」であればバイクメーカーのベネリになると思う。

95頁
〇右下写真説明「♯30は’79のマモラ車」とあるが、エリク・サウル車の誤り。写真は’79シーズン終盤イギリスGPだが、マモラはシーズン途中でチームを離脱し、この時点でSERGE・ZAGOチームのTZ250に乗り替えていた。

〇右下写真説明「♯4は’80のラバード車」とあるが、セコット(チェコット)車の誤り。

〇片山が乗った3気筒について「コンストラクターは〜J.V.D.ヘイデン」とある。このマシンはヤマハ・モーターN.V.の田中氏を中心とする計画によるもので、Ferry Brouwer、Jerry Van der Heidenが計画に加わっていた。クランクケース等は、Rudi Kurth(すでにTZ350(2気筒)ベースの500t3気筒を製作し サイドカーレースに出場していた)が製作した。クランクシャフトは西ドイツのHoeckle製で、フレームは(途中から)ニコ・バカー製。仮にこのマシンの組立・製作を行った作業者がHeidenだったとしても、「コンストラクターはヘイデン」とするのは、コンストラクターの定義に問題があるように思う。

  別にお金をもらっている訳ではないので、これくらいにしておく。レース展開等については、全くチェックしていない。
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